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ゆy

2017-08-13 12:59:02 | 日記

(19世紀前期の駿河国の地誌、阿部正信著)では、住居が隣同士だったとも伝えている。後に後北条氏と同盟を結んだ際に氏規はその交わりの窓口となった。氏規の系統は、狭山藩として小藩ながらも廃藩置県まで存続。
^ 永禄10年(1567年)に今川氏真が鈴木重勝と近藤康用に所領を宛行した判物(『愛知県史』資料編11・566号)の中で氏真が「酉年四月十二日岡崎逆心之刻」における両者の戦功を評価する文言があり、氏真が酉年にあたる永禄4年(1561年)4月に岡崎城の松平元康が(今川氏視点から見て)反逆を起こしたと認識していたことが分かる。
^ 家康の名は源義家に由来するとも、伊東法師という人物が書経の中の句「家用平康」(家を用って平らかに康し)から命名したともいわれる。
^ 細川氏嫡流の当主は管領の地位に就くとともに代々右京大夫に任じられたことから「京兆家」と称されていた。これに対して管領を支える盟友的存在の守護大名が左京大夫に任じられており、足利義澄-細川政元期の赤松政則、足利義稙-細川高国期の大内義興、足利義晴-細川晴元期の六角義賢がこれに該当する。
^ 後年、義昭は天下の実権をめぐって信長との間に対立を深めると義昭の家康に対する呼称も「徳川三河守」と変わっている。
^ 一方で義昭が家康の徳川改姓を認めていなかったとする説もある。元亀元年(1570年)9月に三好三人衆討伐のために足利義昭から家康に宛てられたとみられる御内書[16]の宛名が徳川改姓・三河守叙任以前の「松平蔵人」になっており、これは松平改姓が将軍不在時に行われ、かつ義昭の従兄弟でありながら不仲だった近衛前久の推挙であったことに、義昭が不満を抱いていたとみられている[17][注釈 9]。
^ なお、武田氏は友好的関係にある織田信長を通じて信長の同盟相手である家康に武田との協調再考を持ちかけているが家康はこれを退けており、家康は信長からも独立した立場であったと考えられている。
^ これを遡る元亀2年4月には武田氏による三河・遠江への大規模な侵攻があったとされているが、近年は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは天正3年(1575年)の出来事であったことが指摘されている[18]。
^ 小説家の伊東潤は、「御館の乱での立ち回りによる甲相同盟の破綻と、高天神城に後詰を送らなかったことが武田氏滅亡の最大の原因であり、長篠の戦いでの敗北はそれに比べれば小さなものである」と主張している[要出典]。
^ 家康と朝日姫の婚姻について、当初家康側は朝日姫が家康の男子を生んだ場合、秀吉が徳川家の家督問題に干渉する事を警戒していた。同時代史料では確認できないものの、『三河後風土記』や『武徳編年集成』にはこの時家康が、①朝日姫が家康の子を産んでも嫡子とはしないこと、②長丸(後の秀忠)を秀吉の人質としないこと、③万一、家康が死去しても秀吉は徳川領5か国を長丸に安堵して家康の家督を継がせること、を婚姻の条件にしたとされる。①と③は実際起こらなかったものの、②については家康が秀吉の小田原征伐に従って北条氏と断交することを決めた天正18年1月に家康自身の意向で長丸を人質に差し出したものの、秀吉は同月のうちに長丸を帰国させている。秀吉は他の大名の妻子と異なる扱いを長丸に対して行ったのは、②の条件に基づく判断であったと考えられ、①と③の条件も実在した可能性が高い[25]。
^ もっとも、初期における家康の秀吉への臣従は不完全であったとする見方もある。軍事力によって家康を服属させた訳ではない秀吉は、徳川・北条両氏の同盟関係を破棄させる強制力を持たず、家康は秀吉と北条氏の間では「中立」的存在であった。このため、秀吉は西国平定を優先にし、家康との調整が必要となる北条氏討伐は先延ばしにされることになった[25][26]。
^ この官職は武家の名誉職で、一般の大名が帯びるられるものではなく、将軍の嫡子および実弟などのみに許されていたものである。
^ ルイス・フロイスによると、オルガンティーノは1588年5月6日付の書簡で、「坂東の戦は、7月にはすでに(挙行される)と言い触らされており、坂東の北条殿(の領地)が家康の領国に(加えられることに)なっていますから、それも暴君(秀吉)にとっては喜ばしいことではありません(原文:e o Fonjodano do Bandou vai entrando pelos reynos de Yyeyasu, couza de que o tirano se nâo pode alegrar.)」と書いている[30]。ただし、1588年には結局出兵は無く、2年後に持ち越しとなった。またこの訳文は松田毅一・川崎桃太によるが、原文は家康の関東移封ではなく、北条の侵攻を意味するという異論もある[31]。
^ 井伊直政・本多忠勝・榊原康政の知行割に関しては川田貞夫が豊臣政権によって配置・石高を指定されたとする説を唱えて、以後通説となっている。ただし、川田が主張した鳥居元忠・大久保忠世にも適用されたとする考えには、通説を支持する学者の間でもこれは認めないとする市村高男らの反論(井伊・本多・榊原家のみとする)がある。なお、こうした豊臣政権の大名家内部の知行割に対する関与自体は、上杉家における直江兼続の事例などがあり徳川家に限ったことではなかった[33]。
^ 『常山紀談』には、本多正信の「殿は渡海なされますか」との問いに家康が「箱根を誰に守らせるのか」と答えたエピソードが書かれている。
^ ただし、加賀征伐そのものが当時流布した根拠の無い風説に過ぎないとし、家康の大坂城入城とそれに伴う新体制(家康による事実上の専権)構築をめぐって、家康と利長の意見の相違が生じて一時的な緊迫をもたらしたとする説もある[37]。
^ なお出典の定かでない話ではあるが、これに先立ち、伊尾川(現・揖斐川)で家康自身が銃撃されたという伝承もあるという。詳しくは神戸町の項を参照のこと。
^ 豊臣家は摂家の一つにすぎないとされただけで、将来の豊臣秀頼の関白職就任が完全に否定されたということではない。
^ 家康の源氏復姓の時期については諸説がある(後述)。 清和源氏の出自でなくとも将軍職への就任には問題がなく、過去には摂家将軍や皇族将軍の例もあり、将軍になるには清和源氏でなければならないというのは江戸時代に作られた俗説である。
^

徳川家康征夷大将軍補任の宣旨

内大臣源朝臣 左中辨藤原朝臣光廣傳宣、權大納言藤原朝臣兼勝宣、 奉 勅、件人宜爲征夷大將軍者 慶長八年二月十二日 中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮奉

(訓読文)
内大臣源朝臣(徳川家康、正二位) 左中弁藤原朝臣光広(烏丸光広、正四位上・蔵人頭兼帯)伝へ宣(の)る、権大納言藤原朝臣兼勝(広橋兼勝、正二位)宣(の)る、 勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり) 慶長8年(1603年)2月12日 中務大輔右大史算博士小槻宿禰孝亮(壬生孝亮、従五位下)奉(うけたまは)る
— 日光東照宮文書、壬生家四巻之日記

※同日、右大臣に転任し、源氏長者、牛車乗車宮中出入許可、兵仗随身、淳和奨学両院別当の宣旨も賜う。
^ 家康はこの時期、主筋である豊臣氏を滅ぼすことの是非を林羅山に諮問しているともいわれるが[45]、この時期の林羅山は家康に対して、そのような大きな発言権はないとする近年研究もある[46]。
^ 『摂戦実録』によれば、撰文をした文英清韓は「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、縁語をとりて申す也」と弁明し、家康の諱を「かくし題」とした意識的な撰文であると認め、五山の僧の答申はいずれも諱を避けなかったことについて問題視したという[45]。ただし『摂戦実録』の成立年代は江戸時代・1752年である[1]。
^ 京で評判になっている目新しい料理として茶屋四郎次郎清次が紹介し、田中城(現・静岡県藤枝市)にて供したもので、家康はいたく気に入り、日ごろの節制を忘れて大喰らいに到り、大鯛2枚・甘鯛3枚を平らげたと伝えられる。なお、「天ぷら」とは呼ばれているが、衣は無く、実際はから揚げに近い。cf. 天ぷら#逸話。
^ 江戸城内に限った話ではなく、温度計による油温管理ができなかった時代、食用油は容易に引火し、かつ消火は困難であった。それゆえにそれ以外の建物内においても、天ぷらは火災予防のため忌避され、専ら屋台で調理人により料理される時代が太平洋戦争まで続いた[52]。
^ 野村玄によれば、当時国内では寛永飢饉、国外では明清交替と鎖国令に伴うポルトガルの報復の可能性によって江戸幕府は緊迫した状況にあり、将軍であった徳川家光は単なる家康への崇敬のみならず、元寇のときの風宮改号の故事を先例として東照社を東照宮と改号して「敵国降伏」を祈願したとする[54]。
^ 徳川慶喜の墓地がある「谷中墓地」と称される区域は、都立谷中霊園の他に天王寺墓地と寛永寺墓地も含まれており、寛永寺墓地に属する。
^ a b 1582年10月4日以前はユリウス暦、それ以降はグレゴリオ暦。日付は宣明暦長暦。
^ 天正14年の段階で遡及的に叙位されたと考えられる。以下同じ。[55]
^ 『奥平家譜』、直心影流伝書による。なお『急賀斎由緒書』では奥山流。
^ 柳生宗厳と立ち会って無刀取りされたため宗厳に剣術指南役として出仕を命ずるも、宗厳は老齢を理由に辞退。
^ 家康は、将軍即位後も鷹狩や鮎漁の際に、頻繁に府中御殿に滞在[60]。
^ 前者は個人蔵(画像)。後者は東京国立博物館蔵(e国宝に画像と解説あり)
^ 中には福島家のような取り潰され方をした大名もあり、徳川政権の安定を優先させていたと思われる。
^ 天正13年(1585年)の石川数正の寝返りにより、様々な制度を改めざるを得なくなったという事情もある。
^ とはいえ、秀吉・家康の天下人となった二人とも信長の元にいたことから、その影響を排除して考えることはできない。信長の姪達である浅井三姉妹から秀吉は自身の側室に長女の茶々を、家康は後継者である秀忠の正室に三女の江を迎えており、信長の血縁が重みをもっていたことが窺える。
^ 『柳営婦女伝系』(『徳川諸家系譜』第1巻 続群書類従完成会)の長勝院(小督局)の項に結城秀康が双子であったことが記載されており、また、高野山にある小督局の墓には永見貞愛の名も刻まれている[93]。
^ 『徳川実紀』に落胤説があったとの記述がある。
^ 『後藤庄三郎由緒書』、寛政10年(1798年)ころの史料なので信憑性には疑問がある。
^ 日光山輪王寺所蔵にある重要文化財の守り袋の考察の一説。

出典
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参考文献

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論文

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平野明夫「戦国期徳川氏の政治的立場―織田氏との係わりを通して―」、『国史学』158号、1995年。
滝川恒昭「里見氏にあてた家康の起請文」(『季刊ぐんしょ』58号、2002年)、後に滝川恒昭編『房総里見氏』〈中世関東武士の研究13〉戎光祥出版、2014年10月、ISBN 978-4-86403-138-7 に収む。
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村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」、『駒沢史学』第80巻、2013年。

関連作品

小説

山岡荘八『徳川家康』
『徳川家康』(1964年、NET、主演:北大路欣也・市川右太衛門) - 上記小説を原作としたテレビドラマ。
『徳川家康』(1965年、東映、主演:北大路欣也、監督:伊藤大輔) - 上記小説を原作とした日本映画。
『徳川家康』(1983年、NHK大河ドラマ、主演:滝田栄) - 上記小説を原作としたテレビドラマ。
『徳川家康 戦国最後の勝利者』(1992年、テレビ朝日、主演:北大路欣也) - 上記小説を原作としたテレビドラマ。
司馬遼太郎『覇王の家』
司馬遼太郎『関ヶ原』
『関ヶ原』(1981年、TBS、主演:森繁久彌) - 上記小説を原作としたテレビドラマ。
『関ヶ原』(2017年公開予定、東宝、主演:役所広司) - 上記小説を原作とした映画。
司馬遼太郎『城塞』

映画

『家康公 徳川栄達物語』(1911年、横田商会、監督:牧野省三)
『徳川家康』(1919年、日活、主演:尾上松之助)

テレビドラマ

『徳川家康』(1988年、TBS大型時代劇スペシャル、主演:松方弘樹)
『葵 徳川三代』(2000年、NHK大河ドラマ、主演:津川雅彦)
『徳川家康と三人の女』(2008年、テレビ朝日、主演:松平健)

ゲーム

『戦国BASARA』シリーズ (CAPCOM、声:大川透)

関ヶ原の戦いをモチーフとした「3」と、そのアニメ映像化作品『劇場版 戦国BASARA -The Last Party-』で主人公の一人として描かれている。

関連項目

松平状
徳川家康の影武者説
東照宮 - 日光東照宮 久能山東照宮 仙台東照宮
徳川家康の馬印
源義家 - 家康の名は義家に由来するという[要出典]。
三英傑
徳川四天王 - 徳川家康の功臣。酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人。
徳川十六神将
久能山御蔵金銀
平塚八幡宮 - 家康が御朱印地50石を寄進し,慶長年間(1596年 - 1615年)には徳川家康が自ら参拝し、同年間の末頃に伊奈備前守忠次へ命じて戦火で荒廃していた社殿を再建させる。

外部リンク
ウィキクォートに徳川家康に関する引用句集があります。
ウィキメディア・コモンズには、徳川家康に関連するカテゴリがあります。

徳川家康の墓|駿府ネット 徳川家康の遺体の眠る墓は日光ではなく久能山であるという事実を詳細に検証している
徳川家康・静岡武将列伝 Shizuoka城と戦国浪漫
徳川一族について
徳川家康 司馬遼太郎が考えたこと 2 ─エッセイ1961.10〜1964.10 ─

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表 話 編 歴

三つ葉葵紋松平宗家第9代当主(1549年 - 1566年)
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表 話 編 歴

三つ葉葵紋徳川宗家初代当主(1566年 - 1605年)
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表 話 編 歴

江戸幕府将軍(初代:1603年 - 1605年)
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表 話 編 歴

太政大臣

徳川家康の戦い

桶狭間 善明堤 藤波畷 三河一向一揆 姉川 一言坂 二俣城 三方ヶ原 野田城 長篠 高天神城 甲州征伐 天正壬午の乱 小牧・長久手 上田 小田原 関ヶ原 大坂

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表 話 編 歴

豊臣政権
典拠管理

WorldCat VIAF: 45630467 LCCN: n81118846 ISNI: 0000 0001 1761 1906 GND: 11897453X SUDOC: 082954968 BnF: cb16127194q (data) BIBSYS: 14061628 NDL: 00272267 NKC: pna2009505176 CiNii: DA04888214

カテゴリ:

徳川家康安祥松平氏徳川氏三英傑戦国大名織豊政権の大名江戸幕府の征夷大将軍日本の神 (人物神 戦国大名)三河国の人物駿河国の人物都市の建設者印刷史に関する人物1543年生1616年没

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最終更新 2017年8月12日 (土) 16:02 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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