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茨城県 阿見町 霞ヶ浦 ・ 予科練記念雄翔館

2017年07月11日 | 観光地でない旅行
 土浦駐屯地は、旧軍時代「霞ヶ浦海軍航空隊水上班」、その後の「土浦海軍航空隊」が配置されていました。旧帝国海軍のパイロットを育成するため、「海軍飛行予科練習生(予科練)」の教育訓練が実施されていました。駐屯地内には、今でも旧軍・予科練時代の施設等が残っています。

雄翔園
 予科練の碑建立に第6代学校長「岡 新次氏」が、予科練出身の英霊の鎮魂碑建立にあたり、予科練の碑及びその周辺を造園しました。

雄翔園入り口


玉砂利には綺麗に帚目が入れられています


予科練の碑 (碑の全景)
 予科練出身者の同窓生が全予科練戦没者の遺徳を顕彰するため、昭和41年5月27日に建立されました


近影


若鷲の歌 (若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨・・・)


園から雄翔館には赤い橋を渡っていきます


雄翔館
 予科練習生の生活や英霊の遺書、遺品等を永く保存して、その遺徳を後世に残すため、昭和43年11月24日に雄翔館が建設されました。 とても小さな建物です。


玄関脇には山本五十六連合艦隊司令長官の立像
【山本五十六元帥像】
 昭和18年秋から昭和20年終戦時まで設置されていた山本元帥の銅像は、米軍に汚されることを恐れ二つに割られ、上半身は昭和23年に発見され、現在、江田島に保管されています。下半身は平成14年6月10日、台座の横(常在戦場の碑)付近の土中から発見され、平成16年1月、雄翔館前に新たに建立されています。


雄翔館の玄関
入館は無料です


運営者の挨拶文


玄関ホールには「予科練生の思い」が掲げられています


館の受付。 どなたもいらっしゃいません。


海軍の階級章
左の中段の兵曹長(下士官)の下に予科練生の章が見られます


展示物がずらりと。
上部には特攻で散っていった方々の遺影が並んでいます。




館内奥


遺影


19000人の18歳からの若人だった予科練生の多くが家族と国を護るために特攻で亡くなっていきました



展示ウインドウには19000余名の予科練生が搭乗して特攻に向かった種々の特攻兵器。
2度と戻れぬ特攻兵器に搭乗して出撃していった隊員の気持ちは今の私たちには想像もつきません。

特攻人間魚雷 回天


特攻潜航艇 蛟竜


特攻高速艇 震洋


特攻ロケット機 桜花


隊員のノート
死を前にしても几帳面に記載されておりその胆力が窺われます



予科練時代の勉学ノートと思われます


特攻を前に 家族に宛てた手紙


説明
家族に(遺族)宛てた手紙には 男女関係なし・借金無し等々 事後の憂いのないように書き残して死地に赴いている隊員が多かったようです


ご両親様お元気ですか
私は元気旺盛です
私は20歳を一区切りに悠久の大義に殉じます
ご両親様お身体をお大事に
永久にさようなら
天皇陛下万歳

【大昔から身内の殺し合いの時以外は、天皇はずっーと、いつでもお元気ですけど…? 国の為に親や妻子を捨てて死んでいった特攻隊員も喜んでおられるでしょうか…】


特丙予科練生
予科練生には日本人でない台湾と朝鮮から志願した各50名づつ抜擢され、特別丙種予科練生として採用されていました。


台湾出身の予科練生が生まれた国が違うばかりに日本への忠誠を持ちながら嘆いた手紙も残っています。
『何の定めか知らねども 生まれが台湾なる故に 異籍の民と君は言う 哀れ男の子よ泣けば泣け 君の為にと誓い来て 何の務めも為し得ずと おのが心を咎めども かくなる事をば誰か知る』

甲種、乙種の予科練生と気持ちの面では劣るところのない 台湾人の予科練生の日本を想う心が滲み出ている文章です。台湾・朝鮮の予科練生は特攻には出られませんでしたが戦後処理に活躍したそうです。台湾の方々は今でも日本の統治時代を感謝している人が大勢います。

仲間同士で散髪する予科練生
精神、身体ともに強靭な予科練生とは云え、素顔は18歳からの若い子供たちが親に先立つ不孝を詫びながら唯一靖国神社で会うことだけを願って自分の命を日本とアジアのために捨てていったのだと思うと現在の繁栄を謳歌できる幸せを感謝することしかありません。


きっと桜咲く靖国神社に来てくださいね (戦死した18歳の隊員)


21歳の心身健康な若人が一世一代の晴れ舞台と言い残しています

【天皇陛下万歳と言い残して天皇と国の為に命を投げ出した若者が眠る靖国神社に天皇とその一統はお詣りなどしませんけど…】

海軍航空隊の航空服


特攻に向かう予科練生が自分の兄に宛てた手紙
『武人の本懐これにすぐるものはありません、母上には絶対に秘密にして、ただ元気にしているとお伝えください。家内ご一同様のご健康を祈り擱筆(かくひつ)します』


隊員による永別の辞
親のことを心配するより国のことを心配して私は逝きます。最後に叔母様へ、私の父母の幸を願っています。
叔母と伯母の意味や使い方、終わりと書きたくないのか、尾張と記載…



特攻の生みの親とされている大西中将

大西 瀧治郎 (1891年6月2日生、1945年8月16日終戦時に東京渋谷南平台町の官舎にて割腹自決、満54歳)
神風特別攻撃隊の創始者とされている最終階級は海軍中将。

昭和49年になっての天皇から下賜された勲章と賞状


勲章・旭日大綬章
皇族にすれば取るに足らない勲章ですが、国民には手の届かない夢の勲章です


勲一等旭日大綬章の箱


大西中将の旭日大綬章の説明


大西中将の心意気と苦しい心情
大西中将の遺書「特攻隊の英霊に曰す」は、自らの死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝すとし、また一般壮年に対して軽挙妄動を慎み日本の復興、発展に尽くすよう諭した内容であった。
最後には「これでよし百万年の仮寝かな」と辞世の句

神風特別攻撃隊の創始者であるが、神風特攻隊以外も含む「特攻」については、それ以前に中央で研究されていた。

大西中将は、もっとも日本の戦力を知っており、重油、ガソリンは半年も持たず全ての機能が停止する、もう戦争を終わらせるべきである。
講和を結ばなければならないが、戦況も悪く資材もない現状一刻も早くしなければならないため一撃レイテで反撃し、7:3の条件で講和を結び満州事変のころまで日本を巻き戻す。
フィリピンを最後の戦場とする。
特攻を行えば、天皇陛下も戦争を止めろと仰るだろう。
また、この犠牲の歴史が日本を再興するだろうという。

「日本精神の最後の発露は特攻であり特攻によって祖国の難を救い得る」と確信していたという。
特攻を続ける理由を聞かれた大西は「会津藩が敗れたとき、白虎隊が出たではないか。ひとつの藩の最期でもそうだ。いまや日本が滅びるかどうかの瀬戸際にきている。
この戦争は勝てぬかもしれぬ、ここで青年が起たなければ、日本は滅びますよ。
しかし、青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びない
のですよ」と答えた。

◎吉岡忠一は「もうそれしか方法はなかったと思う。大西は勝っても自刃しただろう」と話している。

◎源田実は「大西の立場に立たされば、山本五十六も山口多聞も同じことをやったろうし、彼ら自身が特攻機に乗って出撃しただろう。それが海軍軍人である」と話している。

◎門司親徳は「若ければ大西も隊長として真っ先に特攻へ行っただろう。大西は彼らだけ死なせるつもりはない。


阿見町教育委員会による説明板

神風と書いて 神風 (しんぷう) と呼ばれていたのも初めて知りました。恥ずかしい限りです。
 国難にひるまず国に殉じて現在の世界有数の繁栄の礎を築いていただいた先人に感謝いたします。合掌。
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