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2017-07-14 13:10:38 | 日記

シベリア出兵の際、鳥居は「シベリア出兵の目的如何ということはともかく、余はこれによっても日本の勢力がここまで及んで来て居るということを感じて、シベリア出兵があながち無意味ではないことを考えたのである。これを利用するの如何ということは、日本人の任務であって」とのべている[14]。また、「日鮮同祖論」をとなえ、「日鮮人の場合は、同一民族であるから、互いに合併統一せらるるのは正しきこと[15]」とのべた。
ただし、鳥居は日本の植民地政策に積極的に加担したわけではなく、もっぱら調査をもとめたその結果が日本の拡大政策と一致したという評価である。その一端は「私たちが蒙古に来たのは軍国主義の使命を果たすためでなくて、蒙古人に親しみ文化的に彼らを教育すると共に、私の専門とする人類学・考古学をこれから研究せんがためであった[16]」などの表現にあらわれている。
このアンビバレントな状態を「植民地統治に無縁でもなく、かといってそのイデオローグでもなかった微妙なグレーゾーン上に鳥居は立っていた[17]」と評するむきもある。
鳥居は日本における人類学の草分け的存在で、彼ほど東アジアをくまなく駆け巡った学者はいない[要出典][18]。鳥居の研究テーマの根幹にあったのは「日本人のルーツ」であり、その研究は人類学のみならず、考古学・民俗学・民族学にまでひろがり、対象も非常に広範であった。そのため、鳥居は後に「総合人類学者」とも呼ばれている。
東アジアの各地で観察学的にはこれほど綿密な調査がほかになかったため、鳥居の研究報告と写真は現在でも第一級の資料となっている。一方、ミャオ族の調査報告書以降は民族誌的表現から紀行文的な表現へとおおきく舵を切ったことと、短時間でおおくの場所をまわるというその手法のために、風俗習慣の奥にある価値観をさぐるという行為にいたっておらず、「深みがない」との評価もうけたが、鳥居は、欧米の学者は、まず旅行記を書き、後で論文、これをよい方法と思い、だからまねた、と述べている[19]。
さらに、関野貞との見解の違い(朝鮮研究で、大同江畔の古墳を、「関野貞が、はじめ高句麗のものとなしたに対し、漢代楽浪郡治のものとなした」。漢代楽浪古墳と朝鮮のこの古墳を結びつき、当時の史学者たちより正確に、漢人の朝鮮移住事実を指摘。これは、鳥居の朝鮮研究と中国研究における大きな業績でもある。)[20])もあり、東京帝大を辞職単独研究の鳥居は、考古学分野においても、実績相応な積極的評価をうけたとは言い難い。また、このような立場からその成果を、「幼少期の一途なマニアが、老いても無邪気なままのマニアであった[21]」と、「マニア」で片付けられた「実績評価」もあった。
一方、人類学民族学の本家国立民族学博物館の評価では「鳥居瀧蔵は、日本で人類学を学問として定着させた東京人類学会の発足、東京帝国大学の人類学教室の創設などで重要な役割を果たした坪井正五郎の下で人類学を学び、日本で最初に人類学の現地調査を海外でおこなった研究者である。鳥居は、中国東北部、台湾、千島、中国西南部、蒙古、朝鮮半島、ロシアのシベリア、さらに中南米と幅広く現地調査をおこない、現在でも評価の高い人類学者である」と評価している[22]。
考古学者・東洋学者の斎藤忠は、鳥居の生涯及び業績について以下のように評価している。
日本及び大陸を中心として、高邁な識見の上に立って積み上げた学問的な数々の業績、しかも自ら前人未踏の大陸の各地に足を踏み入れ、苦労を冒しつつ、一家をあげて学問的開拓をなした業績」「博士こそ日本人類学史上、考古学史上或いは民族学史上、まことにユニークな偉大な存在」「博士が『手記』の中に記した結語の一部を紹介して結びとしたい:
「私は学校卒業証書や肩書で生活しない。私は、私自身を作り出したので、私一個人は私のみである。私は、自身を作り出さんとこれまで日夜苦心したのである。のみならず、私の学問も私の学問である。そして、私の学問は妻と共にし子供たちと共にした。これがため長男龍雄を巴里で失った。 かくして私は自ら生き、またこれからもこれで生きんと思う。 かの聖人の言に《朝に道を聞いて夕に死すとも可なり》とある。私は道学者ではないが、この言は私の最も好む所で、町の学者として甘んじている。」[23]

— 斎藤忠『鳥居龍蔵の業績』
鳥居の収集した資料の多くは現在、徳島県立鳥居記念博物館その他に収蔵されている。
年譜[編集]
1870年(明治3年) - 現在の徳島市に生まれる。
1886年(明治19年) - 結成されたばかりの東京人類学会に入会する。
1890年(明治23年) - 東京人類学会の坪井正五郎を頼って単身上京する。坪井は英仏留学中であったため、同郷であった小杉榲邨の世話となる。
1892年(明治25年) - 一家で東京に移住。
1893年(明治26年) - 東京帝国大学人類学教室の標本整理係の職に就く。
1895年(明治28年) - 東京人類学会より派遣され、初の海外調査(遼東半島)。
1896年(明治29年) - 台湾の先住民の調査。初めて写真機を持っていく。以後、1900年まで断続的に4回調査を行う。
1898年(明治31年) - 東京帝国大学の助手となる。
1900年(明治33年) - 台湾調査の傍ら、新高山(現・玉山)の登頂に成功。異説はあるものの、記録上これが玉山初登頂となっている。
1901年(明治34年) - 坪井正五郎と、小杉榲邨との媒酌できみ子(戸籍上はキミ)と結婚。
1905年(明治38年) - 東京帝国大学理科大学講師に任命。
1906年(明治39年) - きみ子が蒙古カラチン王府女学堂の教師に招かれる。同年、龍蔵も同男子学堂教授となる。
1918年(大正7年) - 武蔵野会(現・武蔵野文化協会)を創設し、機関誌『武蔵野』を創刊する。
1920年(大正9年) - パリ学士院からパルム・アカデミー受賞。
1921年(大正10年) - 「満蒙の有史以前」の研究で文学博士を授与。
1922年(大正11年) - 東京帝国大学助教授となる。
1923年(大正12年) - 國學院大學教授就任。
1924年(大正13年) - 東京帝国大学を辞職し、鳥居人類学研究所を設立する。
1928年(昭和3年) - 上智大学の設立に尽力。文学部長・教授となる。
1933年(昭和8年) - 國學院大學を辞職。
1939年(昭和14年) - ハーバード燕京研究所の招聘で、研究現場の北京に赴任(「客座教授」名義)(『鳥居龍蔵の生涯』、徳島鳥居記念館)。
1941年(昭和16年) - 太平洋戦争勃発。日米開戦で、ハーバード燕京研究所は閉鎖。(『鳥居龍蔵の生涯)』徳島鳥居記念館)北京において、不自由な状態におかれる。
1945年(昭和20年) - 日本敗戦により、大学再開。再び客座教授となる。
1951年(昭和26年) - ハーバード燕京研究所を退職し、帰国する。
1953年(昭和28年) - 東京で死去。82歳。
1959年(昭和34年) - きみ子死去。龍蔵と共に徳島県立鳥居記念博物館の、ドルメン型墓碑に葬られている。
1965年(昭和40年) - 龍蔵ときみ子の2人揃って、鳴門市名誉市民に顕彰される[24]。
主な著書[編集]
『千島アイヌ』吉川弘文館、1903年。
『人種学』大日本図書、1904年。
『苗族調査報告』1907年。
『蒙古旅行』博文館、1911年。
『蒙古及満洲』冨山房、1915年。
『有史以前乃日本』磯部甲陽堂、1918年。
『武蔵野及其周囲』磯部甲陽堂、1924年。
『人類学及人種学上より見たる北東亜細亜 西伯利, 北満, 樺太』岡書院、1924年。
『日本周囲民族の原始宗教 神話宗教の人種学的研究』岡書院、1924年。
『武蔵野及其有史以前』磯部甲陽堂、1925年。
『人類学上より見たる我が上代の文化 第1』叢文閣、1925年。
『有史以前の跡を尋ねて』雄山閣、1925年。
『人類学上より見たる西南支那』冨山房、1926年。
『極東民族 第1巻』文化生活研究会、1926年。
『上代の東京と其周囲』磯部甲陽堂、1927年。
『満蒙の調査』万里閣書房、1928年。
『満蒙を再び探る』鳥居きみ子共著、六文館、1932年。
『満蒙其他の思ひ出』岡倉書房、1936年。
『遼の文化を探る』章華社、1937年。
『黒竜江と北樺太』生活文化研究会、1943年。
『ある老学徒の手記』朝日新聞社、1953年。
『日本考古学選集6・7 鳥居龍蔵集』 築地書館、1974年。(斎藤忠編)
『鳥居龍蔵全集 全12巻』 朝日新聞社、1975-77年。
『中国の少数民族地帯をゆく』 朝日選書、1980年。
『ある老学徒の手記』岩波文庫、2013年。(解説田中克彦)
脚注[編集]
^ a b c d e f g 天野郁夫 『学歴の社会史…教育と日本の近代』 平凡社〈平凡社ライブラリー〉(原著2005年1月6日)、初版、84-88頁。ISBN 4582765262。2009年1月22日閲覧。
^ a b “鳥居龍蔵、小学校卒業していた 人類学者、自伝には「退学」”. 徳島新聞. (2016年1月22日) 2016年1月23日閲覧。
^ 斎藤忠『鳥居龍蔵の業績』[要検証 – ノート][要ページ番号]
^ 原田淑人、「鳥居博士の思い出」、徳島県立鳥居記念博物館編 (pdf) 『鳥居龍蔵博士の思い出』 徳島県立鳥居記念博物館、1970年3月20日、6頁。
^ 斎藤忠『鳥居龍蔵の業績』 [要ページ番号]
^ 『中国西南少数民族地帯を行く』
^ 中薗英助『鳥居龍蔵伝―アジアを踏破した人類学者』p. 128.
^ 金関丈夫「弥生時代の始まり」260頁(佐原真、ウェルナー・シェタインハウス監修、独立行政法人文化財研究所編集『日本の考古学』上巻 学生社 2007年4月)
^ 斎藤忠『鳥居龍蔵の業績』 [要ページ番号]
^ 斎藤忠『鳥居龍蔵の業績』
^ 斎藤忠『鳥居龍蔵の業績』
^ 鳥居龍蔵『ある老学徒の手記』
^ 『鳥居龍蔵研究』第1号
^ 『人類学及人種学上より見たる北東亜細亜』
^ 『鳥居龍蔵全集』12巻、pp538。
^ 『鳥居龍蔵全集』12巻、pp238。
^ 山路勝彦『近代日本の海外学術調査』pp47
^ 中薗英助『鳥居龍蔵伝―アジアを踏破した人類学者』
^ 『満蒙を再び探る』
^ 斎藤忠『鳥居龍蔵の業績』
^ 山路勝彦『近代日本の海外学術調査』pp51
^ 国立民族学博物館『鳥居龍蔵の見たアジア』佐々木高明
^ 斎藤忠『鳥居龍蔵の業績』
^ “名誉市民・市民栄誉賞”. 鳴門市. 2016年11月5日閲覧。
参考文献[編集]
山路勝彦『近代日本の海外学術調査』〈日本史リブレット64〉、山川出版社、2006年、ISBN 4-634-54640-X。
中薗英助『鳥居龍蔵伝―アジアを踏破した人類学者』岩波書店、1995年、ISBN 4-00-001519-2、岩波現代文庫、2005年。
田畑久夫『民族学者鳥居竜蔵 アジア調査の軌跡』古今書院、1997年。
田畑久夫『鳥居竜蔵のみた日本 日本民族・文化の源流を求めて』、古今書院、2007年。
関連項目[編集]
学歴#歴史 - 鳥居がいきた時代は独学で学問をする時代から学歴がものをいう時代への変遷であった。
徳島県立鳥居記念博物館
坪井正五郎
伊能嘉矩
外部リンク[編集]
ウィキメディア・コモンズには、鳥居龍蔵に関連するカテゴリがあります。
徳島県立鳥居記念博物館
東アジア・ミクロネシア古写真資料画像データベース(東京大学総合研究博物館)
典拠管理
WorldCat VIAF: 95210429 LCCN: n84112385 ISNI: 0000 0000 8402 2258 GND: 123605822 SUDOC: 075535238 BnF: cb14389882f (data) NDL: 00085489
カテゴリ: 日本の考古学者日本の人類学者日本の民俗学者日本のアジア探検家日本統治時代台湾の原住民族研究者東京地学協会の人物南洋協会の人物上智大学の教員國學院大學の教員東京大学の教員徳島県出身の人物1870年生1953年没
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最終更新 2017年4月3日 (月) 18:15 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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