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2017-08-13 12:59:58 | 日記
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徳川家康
曖昧さ回避 「徳川家康」のその他の用法については「徳川家康 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

凡例
徳川家康/松平元康
Tokugawa Ieyasu2.JPG
徳川家康像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵)
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文11年12月26日(1543年1月31日)
死没 元和2年4月17日(1616年6月1日)73歳没
改名 松平竹千代(幼名)→ 元信(初名) → 元康 → 家康 → 徳川家康
別名 輩行名:次郎三郎
尊称:大御所 (将軍引退後)、神君(死後)[1]
神号 東照大権現
戒名 東照大権現安国院殿徳蓮社崇譽(誉)道和大居士
墓所 久能山東照宮
日光東照宮
大樹寺
高野山
官位 蔵人佐(無位)、従五位下、三河守、左京大夫、従五位上、侍従、正五位下、従四位下、右近衛権少将、従四位上、正四位下、左近衛権中将、従三位、参議、権中納言、正三位、従二位、権大納言、左近衛大将、左馬寮御監、正二位、内大臣、従一位、右大臣、征夷大将軍、太政大臣、贈正一位
幕府 江戸幕府 初代征夷大将軍
(在任1603年 - 1605年)
主君 今川義元 → 氏真 → 足利義昭 →織田信長→ 豊臣秀吉
氏族 松平氏 → 徳川氏
父母 父:松平広忠、母:於大の方
兄弟 徳川家康、松平家元?、内藤信成?、樵臆恵最?、市場姫
異父弟:松平康元、松平康俊、松平定勝
妻 正室:築山殿
継室:朝日姫
側室:養珠院、西郷局、茶阿局、英勝院、雲光院、相応院、ほか
子 松平信康、亀姫、結城秀康、督姫、徳川秀忠、松平忠吉、振姫、武田信吉、松平忠輝、徳川義直、徳川頼宣、徳川頼房、ほか

徳川 家康(とくがわ いえやす、旧字体: 德川家康)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名[1]。江戸幕府の初代征夷大将軍[1]。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。

家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代[1]。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。

勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙任に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している[2]。

目次

1 概要
2 生涯
2.1 幼少期から初陣
2.2 清洲同盟から三河国平定
2.3 「徳川」への改姓
2.4 遠江今川領への侵攻
2.5 武田氏との戦い
2.6 本能寺の変と天正壬午の乱
2.7 小牧・長久手の戦いから豊臣政権への臣従
2.8 豊臣家臣時代
2.9 秀吉死後
2.10 関ヶ原の戦い
2.11 征夷大将軍
2.12 大御所政治
2.13 大坂の陣
2.13.1 方広寺鐘銘事件
2.13.2 大坂冬の陣
2.13.3 大坂夏の陣
2.14 最晩年
3 墓所・霊廟・神社
4 年表
5 人物・逸話
5.1 人物
5.2 その他
5.3 源氏への復姓時期について
5.4 江戸幕府の支配に関して
5.5 一族・譜代の取り扱いに関して
5.6 家康と同時代の人々
5.7 家康と宗教
5.8 徳川家康のスペイン外交と浦賀
5.9 近現代における評価
6 一族縁者
7 偏諱を与えた人物
8 関連史料
9 脚注
9.1 注釈
9.2 出典
10 参考文献
11 関連作品
12 関連項目
13 外部リンク

概要

幼少期を織田氏ついで今川氏の下で人質として過ごす[1]。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いでの今川義元の討死を期に今川氏から独立して織田信長と同盟を結び[1]、三河国・遠江国に版図を広げる。

信長が天正10年(1582年)に本能寺の変において死亡すると天正壬午の乱を制して甲斐国・信濃国を手中に収める[1]。

信長没後に勢力を伸張した豊臣秀吉と小牧・長久手の戦いで対峙するが[1]秀吉に臣従。小田原征伐後は後北条氏の旧領関東への転封を命ぜられ豊臣政権下で最大の領地を得る。秀吉晩年には五大老に列せられ大老筆頭となる[1]。

秀吉没後の慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いにおいて西軍に勝利。慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任命され武蔵国江戸に幕府を開く。慶長20年(1615年)に豊臣氏を滅亡させ日本全国を支配する体制を確立。15世紀後半に起こった応仁の乱から100年以上続いた戦乱の時代(戦国時代・安土桃山時代)が終結。

家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする統治体制は後に幕藩体制と称され264年間続く江戸時代を画した[1]。

死後は日光東照宮に祀られ薬師如来を本地とする東照大権現(とうしょうだいごんげん)として神格化され、「神君」、「東照宮」、「権現様」(ごんげんさま)とも呼ばれて信仰される[1]。また、江戸幕府の祖として「神祖」[3]、「烈祖」[4]などとも称された。
生涯
岡崎城天守
竹千代時代を過ごした臨済寺 (静岡市)(2016年8月14日撮影)

※ 日付は、太陰暦による和暦。西暦の暦法は便宜上、ユリウス暦とする。
幼少期から初陣

三河国の土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠の嫡男として天文11年(1542年)12月26日寅の刻(午前4時頃)に岡崎城 にて誕生[5]。母は水野忠政の娘・於大(伝通院)[5]。幼名は竹千代(たけちよ)[5]。

3歳のころ、水野忠政没後に水野氏当主となった水野信元(於大の兄)が尾張国の織田氏と同盟したので織田氏と敵対する駿河国の今川氏に庇護されている広忠は於大を離縁。竹千代は3歳にして母と生き別れになる。

天文16年(1547年)8月2日[6]、竹千代は数え6歳で今川氏への人質として駿府へ送られることとなる。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田信秀へ送られた。しかし広忠は今川氏への従属を貫いたため、竹千代はそのまま人質として2年間尾張国熱田の加藤順盛の屋敷に留め置かれた。このとき織田信長と知り合ったという伝説があるが、史料にはない[7]。

2年後に広忠は家臣の謀反によって殺害された。今川義元は織田信秀の庶長子・織田信広[注釈 1]との人質交換によって竹千代を取り戻す。しかし竹千代は駿府[注釈 2]に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代(朝比奈泰能や山田景隆など)により支配された[注釈 3] [注釈 4] [注釈 5]。 墓参りのためと称して岡崎城に帰参した際には、本丸には今川氏の城代が置かれていたため入れず、二の丸に入った。

天文24年(1555年)3月、駿府の今川氏の下で元服し、今川義元から偏諱を賜って次郎三郎元信と名乗り、今川義元の姪で関口親永の娘・瀬名(築山殿)を娶る。名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらい蔵人佐元康と改めている。永禄元年(1558年)2月5日には今川氏から織田氏に通じた加茂郡寺部城主・鈴木重辰を攻めた、これが初陣であり、城下を焼いて引き揚げ、転じて附近の広瀬・挙母・梅坪・伊保を攻めた。この戦功により、義元は旧領のうち山中300貫文の地を返付し、腰刀を贈った[9]。
清洲同盟から三河国平定
徳川家の家紋"丸に三つ葉葵(徳川葵)"

永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで先鋒を任され、大高城の鵜殿長照が城中の兵糧が足りないことを義元に訴えたため、義元から兵糧の補給を命じられた。しかし織田軍は大高城を包囲しており、兵糧を運び込むには包囲を突破する必要があった。そこで5月18日、鷲津砦と丸根砦の間を突破して、小荷駄を城中に送り込み、全軍無事に引上げた。翌19日、丸根の砦を攻め落とし、朝比奈泰能は鷲津の砦を攻め落とした[10]。義元が織田信長に討たれた際、大高城で休息中であった元康は、大高城から撤退。松平家の菩提寺である大樹寺に入り、自害しようとしたが住職の登誉天室に諭されて考えを改める。その後、今川軍が放棄した岡崎城に入ると独自の軍事行動をとり、早い段階で今川からの独立を果たそうとする[11]。また桶狭間の戦いの直後から、元康は今川・織田両氏に対して軍事行動を行う両面作戦を行ったとする説もある[12]。

永禄4年(1561年)2月、元康は将軍・足利義輝に嵐鹿毛とよばれる駿馬を献上して室町幕府との直接的な関係を築くことで、独立した領主として幕府に認めて貰おうとしている[13]。4月、元康は東三河における今川方の拠点であった牛久保城を攻撃、今川氏からの自立の意思を明確にした[注釈 6]。 折しも今川氏の盟友であった武田信玄、北条氏康は、関東管領・上杉憲政を奉じた長尾景虎(上杉謙信)の関東出兵(小田原城の戦い)への対応に追われており、武田・北条からの援軍は来ないという判断があったとされる[14]。この事態は義元の後を継いだ今川氏真には痛恨の事態であり、後々まで「松平蔵人逆心」「三州錯乱」などと記して憤りを見せている[14]。その後も元康は藤波畷の戦いなどに勝利して、西三河の諸城を攻略する。

永禄5年(1562年)には、先に今川氏を見限り織田氏と同盟を結んだ伯父・水野信元の仲介もあって、今川氏と断交して信長と同盟を結んだ(清洲同盟)。一方、将軍・足利義輝や北条氏康は松平・今川両氏の和睦を図るが実現しなかった。

翌年には、義元からの偏諱である「元」の字を返上して元康から家康と名を改めた[注釈 7]。

永禄7年(1564年)、三河一向一揆が勃発するも、苦心の末にこれを鎮圧。こうして岡崎周辺の不安要素を取り払うと、対今川氏の戦略を推し進めた。東三河の戸田氏や西郷氏といった土豪を抱き込みながら、軍勢を東へ進めて鵜殿氏のような敵対勢力を排除していった。三河国への対応に遅れる今川氏との間で宝飯郡を主戦場とした攻防戦を繰り広げた後、永禄9年(1566年)までには東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、三河国を統一した。この際に家康は、西三河衆(旗頭:石川家成(後に石川数正))・東三河衆(旗頭:酒井忠次)・旗本の三備の制への軍制改正を行い、旗本には旗本先手役を新たに置いた。
「徳川」への改姓

永禄9年(1566年)、朝廷から従五位下三河守の叙任を受け、同時に「徳川」に改姓した。

これを朝廷に要求する際には多少の工夫を要した。松平家は少なくとも清康の時代から「新田氏支流世良田氏系統の清和源氏」であると自称していたが、正親町天皇より「清和源氏の世良田氏が三河守を叙任した前例はない」と拒否された。そこで家康は近衛前久に相談した。前久は松平氏の祖とされる世良田義季が得川氏を名乗った文献があること、また新田系得川氏が藤原姓を名乗ったことがあることなどを主張し、「家康個人のみが「徳川」に「復姓」する」という奇策を考案した。この特例ともいえる措置を得て、家康は従五位下三河守に叙任された。このため、この改姓に伴い家康は「本姓」を「藤原氏」としたが、これは家康個人のみのものであった。
遠江今川領への侵攻

永禄11年(1568年)、信長が室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・義昭を奉じて上洛の途につくと、家康も信長への援軍として松平信一を派遣した。同年1月11日、家康は左京大夫に任命されている(『歴名土代』)。左京大夫は歴代管領の盟友的存在の有力守護大名に授けられた官職であり[注釈 8]、これは義昭が信長を管領に任命する人事に連動した武家執奏であったとみられる。だが、信長は管領就任を辞退したことから、家康も依然として従来の「三河守」を用い続けた[15][注釈 10]。

同年12月6日、甲斐国の武田信玄が駿河今川領への侵攻を開始すると(駿河侵攻)、家康は酒井忠次を取次役に遠江割譲を条件として武田氏と同盟を結び、13日、遠江国の今川領へ侵攻し曳馬城を攻め落とし、軍を退かずに遠江国で越年する。

武田氏との今川領分割に関して、徳川氏では大井川を境に東の駿河国を武田領、西の遠江国を徳川領とする協定を結んでいたとされる(『三河物語』)。しかし永禄12年(1569年)1月8日、信濃国から武田家臣・秋山虎繁(信友)による遠江国への侵攻を受け、武田氏とは手切となった[注釈 11]。

5月に駿府城から本拠を移した今川氏真の掛川城を攻囲。籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江国を支配下に置く(遠江侵攻)。氏真と和睦すると家康は北条氏康の協力を得て武田軍を退けた。以来、東海地方における織田・徳川・武田の関係は、織田と他2者は同盟関係にあるが徳川と武田は敵対関係で推移する。

元亀元年(1570年)、岡崎から遠江国の曳馬に移ると、ここを浜松と改名し、浜松城を築いてこれを本城とした。今川氏真も浜松城に迎え庇護する。また信長を助け、金ヶ崎の戦いに参戦したほか、朝倉義景・浅井長政の連合軍との姉川の戦いでは活躍を見せた。
武田氏との戦い

家康は北条氏と協調して武田領を攻撃していたが、武田氏は元亀2年(1571年)末に北条氏との甲相同盟を回復すると駿河今川領を確保する。信長と反目した将軍・足利義昭が武田信玄、朝倉義景、浅井長政、石山本願寺ら反織田勢力を糾合して信長包囲網を企てた際、家康にも副将軍への就任を要請し協力を求めた。しかし家康はこれを黙殺し、信長との同盟関係を維持した。

元亀3年(1572年)10月には武田氏が徳川領である遠江国・三河国への侵攻(西上作戦)を開始した[注釈 12]。 これにより武田氏と織田氏は手切となった。家康は信長に援軍を要請するが、信長も包囲網への対応に苦慮しており、武田軍に美濃国岩村城を攻撃されたことから十分な援軍は送られず、徳川軍は単独で武田軍と戦うこととなる。
『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(徳川美術館所蔵)。

徳川軍は遠江国に侵攻してきた武田軍本隊と戦うため、天竜川を渡って見附(磐田市)にまで進出。浜松の北方を固める要衝・二俣城を取られることを避けたい徳川軍が、武田軍の動向を探るために威力偵察に出たところを武田軍と遭遇し、一言坂で敗走する(一言坂の戦い)。遠江方面の武田軍本隊と同時に武田軍別働隊が侵攻する三河方面への防備を充分に固められないばかりか、この戦いを機に徳川軍の劣勢は確定してしまう。そして12月、二俣城は落城した(二俣城の戦い)。

ようやく信長から佐久間信盛、平手汎秀率いる援軍が送られてきたころ、別働隊と合流した武田軍本隊が浜松城へ近づきつつあった。対応を迫られる徳川軍であったが、武田軍は浜松城を悠然と素通りして三河国に侵攻するかのように転進した。これを聞いた家康は、佐久間信盛らが籠城を唱えるのに反して武田軍を追撃。しかしその結果、鳥居忠広、成瀬正義や、二俣城の戦いで開城の恥辱を雪ごうとした中根正照、青木貞治といった家臣をはじめ1,000人以上の死傷者を出し、平手汎秀といった織田軍からの援将が戦死するなど、徳川・織田連合軍は惨敗した。家康は夏目吉信に代表されるように、身代わりとなった家臣に助けられて命からがら浜松城に逃げ帰ったという。武田勢に浜松城まで追撃されたが、帰城してからの家康は冷静さを取り戻し「空城計」を用いることによって武田軍にそれ以上の追撃を断念させたとされている。(三方ヶ原の戦い)

浜名湖北岸で越年した後、三河国への進軍を再開した武田軍によって三河国設楽郡の野田城を2月には落とされ、城主・菅沼定盈が拘束された。ところがその後、武田軍は信玄の発病によって長篠城まで退き、信玄の死去により撤兵した。

武田軍の突然の撤退は、家康に信玄死去の疑念を抱かせた。その生死を確認するため家康は武田領である駿河国の岡部に放火し、三河国では長篠城を攻めるなどしている。そして、これら一連の行動で武田軍の抵抗がほとんどなかったことから信玄の死を確信した家康は、武田氏に与していた奥三河の豪族で山家三方衆の一角である奥平貞能・貞昌親子を調略し、再属させた。奪回した長篠城には奥平軍を配し、武田軍の再侵攻に備えさせた。

武田氏の西上作戦の頓挫により信長は反織田勢力を撃滅し、家康も勢力を回復して長篠城から奥三河を奪還し、駿河国の武田領まで脅かした。これに対して信玄の後継者である武田勝頼も攻勢に出て、天正2年(1574年)には東美濃の明智城、遠江高天神城を攻略し、家康と武田氏は攻防を繰り返した。また家臣の大賀弥四郎らが、武田に内通していたとして捕え、鋸挽きで処刑した。信長の家康への支援は後手に回ったが、天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは主力を持って武田氏と戦い、武田氏は宿老層の主要家臣を数多く失う大敗を喫し、駿河領国の動揺と外交方針の転換を余儀なくさせた。一方家康は戦勝に乗じて光明・犬居・二俣といった城を奪取攻略し、殊に諏訪原城を奪取したことで高天神城の大井川沿いの補給路を封じ、武田氏への優位を築いた。

なお、家康は長篠城主の奥平貞昌(信長の偏諱を賜り信昌と改名)の戦功に対する褒美として、名刀・大般若長光を授けて賞した。そのうえ、翌年には長女・亀姫を正室とさせている。

天正6年(1578年)、越後上杉氏で急死した上杉謙信の後継者を争う御館の乱が発生し、武田勝頼は北信濃に出兵し乱に介入する。勝頼と結んだ上杉景勝が乱を制して上杉景虎(後北条氏出身)を敗死させたことで武田・北条間の甲相同盟は破綻した。翌天正7年(1579年)9月に北条氏は家康と同盟を結ぶ。この間に家康は横須賀城などを築き、多数の付城によって高天神城への締め付けを強化した。

また同じころ、信長から正室・築山殿と嫡男・松平信康に対して武田氏への内通疑惑がかけられたとされる。家康は酒井忠次を使者として信長と談判させたが、信長からの詰問を忠次は概ね認めたために信康の切腹が通達され、家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先し、築山殿を殺害し、信康を切腹させたという。だが、この通説には疑問点も多く、近年では築山殿の殺害と信康の切腹は、家康・信康父子の対立が原因とする説も出されている[19][20][21](松平信康#信康自刃事件についての項を参照)。

岩村城の戦い以降に織田氏と武田氏は大規模な抗争をしておらず、後北条氏との対立をも抱える事にもなった勝頼は人質にしていた信長の五男・勝長を返還するなど織田氏との和睦(甲江和与)を模索している。しかし、信長はこれを黙殺し、天正9年(1581年)、降伏・開城を封じた上での総攻撃によって家康は高天神城を奪回する(高天神城の戦い)。高天神城落城、しかも後詰を送らず見殺しにしたことは武田氏の威信を致命的に失墜させ、国人衆は大きく動揺した[注釈 13]。 木曾義昌の調略成功をきっかけに、天正10年(1582年)2月に信長は家康と共同で武田領へ本格的侵攻を開始した。織田軍の信濃方面からの侵攻に呼応して徳川軍も駿河方面から侵攻し、武田軍の蘆田信蕃(依田信蕃)の田中城を成瀬正一らの説得により大久保忠世が引き取り、さらに甲斐南部の河内領・駿河江尻領主の穴山信君(梅雪)を調略によって離反させるなどして駿河領を確保した。勝頼一行は同年3月に自害して武田氏は滅亡し、家康は3月10日に信君とともに甲府へ着陣しており、信長は甲斐の仕置を行うと中道往還を通過して帰還している(甲州征伐)。

家康はこの戦功により駿河国を与えられ、駿府において信長を接待している。家康はこの接待のために莫大な私財を投じて街道を整備し宿館を造営した。信長はこの接待をことのほか喜んだ。

また遅くともこの頃には、三河一向一揆の折に出奔した本多正信が、徳川家に正式に帰参している(正式な帰参時期は不明で、姉川の戦いの頃に既に帰参していたとも)。
本能寺の変と天正壬午の乱

天正10年(1582年)5月、駿河拝領の礼のため、信長の招きに応じて降伏した穴山信君とともに居城・安土城を訪れた。

6月2日、堺を遊覧中に京で本能寺の変が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数であったため極めて危険な状態となり、一時は狼狽して信長の後を追おうとするほどであった。しかし本多忠勝に説得されて翻意し、服部半蔵の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越え加太越を経て伊勢国から海路で三河国に辛うじて戻った(神君伊賀越え)。

その後、家康は明智光秀を討つために軍勢を集めて尾張国鳴海まで進軍したが、このとき中国地方から帰還した羽柴秀吉によって光秀がすでに討たれたことを知った。

一方、織田氏の領国となっていた旧武田領の甲斐国と信濃国では大量の一揆が起こった。さらに、越後国の上杉氏、相模国の北条氏も旧武田領への侵攻の気配を見せた。旧武田領国のうち上野一国と信濃小県郡・佐久郡の支配を担っていた滝川一益は、旧武田領を治めてまだ3ヶ月ほどしか経っておらず、軍の編成が済んでいなかったことや、武田遺臣による一揆が相次いで勃発したため、滝川配下であった信濃国の森長可と毛利秀頼は領地を捨て畿内へ敗走した。また、甲斐一国と信濃諏訪郡支配を担った河尻秀隆は一揆勢に敗れ戦死するなど緊迫した状況にあった。追い打ちをかけるように、織田氏と同盟関係を築いていた北条氏が一方的に同盟を破り、北条氏直率いる6万の軍が武蔵・上野国境に襲来した。滝川一益は北条氏直を迎撃、緒戦に勝利するも敗北、尾張国まで敗走した。このため、甲斐・信濃・上野は領主のいない空白地帯となり、家康は武田氏の遺臣・岡部正綱や依田信蕃、甲斐国の辺境武士団である武川衆らを先鋒とし、自らも8,000人の軍勢を率いて甲斐国に攻め入った(天正壬午の乱)。

一方、甲斐・信濃・上野が空白地帯となったのを見た北条氏直も、叔父・北条氏規や北条氏照ら5万5,000人の軍勢を率いて碓氷峠を越えて信濃国に侵攻した。北条軍は上杉軍と川中島で対峙した後に和睦し、南へ進軍した。家康は甲府の尊躰寺・一条信龍屋敷に本陣を置いていたが、新府城(韮崎市中田町中條)に本陣を移すと七里岩台上の城砦群に布陣し、若神子城(北杜市須玉町若神子)に本陣を置く北条勢と対峙した。

ここに徳川軍と北条軍の全面対決の様相を呈したが、依田信蕃の調略を受けて滝川配下から北条に転身していた真田昌幸が徳川軍に再度寝返り、その執拗なゲリラ戦法の前に戦意を喪失した北条軍は、板部岡江雪斎を使者として家康に和睦を求めた。和睦の条件は、上野国を北条氏が、甲斐国・信濃国を徳川氏がそれぞれ領有し、家康の次女・督姫が氏直に嫁ぐというものであった。こうして、家康は北条氏と縁戚・同盟関係を結び、同時に甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5ヶ国を領有する大大名へとのし上がった。
小牧・長久手の戦いから豊臣政権への臣従
豊臣秀吉

信長死後の織田政権においては織田家臣の羽柴秀吉が台頭し、秀吉は信長次男・織田信雄と手を結び、天正11年(1583年)には織田家筆頭家老であった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、さらに影響力を強めた。

信雄は天正壬午の乱において家康と北条氏の間を仲裁しており、賤ヶ岳の戦い後の織田政権においては信長嫡孫・三法師(織田秀信)を推戴する秀吉と対立し、信雄は家康に接近して秀吉に対抗した(『岩田氏覚書』)。

天正12年(1584年)3月、信雄が秀吉方に通じたとする家老を粛清した事件を契機に合戦が起こり、家康は3月13日に尾張国へ出兵し信雄と合流する。当初、両勢は北伊勢方面に出兵していたが、17日には徳川家臣・酒井忠次が秀吉方の森長可を撃破し(羽黒の戦い)、家康は28日に尾張国小牧(小牧山)に着陣した。

秀吉率いる羽柴軍本隊は、尾張犬山城を陥落させると楽田に布陣し、4月初めには森長可・池田恒興らが三河国に出兵した。4月9日には長久手において両軍は激突し、徳川軍は森・池田勢を撃退した(小牧・長久手の戦い)。「家康公の天下を取るは大坂にあらずして関ケ原にあり。関ケ原にあらずして小牧にありといわれた[22]。

小牧・長久手の戦いは羽柴・徳川両軍の全面衝突のないまま推移し、一方で家康は北条氏や土佐国の長宗我部氏ら遠方の諸大名を迎合し、秀吉もこれに対して越後国の上杉氏や安芸国の毛利氏、常陸国の佐竹氏ら徳川氏と対抗する諸勢力に呼びかけ、外交戦の様相を呈していった。秀吉と家康・信雄の双方は同年9月に和睦し、講和条件として、家康の次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子とした。

戦後の和議は秀吉優位であったとされる。越中国の佐々成政が自ら、厳冬の飛騨山脈を越えて浜松の家康を訪ね、秀吉との戦いの継続を訴えたが、家康は承諾しなかった。天正13年(1585年)に入ると、紀伊国の雑賀衆や土佐国の長宗我部元親、越中国の佐々成政ら、小牧・長久手の戦いにおいて家康が迎合した諸勢力は秀吉に服属している。さらに秀吉は7月11日に関白に叙任され、豊臣政権を確立する。

これに対して家康は東国において武田遺領の甲斐・信濃を含めた5ヶ国を領有し相模国の北条氏とも同盟関係を築いていたが、北条氏との同盟条件である上野国沼田(群馬県沼田市)の割譲に対して、沼田を領有していた信濃国上田城主・真田昌幸が上杉氏・秀吉方に帰属して抵抗した。家康は大久保忠世・鳥居元忠・平岩親吉らの軍勢を派兵して上田を攻めるが、昌幸の抵抗や上杉氏の増援などにより撤兵している(第一次上田合戦)。また同年には、家康は背中の腫れ物の病で苦しみ、重篤に陥るも、最終的には治った。

勢力圏拡大の一方で、徳川氏の領国では天正11年(1583年)から12年(1584年)にかけて地震や大雨に見舞われ、特に天正11年5月から7月にかけて関東地方から東海地方一円にかけて大規模な大雨が相次ぎ、徳川氏の領国も「50年来の大水」[23]に見舞われた。その状況下で北条氏や豊臣政権との戦いをせざるを得なかった徳川氏の領国の打撃は深刻で、三河国田原にある龍門寺の歴代住持が記したとされる『龍門寺拠実記』には、天正12年に小牧・長久手の戦いで多くの人々が動員された結果、田畑の荒廃と飢饉を招いて残された老少が自ら命を絶ったと記している。徳川氏領国の荒廃は豊臣政権との戦いの継続を困難にし、国内の立て直しを迫られることになる[24]。

家康の豊臣政権への臣従までの経緯は『家忠日記』に記されているが、こうした情勢の中、同年9月に秀吉は家康に対して更なる人質の差し出しを求め、徳川家中は酒井忠次・本多忠勝ら豊臣政権に対する強硬派と石川数正ら融和派に分裂し、さらに秀吉方との和睦の風聞は北条氏との関係に緊張を生じさせていたという。同年11月13日には石川数正が出奔して秀吉に帰属する事件が発生する。この事件で徳川軍の機密が筒抜けになったことから、軍制を刷新し武田軍を見習ったものに改革したという(『駿河土産』)。

天正14年(1586年)に入ると秀吉は織田信雄を通じて家康の懐柔を試み(『当代記』)、4月23日には臣従要求を拒み続ける家康に対して秀吉は実妹・朝日姫(南明院)を正室として差し出し、5月14日に家康はこれを室として迎え、秀吉と家康は義兄弟となる[注釈 14]。さらに10月18日には秀吉が生母・大政所を朝日姫の見舞いとして岡崎に送ると、24日に家康は浜松を出立し上洛している。

家康は10月26日に大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊した。その夜には秀吉本人が家康に秘かに会いにきて、改めて臣従を求めた。こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、10月27日、大坂城において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明した。この謁見の際に家康は、秀吉が着用していた陣羽織を所望し、今後秀吉が陣羽織を着て合戦の指揮を執るようなことはさせない、という意思を示し諸侯の前で忠誠を誓った(徳川実紀)[注釈 15]。
豊臣家臣時代

天正14年(1586年)11月1日、京に赴き、11月5日に正三位に叙任される。このとき、多くの家康家臣も叙任された[27][28]。11月11日には三河国に帰還し、11月12日には大政所を秀吉の元へ送り返している。12月4日、本城を17年間過ごした浜松城から隣国・駿河国の駿府城へ移した。これは、出奔した石川数正が浜松城の軍事機密を知り尽くしていたため、それに備えたとする説がある。

天正15年(1587年)8月、再び上洛し、秀吉の推挙により朝廷から8月8日に従二位・権大納言に叙任され、所領から駿河大納言と呼ばれた。この際、秀吉から羽柴の名字を下賜された[27][28]。

同年12月3日に豊臣政権より関東・奥両国惣無事令が出され、家康に関東・奥両国(陸奥国・出羽国)の監視が託された。12月28日秀吉の推挙によりさらに朝廷から左近衛大将および左馬寮御監に任ぜられる[注釈 16]。 このことにより、このころの家康は駿府左大将と呼ばれた。

家康は北条氏と縁戚関係にある経緯から、北条氏政・氏直父子宛ての5月21日付起請文[29]で、以下の内容で北条氏に秀吉への恭順を促した。

家康が北条親子の事を讒言せず、北条氏の分国(領国)を一切望まない
今月中に兄弟衆を京都に派遣する
豊臣家への出仕を拒否する場合娘(氏直に嫁いだ督姫)を離別させる

家康の仲介は、氏政の弟であり家康の旧友でもある北条氏規を上洛させるなどある程度の成果を挙げたが、北条氏直は秀吉に臣従することに応じなかった。天正18年(1590年)1月、家康は嫡男とみなされていた三男の長丸(後の秀忠)を上洛させて事実上の人質とさせることで改めて秀吉への臣従の意思を明確にして北条氏と事実上の断交となり、これを受けた秀吉は北条氏討伐を開始。家康も豊臣軍の先鋒を務めると共に自分の城を提供し、4月には吉川広家が豊臣家の城番として岡崎城に入城している(小田原征伐)[25]。

なお、これに先立って天正17年(1589年)7月から翌年にかけて「五ヶ国総検地」と称せられる大規模な検地を断行する。これは想定される北条氏討伐に対する準備であると同時に、領内の徹底した実情把握を目指したものである。この直後に秀吉によって関東へ領地を移封されてしまい、成果を生かすことはできなかったが、ここで得たノウハウと経験は新領地の関東統治に生かされた。

天正18年(1590年)7月5日の北条氏降伏後、秀吉の命令で、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国の5ヶ国を召し上げられ、北条氏の旧領、武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部の関八州に移封された。家康の関東移封の噂は戦前からあり[注釈 17]、家康も北条氏との交渉で、自分には北条領への野心はないことを弁明していたが[29]、結局北条氏の旧領国に移されることになった。

この移封によって150万石から250万石(家康240万石および結城秀康10万石の合計)への類を見ない大幅な加増を受けたことになるが、徳川氏に縁の深い三河国を失い、さらに当時の関東には北条氏の残党などによって不穏な動きがあり、しかも北条氏は四公六民という当時としては極めて低い税率を採用しており、これをむやみに上げるわけにもいかず、石高ほどには実収入を見込めない状況であった。こういった事情から、この移封は秀吉の家康に対する優遇策か冷遇策かという議論が古くからある。阿部能久は、鎌倉幕府の成立以来西国政権が東国を一元支配した例は無く、古河公方の断絶とともに機能停止していた室町幕府の鎌倉府と同様の役割を東国に通じた家康によって担わせようとしたと考察している[32]。 この命令に従って関東に移り、北条氏が本城とした相模小田原城ではなく、武蔵江戸城を居城とした。

8月1日に江戸へ入府した家康は、関東の統治に際して、有力な家臣を重要な支城に配置する[注釈 18]とともに、100万石余といわれる直轄地には大久保長安・伊奈忠次・長谷川長綱・彦坂元正・向井正綱・成瀬正一・日下部定好ら有能な家臣を代官などに抜擢することによって難なく統治し、関東はこれ以降現在に至るまで大きく発展を遂げることとなる。ちなみに、関東における四公六民という北条氏の定めた低税率は、徳川吉宗の享保の改革で引き上げられるまで継承された。

家康によって配された有力家臣たちは以下の通りである。
国名 領地名 石高 家臣名 備考
上野国 箕輪(後に高崎) 12万石 井伊直政
館林 10万石 榊原康政
厩橋 3.3万石 平岩親吉
白井 3.3万石 本多康重 ただし、1.3万石は父広孝分とされる。
宮崎(小幡) 3万石 奥平信昌
藤岡 3万石 松平康貞
大胡 2万石 牧野康成
吉井 2万石 菅沼定利
総社 1.2万石 諏訪頼水 頼忠説もある。
那波 1万石 松平家乗
沼田 2.7万石 真田信幸
下野国 皆川 1万石 皆川広照
下総国 結城兼常陸国内土浦 10.1万石 結城秀康
矢作 4万石 鳥居元忠
臼井 3万石 酒井家次
古河 3万石 小笠原秀政
関宿 2万石 松平康元
山崎 1.2万石 岡部長盛 康綱説もある。
蘆戸(阿知戸) 1万石 木曾義昌
守谷 1万石 菅沼定政
多古 1万石 保科正光
佐倉 1万石 三浦義次 久能宗能説もある。
岩富 1万石 北条氏勝
武蔵国 岩付(岩槻) 2万石 高力清長
騎西(寄西) 2万石 松平康重
河越 1万石 酒井重忠
小室 1万石 伊奈忠次
松山 1万石 松平家広
忍 1万石 松平家忠
羽生 1万石 大久保忠隣 2万石とも。
深谷 1万石 松平康忠
東方 1万石 戸田康長
本庄 1万石 小笠原信嶺
阿保 1万石 菅沼定盈
八幡山 1万石 松平清宗
上総国 大多喜 10万石 本多忠勝 当初は万喜とも。
久留里 3万石 大須賀忠政
佐貫 2万石 内藤家長
鳴戸(成東) 2万石 石川康通
相模国 小田原 4.5万石 大久保忠世
甘縄 1万石 本多正信
伊豆国 韮山 1万石 内藤信成

天正19年(1591年)6月20日、秀吉は奥州での一揆鎮圧のため号令をかけて豊臣秀次を総大将とした奥州再仕置軍を編成した。家康も秀次の軍に加わり、葛西大崎一揆、和賀・稗貫一揆、仙北一揆、藤島一揆、九戸政実の乱などの鎮圧に貢献した。

文禄元年(1592年)から秀吉の命令により朝鮮出兵が開始されるが、家康は渡海することなく名護屋城に在陣しただけであった[注釈 19]。

文禄4年(1595年)7月に「秀次事件」が起きた。豊臣政権を揺るがすこの大事件を受けて、秀吉は諸大名に上洛を命じ、事態の鎮静化を図った。家康も秀吉の命令で上洛した。これ以降、開発途上の居城・江戸城よりも伏見城に滞在する期間が長くなっている。豊臣政権における家康の立場が高まっていたのは明らかだが、家康自身も政権の中枢に身を置くことにより中央政権の政治システムを直接学ぶことになった[34]。

慶長元年(1596年)5月8日、秀吉の推挙により内大臣に任ぜられる。これ以後は江戸の内府と呼ばれる。

慶長2年(1597年)、再び朝鮮出兵が開始された。日本軍は前回の反省を踏まえ、初期の攻勢以降は前進せず、朝鮮半島の沿岸部で地盤固めに注力した。このときも家康は渡海しなかった。

慶長3年(1598年)、秀吉は病に倒れると、自身没後の豊臣政権を磐石にするため、後継者である豊臣秀頼を補佐するための五大老・五奉行の制度を7月に定め、五大老の一人に家康を任命した。8月に秀吉が死ぬと五大老・五奉行は朝鮮からの撤退を決め、日本軍は撤退した。結果的に家康は兵力・財力などの消耗を免れ、自国を固めることができた[34]。しかし渡海を免除されたのは家康だけではなく、一部の例外を除くと東国の大名は名護屋残留であった。
秀吉死後

豊臣秀吉の死後、内大臣の家康が朝廷の官位でトップになり、また秀吉から「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受けていたため五大老筆頭と目されるようになる。また生前の秀吉により文禄4年(1595年)8月に禁止と定められた、大名家同士の婚姻を行う。その内容は次の通りである(婚約した娘は、全て家康の養女とした)。

伊達政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝。
松平康元(家康の甥)の娘と福島正之(福島正則の養子)。
蜂須賀至鎮(蜂須賀家政の世子)と小笠原秀政の娘(家康の外孫で養女)。
水野忠重(家康の叔父)の娘と加藤清正。
保科正直の娘・栄姫(家康の姪で養女)と黒田長政(黒田孝高の嫡男)。

このころより家康は、細川忠興や島津義弘、増田長盛らの屋敷にも頻繁に訪問するようになった。こうした政権運営をめぐって、大老・前田利家や五奉行の石田三成らより「専横」との反感を買い、慶長4年(1599年)1月19日、家康に対して三中老の堀尾吉晴らが問罪使として派遣されたが、吉晴らを恫喝して追い返した。利家らと家康は2月2日には誓書を交わし、利家が家康を、家康が利家を相互に訪問、さらに家康は向島へ退去することでこの一件は和解となった。

3月3日の利家病死直後、福島正則や加藤清正ら7将が、大坂屋敷の石田三成を殺害目的で襲撃する事件が起きた。三成は佐竹義宣の協力で大坂を脱出して伏見城内に逃れたが、家康の仲裁により三成は奉行の退陰を承諾して佐和山城に蟄居することになり、退去の際には護衛役として家康の次男・結城秀康があたった。結果として三成を失脚させ、最も中立的と見られている北政所の仲裁を受けたことにより、結論の客観性(正当性)が得られ、家康の評価も相対的に高まったと評価され[35]、同時に三成を生存させることによって豊臣家家臣同士の対立が継続することになる。

9月7日、「増田・長束両奉行の要請」として大坂に入り、三成の大坂屋敷を宿所とした。9月9日に登城して豊臣秀頼に対し、重陽の節句における祝意を述べた。9月12日には三成の兄・石田正澄の大坂屋敷に移り、9月28日には大坂城・西の丸に移り、大坂で政務を執ることとなる。

9月9日に登城した際、前田利長・浅野長政・大野治長・土方雄久の4名が家康の暗殺を企んだと増田・長束両奉行より密告があったとして、10月2日に長政を隠居の上、徳川領の武蔵府中で蟄居させ、治長は下総国の結城秀康のもとに、雄久は常陸国水戸の佐竹義宣のもとへ追放とした。さらに利長に対しては加賀征伐を企図するが、利長が生母・芳春院を江戸に人質として差し出し[36]、出兵は取りやめとなる[注釈 20]。これを機に前田氏は完全に家康の支配下に組み込まれたと見なされることになる。

またこのころ、秀頼の名のもと諸大名への加増を行っている。

対馬国の宗義智に1万石を加増。その家臣の柳川智永を従五位下豊前守に叙任(豊臣姓)[27][28]。
遠江国・浜松12万石の堀尾吉晴に越前国・府中5万石を加増。
美濃国・金山7万石の森忠政を信濃国・川中島13万7,000石に加増移封。
丹後国・宮津の細川忠興に豊後国・杵築6万石を加増。
薩摩国・大隅の島津義久に5万石を加増。

慶長5年(1600年)3月、豊後国に南蛮船(オランダ船)のリーフデ号が漂着した。家康はリーフデ号を大阪へ移し、航海長のウィリアム・アダムス(後の三浦安針)や船員のヤン・ヨーステンは家康に厚遇され、外交上の諮問にこたえるようになる。特にウィリアム・アダムスは航海や水先案内の技術だけでなく、数学と天文学も得意としていたことから家康にヨーロッパの科学知識や技術を伝えたり、西洋船を作ったりして、家康から寵愛された[38]。
関ヶ原の戦い
関ヶ原古戦場
詳細は「関ヶ原の戦い」を参照

慶長5年(1600年)3月、越後国の堀秀治、出羽国の最上義光らから、会津の上杉景勝に軍備を増強する不穏な動きがあるという知らせを受けた。上杉氏の家臣で津川城城代を務め、家康とも懇意にあった藤田信吉が会津から出奔し、江戸の徳川秀忠の元へ「上杉氏に叛意あり」と訴えるという事件も起きた。

これに対して家康は伊奈昭綱を正使として景勝の元へ問罪使を派遣した。ところが、景勝の重臣・直江兼続が『直江状』(真贋諸説有り。詳細は直江状#真贋論争参照。)と呼ばれる書簡を返書として送ったことから家康は激怒し、景勝に叛意があることは明確であるとして会津征伐を宣言した。これに際して後陽成天皇から出馬慰労として晒布が下賜され、豊臣秀頼からは黄金2万両・兵糧米2万石を下賜された。これにより、朝廷と豊臣氏から家康の上杉氏征伐は「豊臣氏の忠臣である家康が謀反人の景勝を討つ」という大義名分を得た形となった。

6月16日、家康は大坂城・京橋口から軍勢を率いて上杉氏征伐に出征し、同日の夕刻には伏見城に入った。ところが、6月23日に浜松、6月24日に島田、6月25日に駿府、6月26日に三島、6月27日に小田原、6月28日に藤沢、6月29日に鎌倉、7月1日に金沢、7月2日に江戸という、遅々たる進軍を行っている。

この出兵には、家康に反感をもつ石田三成らの挙兵を待っていたとの見方もある。実際、7月に三成は大谷吉継とともに挙兵すると、家康によって占拠されていた大坂城・西の丸を奪い返し、増田長盛、長束正家ら奉行衆を説得するとともに、五大老の一人・毛利輝元を総大将として擁立し、『内府ちかひ(違い)の条々』という13ヶ条に及ぶ家康の弾劾状を諸大名に対して公布した。三成が挙兵すると、家康古参の重臣・鳥居元忠が守る伏見城が4万の軍勢で攻められ、元忠は戦死し伏見城は落城した(伏見城の戦い)。

さらに三成らは伊勢国、美濃国方面に侵攻した。家康は下野国小山の陣において、伏見城の元忠が発した使者の報告により、三成の挙兵を知った。家康は重臣たちと協議した後、上杉氏征伐に従軍していた諸大名の大半を集め、「秀頼公に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」として、上方に反転すると告げた。これに対し、福島正則ら三成に反感をもつ武断派の大名らは家康に味方し、こうして家康を総大将とした東軍が結成されていった(小山評定)。

東軍は、家康の徳川直属軍と福島正則らの軍勢、合わせて10万人ほどで編成されていた。そのうち一隊は、徳川秀忠を大将とし榊原康政、大久保忠隣、本多正信らを付けて宇都宮城から中山道を進軍させ、結城秀康には上杉景勝、佐竹義宣に対する抑えとして関東の防衛を託し、家康は残りの軍勢を率いて東海道から上方に向かった。それでも家康は、動向が不明な佐竹義宣に対する危険から江戸城に1ヶ月ほど留まり、その間160通近い書状を諸大名に回送している。

正則ら東軍は、清洲城に入ると、西軍の勢力下にあった美濃国に侵攻し、織田秀信が守る岐阜城を落とした。このとき家康は信長の嫡孫であるとして秀信の命を助けている。

9月、家康は江戸城から出陣し、11日に清洲、14日には美濃赤坂に着陣した。前哨戦として三成の家臣・島左近と宇喜多秀家の家臣・明石全登が奇襲、それに対して東軍の中村一栄、有馬豊氏らが迎撃するが敗れ、中村一栄の家臣・野一色助義が戦死している(杭瀬川の戦い)[注釈 21]。

家康は自らの軍師で臨済宗の禅僧である閑室元佶(関ヶ原の戦いに従軍していた)に易による占筮()を行わせ、大吉を得た。

9月15日午前8時頃、美濃国関ヶ原において東西両軍による決戦が繰り広げられた。開戦当初は高所を取った三成ら西軍が有利であったが、正午頃かねてより懐柔策をとっていた西軍の小早川秀秋の軍勢が、同じ西軍の大谷吉継の軍勢に襲いかかったのを機に形成が逆転する。さらに脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠らの寝返りもあって大谷隊は壊滅、西軍は総崩れとなった。戦いの終盤では、敵中突破の退却戦に挑んだ島津義弘の軍が、家康の本陣目前にまで突撃してくるという非常に危険な局面もあったが、東軍の完勝に終わった(関ヶ原の戦い)。

9月18日、三成の居城・佐和山城を落として近江国に進出し、9月21日には戦場から逃亡していた三成を捕縛。10月1日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に六条河原で処刑した。その後大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名をことごとく処刑・改易・減封に処し、召し上げた所領を東軍諸将に加増分配する傍ら自らの領地も250万石から400万石に加増。秀頼、淀殿に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めず領地もそのままだったが、論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地(豊臣氏の直轄地)は諸将に分配された。その結果、豊臣氏は摂津国・河内国・和泉国の3ヶ国65万石の一大名となり、家康は天下人としての立場を確立した。
征夷大将軍

慶長5年(1600年)12月19日、文禄4年(1595年)に豊臣秀次が解任されて以来空いたままになっていた関白に九条兼孝が家康の奏上により任じられた。このことにより、豊臣氏による関白職世襲を止め旧来の五摂家に関白職が戻る[注釈 22]。
『洛中洛外図』の徳川時代の伏見城
『洛中洛外図』の徳川時代の伏見城
二条城の唐門
二条城の唐門

関ヶ原の戦いの戦後処理を終わらせた慶長6年(1601年)3月23日、家康は大坂城・西の丸を出て伏見城にて政務を執り、征夷大将軍として幕府を開くため、徳川氏の系図の改姓を行った[注釈 23]。
詳細は「征夷大将軍#歴代の征夷大将軍」を参照

慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いの戦後処理で唯一処分が決まってなかった常陸国水戸の佐竹義宣を出羽国久保田に減転封。代わりに佐竹氏と同じく源義光の流れをくむ武田氏を継承した五男・武田信吉を水戸に入れた。

慶長8年(1603年)2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城に派遣。朝廷より六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍、淳和奨学両院別当、右大臣に任命した[注釈 24]。

同年3月12日、伏見城から二条城に移り、3月21日、衣冠束帯を纏い行列を整えて御所に参内し、将軍拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述べた。3月27日、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。また4月4日から3日間、二条城で能楽が行われ諸大名や公家衆を饗応した。
大御所政治

慶長10年(1605年)4月16日、将軍職を辞するとともに朝廷に嫡男・秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川氏が世襲していく」ことを天下に示した。同時に豊臣秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請したが、秀頼はこれを拒絶。結局、六男・松平忠輝を大坂城に派遣したことで事は収まった。なお、このとき次世代の家臣である井伊直孝と板倉重昌も叙任された[39]。

慶長12年(1607年)には駿府城に移って、「江戸の将軍」に対して「駿府の大御所」として実権を掌握し続けて幕府の制度作りに勤めた(大御所政治)。

同年、朝鮮通信使と謁見し、文禄・慶長の役以来断絶していた李氏朝鮮との国交を回復した。

慶長14年(1609年)、オランダ使節と会見。オランダ総督(使節は国王を自称)マウリッツからの親書を受け取り、朱印状による交易と平戸にオランダ東インド会社の商館の開設を許可した。

慶長16年(1611年)3月20日に九男・徳川義利(義直)、十男・頼将(頼宣)、十一男・鶴松(頼房)を叙任させた。「御三家」体制への布石といえよう[40]。3月22日には、自らの祖先と称する新田義重に鎮守府将軍を、実父・松平広忠には権大納言を贈官した[41]。

同年3月28日、二条城にて秀頼と会見した。当初、秀頼はこれを秀忠の征夷大将軍任官の際の要請と同じく拒絶する方向でいたが、家康は織田有楽斎を仲介として上洛を要請し、淀殿の説得もあって、ついには秀頼を上洛させることに成功した。この会見により、天下の衆目に、徳川公儀が豊臣氏よりも優位であることを明示したとする見解があり[42]、4月12日に西国大名らに対し三カ条の法令を示し、誓紙を取ったことで、徳川公儀による天下支配が概ね成ったともいわれる[43]。

同年、ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)副王ルイス・デ・ベラスコの使者セバスティアン・ビスカイノと会見し、スペイン国王フェリペ3世の親書を受け取る。両国の友好については合意したものの、通商を望んでいた日本側に対し、エスパーニャ側の前提条件はキリスト教の布教で、家康の経教分離の外交を無視したことが、家康をして禁教に踏み切らせた真因である。この後も家康の対外交政策に貿易制限の意図が全くないことから、この禁教令は鎖国に直結するものではない[44]。

慶長18年(1613年)、イギリス東インド会社のジョン・セーリスと会見。イングランド国王ジェームズ1世からの親書と献上品を受け取り、朱印状による交易と平戸にイギリス商館の開設を許可した。
大坂の陣
詳細は「大坂の陣」を参照

最晩年を迎えていた家康にとって豊臣氏は最大の脅威であり続けた[注釈 25]。 一大名の位置に転落したとはいえ、なお特別の地位を保持しており、実質的には徳川氏の支配下には編入されておらず、西国に配置した東軍の大名は殆ど豊臣恩顧の大名であった。また、家康の将軍宣下時には、秀頼が同時に関白に任官されるとの風説が当然のこととして受け取られており、秀忠の将軍宣下時の官位は内大臣であったが、秀頼は家康の引退で空いた右大臣を譲られており、秀忠を上回っていた。

さらに徳川氏は内部に問題を抱えていた。将軍・秀忠とその弟・松平忠輝の仲は険悪であり、忠輝の義父でもある伊達政宗は未だ天下取りの野望を捨ててはおらず、忠輝を擁立して反旗を翻すことも懸念された。また将軍家でも、秀忠の子である徳川家光と徳川忠長のいずれが次の将軍になるかで対立していた。さらに禁教としたキリシタンの動向も無視できない存在であった。もしこれらが豊臣氏と結託して打倒家康で立ち上がれば、幕府にとっては大きな脅威となる危険性があった。

家康は当初、徳川氏と豊臣氏の共存を模索しているような動きもあり、諸寺仏閣の統制を豊臣氏に任せようとしていた兆候もある。また、秀吉の遺言を受け、孫娘・千姫を秀頼に嫁がせてもいる。しかし、豊臣氏の人々は政権を奪われたことにより次第に家康を警戒するようになっていった。さらに豊臣氏は、徳川氏との決戦に備えて多くの浪人を雇い入れていたが、それが天下に乱をもたらす準備であるとして一層幕府の警戒を強めた[45][46]。

そのような中、慶長12年(1607年)には結城秀康、慶長16年(1611年)に加藤清正、堀尾吉晴、浅野長政、慶長18年(1613年)には浅野幸長、池田輝政など、豊臣恩顧の有力大名が次々と死去したため、次第に豊臣氏は孤立を深めていった。

また、慶長17年(1612年)には佐々成政の外孫である鷹司信尚を関白に推挙している。

そして、慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件をきっかけに、豊臣氏の処遇を決するべく、動き始める。
方広寺鐘銘事件
現在も残る方広寺の鐘銘の「国家安康」「君臣豊楽」の文字

豊臣氏は家康の勧めで慶長19年(1614年)4月に方広寺を再建しており、8月3日に大仏殿の開眼供養を行うことにした。ところが幕府は、方広寺の梵鐘の銘文中に不適切な語があると供養を差し止めた。問題とされたのは「国家安康」で、大御所・家康の諱を避けなかったことが不敬であるとするものであった[44][45][46]。「国家安康」を「家康の名を分断して呪詛する言葉」とし、「君臣豊楽・子孫殷昌」を豊臣氏を君として子孫の殷昌を楽しむとし、さらに「右僕射源朝臣」については、「家康を射るという言葉だ」と非難したとする説もあるが(「右僕射源朝臣」の本来の意味は、右僕射(右大臣の唐名)源家康という意味である)、これは後世の俗説である[45][46]。
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