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 西田幾太郎。座禅:20億年前、ミトコンドリアが人間の体に入ってきて、具合がいいから細胞内に共生するようになった

2016-10-15 22:31:53 | 哲学

      <西田幾太郎。座禅>

 座禅とは、存在が無から坐りなおすことです。

 直立二足をもっぱらとして文明文化を築いた歴史を、直ちに短絡ないしは終局させる。

 世界も存在も恋も男も、山も両親も音楽も、坐り込んだら何もない。

  しかし、座禅には座禅なら立ち上がる『出定』というものがあります。

 座禅が座禅のままであるなら、それはただのめいそうじょうたいになってしまう。 だから、どこかでガバっと立ち上がる。

 そして日常の作務をする。

 そしてまた迷って坐る。 

 こうしてしだいに結跏も出定も身についていくのです。 

 西田はこれに賭けました。

 不働の座禅が立ち上がったまま、そのままの形で哲学ができないかと観じたのです。 

 しかもヨーロッパ哲学の優れた論理や概念を取り込んで、そこへ『無』の哲学を持ち込めないかと考えた。

 片っ端から哲学書を読んでいます…。 

 そんなにしだが、(善の研究)を書く直前の明治40年、次女と五女をあいついで亡くしました。 これ禅機となり、覚悟になります。

 「名刹を思うて煩悶絶え間なき心の上に、一尺の冷水を浴びせかけられたような心持がして、一種の涼味を感ずるとともに、心の奥より秋に日のような清く温かき光が照らして、すべての人の上に純潔なる愛を感ずることができた。」と『思索と体験』に書いている。

 さらに、次のように加えました。

 「特に深く我心を動かしたのは、今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりしていた者が、忽ち消えて壷中の白骨となると云うのは、如何なる訳であろうか? 

 もし人生はこれまでのものであるというならば、人生ほどつまらぬものはない。   

 ここには深き意味がなくてはならぬ。」

 人生は、矛盾と葛藤の連続です。

 空海は「生まれ生まれて、死の初めに暗く、死に死に死に死んで、死の終わり暮らし。」と言った。

 自分にそんなものが渦巻いているのも、日本にそんなものが渦巻いているのも当たり前。 

 そこで西田は、その矛盾と葛藤の只中に「疑うに疑いようのない、直接の知識。」を見る気になります。

 人間にとって疑うことのできない確実なものとは何でしょうか?

 『自然』でしょうか? 『運動』でしょうか? 『真理』でしょうか?

 普通は、外界の事物や現象は我々の感覚や意識とは独立して確実に存在しているように思われます。

 主観がどうあれ、そういう客観的なものは実在しているように見えます。

 しかし、西田は、それだって疑おうと思えば、いくらでも疑えると考えた。

 だいたいそれらを実感している我々の感覚や知覚の実在性が、つきとめられない。

 そこで西田は、自分の主観と客観がまだわかれる以前の、又知・情・意の区別もまったくない「純粋経験。」というものを想定してみるのです。

 それゆえ『善の研究』の冒頭には、まずは「色を見、音を聞く刹那、未だ主もなく客もない。」と書きました。

 主客は同時とみたののです。

 これを侘数寄の茶の心に通じます。 

 道元の「朕兆未萌の自己。」にも通じます。

 「自己が生まれる以前のもの。」という意味です。

 道元の言葉通り、主客がそこにあったと言っても、その主客がいまだ分かれぬ以前をこそ、禅も茶も面白がったのです。 

 西田もそのことを哲学用語を駆使して、うんうん考え込みました。

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