野に撃沈

多摩地区在住の中年日帰り放浪者。ペンタックスK10Dをバッグに野山と路地を彷徨中。現在 野に撃沈2 に引越しました。

羽村の二つの祭

2008-04-14 | 日々雑感
 昨日の日曜日はあいにくの雨模様で、予定していたギフチョウの観察をやめにしてチューリップ祭の行われている羽村に出かけた。

 多摩川の両岸と羽村堰下橋の上にはたくさんの人だかり。一体何なのだろう。




 太鼓を担ぎ祭半纏を着込んだ一団が河原に陣取り、太鼓を威勢よくたたき始めた。よく見ると結構年配の人が多い。


 向こう岸から神輿を担いだ白装束の行列がやって来てそのまま川を渡り始めた。何れも若く屈強なオトコたちだ。





 中州にいったん上がり再び深い淵へと入って行く。



 折からの雨で水量は増している。いったんは一人が淵に取り残されたが何とか自力で岸にたどり着いた。


 

 何度も淵に入っては神輿をもみ合い、岸に引き返す。




 この地の神社、八雲神社の川入れで春の風物詩となっていると知ったのは家に帰ってからのことだった。


 羽村の堰の上には臨時の通行路が設けられていた。

 ここを渡って根がらみのチューリップ畑までは5,6分だ。

 雨は止んでいるのだが陽は全く射さない。


 程なく土手を降りると派手な色彩のチューリップ畑が見えてきた。


 時期が少し早かったのか、以前より畑に空きが見える。






 向こうから団体さんがやってきた。






 そのうちチューリップの色彩に負けないほど派手な衣装を着たお姉さんたちがやってきた。どうやら一時から祭のイベントとして行われるフラメンコ踊りの人たちらしい。


 再び降りだした雨の中激しくギターがかき鳴らされ、掛け声とともに歌と踊りが始められた。





 雨は陽気なフラメンコの歌と踊りにはやはり似合わない。晴れていたら良かったのに……残念。



 帰りの多摩川の河原は殆どの人が引き上げていて、濁りと水量を増した川音が響くだけだった。

蟷螂の子の小さな斧

2007-07-02 | 日々雑感
 雨模様の中つれあいと近所を散策したら、黄色い花の上に小さい生き物を見つけた。


 小さいながらも根性の据わった顔つきでしっかりとこちらを見据えている。

 驚かさないようにゆっくりと近づいてみると、口に何か咥えているように見える。(後で拡大してみたら揃えられた2本の前足だった。)

 

 もう少し近づこうとしたらあっという間に逃げられてしまった。野に生きるちいさな者たちは動きが俊敏だ。諦めきれず周囲を探してみたら、他にもう一匹花の上にいた。こちらはややお尻を持ち上げている。威嚇しようとしているのかそれとも既に逃げようとしている体勢なのか。


 思えば春先生まれた兄弟姉妹たちのうち、今何匹が生き残っているのだろうか。恐らく数少ないだろう生き残りの彼らに「お互い頑張って生きようよ」と小さいエールを送らざるを得なかった。

 このブログをはじめて一年。蟷螂の子らに負けてはいられない、私もだらだらとした生を漫然と送るのではなく、身のうちに小さい斧(気概)を帯びて生きていこうと心に誓った。

狭山湖暮景

2007-01-13 | 日々雑感
 (前回の続き)小高い展望の丘に立って狭山丘陵を見下ろす。幾重にもうねる曲線のリズムと澄み切って広々とした空が心地よい。風はなく、空気は程よく冷たく透き通っている。溜まった心の澱が洗い出されていくを感じる。今風に言えばデトックス(解毒)効果がこうした風景にはあるようだ。

 丘の上には榎の大木があった。その傍にあるベンチに腰掛けていたら、過ぎた一年が思い出されてきた。決して明るい年ではなかった。義父の死から始まって、長男の反抗と別居、そして師走の時期の妻の入院と、暗く慌ただしく過ぎた一年だった。がその一年もどうにか乗り越えられた。今は改まった年の、程ほどの幸を祈ることにしよう。お金は生きていられるだけとちょっぴりの生きがいを支えるだけあれば良いのだ。多くは望むまい。時々で良いからゆったりくつろげる時間が持てさえすれば良いのだ。



 狭い農道を下りて行くと白菜畑があった。降霜を防ぐためかシャンプーハットのようなものを掛けてあるのがちょっとユーモラスだ。



 古い神社の脇を通り過ぎて、傾斜のある畑地のど真ん中に一軒の作業小屋が建っていた。近づいてみると確かに作業用の道具は立てかけてあるものの、中では沢山の鳩が飼われていてしきりに鳴いていた。小屋全体が鳩の住まいとなっているようだ。あぁこんな見晴らしの良いところに住みたいものだと鳩が羨ましくなった。


 
 日が沈みかけ風が少し出てきたようだ。寒くなってきたので帰りがてら車で狭山湖の方へ移動した。

 

 しばらく富士の姿を見ようと粘ったのだが、なかなか顔を覗かせてくれない。(真ん中の山と雲の間に裾野は見えているのだが)



 大勢のカメラマンが夕日を前に溜息を吐きつつ、夢中でファインダーを覗き込んでいる。





 陽も山なみの中へと沈み込み、辺りもすっかりと暗くなってきた、そろそろ家路につくとしよう。

東京夜景④-銀座後編

2006-12-25 | 日々雑感
 ミキモトのツリーの前は一段と人だかりがしていてなかなか近づけなかった。やっと近くまで寄れた時,ツリー下に置かれた2対の人形を見つけた。

 銀座中央通りの4丁目一帯は、三越や松屋といった老舗のデパートが立ち並んでいる。行きかう人の数は次第に増え、肩を触れ合わずに歩くことはもはや出来ない。


 日本橋駅のそばのコレド。





 日本橋の方まで来ると途端に人通りが少なくなった。都心環状線の高架下に東海道の起点となった日本橋がある。



 三井本館前ではビルの壁に浮世絵を映写していた。



日銀本店と三越の間の通りを抜け、都心環状線の高架をくぐって丸の内方面へ。去年の今頃は東京ミレナリオで大変な人込みだったが、今年は開催されず通りは閑散としていた。並木に飾られたオレンジ色の発光ダイオードが今年のイルミネーションの目玉らしい。この色は今までの冷たい人を寄せ付けないような美しさではなく、何処となく温かみを感じさせてくれる。癒しの光とでも言ったところか。



新丸ビルの中に入ってみると、吹き抜けの広間に置かれた巨大ツリーに向かって大勢の人々が携帯をかざしている。手を精一杯伸ばし対象を自らの通信機器の中に写し取るその姿は恰も新しい祈りの形態のようだ。



 日もすっかり落ちた。そろそろ一日限りの小放浪も終わりに差し掛かったようだ。東京駅の赤レンガは何時見ても郷愁を覚えるが、ライトアップされている時は尚更そうだ。駅は諸事の起点であり終点であるから、様々な人々の思いが混ざり合いしこりとなって残るのだろうか。歴史を重ねた古い駅舎は尚更いけない。じっと見ていると胸がつまり訳もなくセンチメンタルになってしまう。



水のある夕景―多摩川と山口貯水池

2006-11-08 | 日々雑感
 この季節、野の花が枯れ果て寂しくなってしまう。植物園に行っても元気に花を咲かせているのは奇天烈な名を持った外来の園芸植物ばかり。たまに見る分には面白いのだが、見続けると飽きが来てしまう。一方、野の花たちはまるで今年の分の仕事は終えたとばかりに茶色のカーテンの向こうに隠れている。

 休日、多摩川を散策しようと登戸で降りた。久しぶりに来て見ると老若男女、家族連れ、カップル(死語か)を問わず、大勢の人たちが河原の土手道を歩き、走り、サイクリング等をしていた。暫く歩いて稲城大橋の付近まで来た。カワウだろうか、カラスより大きい鳥が何匹も水面すれすれに飛び交っている。見上げると送電線の上に夥しい数の鳥がとまっている。


それにしてもどうして、こんなに秋の落日は感傷を呼び起こすのだろうか。じっと見ていると訳もなく熱いもので胸が一杯になってくる。



 一日置いた日曜の午後、こんどは山口貯水池に出かけた。自転車に乗って多摩湖サイクリングロードを走り1時間たらずで着く。4年もの歳月を費やした耐震工事が終わって、以前よりは随分整備され綺麗になっている。私としては現都知事の思わせぶりな石碑のない、以前のゆったりした景観の方が好きだったのだが…。
 堤防を歩くにつれて、柔らかい秋の夕日が水面を茜色にゆっくりと染め上げていく。吹いていた風が何時とは知れずやんでいた。と、細波すらたたない磨き上げられた鏡のような湖面に巨大な魚影が二つ浮かんでいる。

 見上げると空の上にはちぎれた二片の雲が浮かんでいた。
 


 釣瓶落としのごとく陽が落ちはじめた。水鳥たちはいちはやく湖の中央に群れ集まり互いの安否を気遣うかのように低く鳴き交わしている。堤の上で夕日に魂を奪われたかのように見入っていた人々も我に帰り、そろそろと家路につこうとしている。こうしていつもの一日が暮れてゆく。