ギャラリー酔いどれ

売れない絵描きの世迷い言&作品紹介

ゆく夏や

2011-08-06 11:22:04 | Weblog
 画は北 蓮蔵 (きた れんぞう)

 1876 ( 明治9 )〜 1949 ( 昭和24 )
 
 洋画家                 作


「提督の最後」です。


☆曇り、気温上昇中。

今日は「広島原爆忌」、                合掌。

1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、米軍のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」が、
広島市上空で世界初のウラン型原子爆弾「リトルボーイ」を投下した。
熱線と衝撃波によって市街は壊滅し、約14万人の死者を出した。
その後、原爆症等で亡くなった人を含めると、犠牲者は25万人以上にのぼる。

この日、広島市では原爆慰霊祭で世界平和を祈念するアピールが宣言され、燈籠流しが行われる。

とある。

以前より何度も書いてきましたが、この原爆投下、

レイシズムに基づく「実験」であったこと、ダメリカには反省の欠片もないこと、

そして「昭和天皇の責任」極めて重いことを再認識すべきなのです。

再掲しますが、

◆http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/
2011/7/12
◎「フリーメーソンとは何か その3」           より抜粋、

あの原子爆弾製造の計画は「マンハッタン計画」という。
この計画を立てたのは、イギリスのユダヤ財閥の王ヴィクター・ロスチャイルドである。
彼は多くのユダヤ研究者をルーズベルト大統領のもとに送りつけると同時に、
密かに世界中のウラン鉱を買い漁ったのである。
原子爆弾を駆使して、ユダヤ財閥の王ロスチャイルドは世界制覇を狙っていたのである。

彼らは日本に目標を定めた。そして研究・開発を急いだ。
それまでは、なんとしても日本との戦争を長びかさなければならない。
彼らは国際決済銀行を使い、戦争をいかに長びかせるかを研究した。
その甘い汁のひとつが天皇の貯蓄した金や銀やダイヤ・・・の貴金属をドルかスイス・フランにかえて、
スイスの国際決済銀行かスイス国立銀行(この銀行の役員のほとんどが国際決済銀行の役員を兼任する)の
天皇の秘密口座に入れてやることであった。従って、
一九四四年から一九四五年にかけて天皇は、自分の財産の移しかえに専心するのである。
その過程と原爆製造の過程が見事に一致するのである。

私は元駐日大使グルー(管理人注:その陰にはユージン・ドーマンがいた)とステイムソン陸軍長官が
日本のヨハンセン・グループと深く結ばれて、情報の交換をし続けていたとみるのである。
ヨハンセン・グループというのは、「吉田反戦」という言葉から作られた、日本とアメリカを結ぶ秘密組織である。
このグループの首魁は牧野伸顕、そして吉田茂と樺山愛輔の三人である。
三人のほかに少数の人々の姿が見え隠れする。


私がいわんとするのは、彼らが、牧野伸顕(元内大臣)、吉田茂(元外務大臣)を含めて、ヨハンセン・グループの秘密名で、
太平洋戦争開戦の翌年の六月にグルー大使がアメリカに帰国するまで情報を流していたということである。
そしてグルーが国務次官になった後も、このルートが守られていた可能性大である。
太平洋戦争が始まった後に、すでに和平交渉が宮中と重臣たちのルート(ヨハンセン・グループ)により行われていた可能性がある。
従って、このグループに参加した人々はすべて、なぜか戦犯に指定されていない。
牧野伸顕、吉田茂、岡田啓介元首相、米内光政元首相たちである。

私はヨハンセン・グループが原爆投下を広島と決定し、グルーに報告したとみる。
その日時も、八月六日午前八時ごろにしてほしい、と。
「そんな馬鹿な!」と思う人も、どうか私の説を最後まで読んでほしい。

天皇は原爆についての知識、投下の日、その場所を前もって知っていたはずである。
ヨハンセン・グループはステイムソン陸軍長官の極秘情報をグルーを通じて入手し、そのつど天皇に報告していたからである。

ではどうして八月六日なのか。
それはこの日までに、スイスの赤十字経由で天皇の貯蓄が無事処理をつけられる見通しがたったからである。

東郷茂徳も天皇から”急げ”と告げられ、赤十字との交渉を急いだ。
東郷茂徳は八日、天皇に会い、最初に「無事にスイスの件はうまく処理できました。
当分資産は凍結されますが、遅くとも三〜五年後には凍結を解除してくれるとステイムソンが申しています・・・」
と言ったはずである。それから天皇と原爆を”天佑”として終戦工作に入るべく相談したにちがいない。


私は東郷茂徳外相の依頼か、他のヨハンセン・グループの依頼を受けた松本俊一次官が原爆投下前のある日、
密かに畑元帥と会談し、八月六日午前八時すぎごろの広島に原爆を落とす計画を打ち明けたと思う。
そのときに松本俊一次官は、この日の八時すぎに、第二総軍の全員が集合するようにして欲しいと依頼したとみえる。

この第二総軍を全滅状態におけば、陸軍の反乱の半分は防げるからである。


私はここで私なりの結論を書くことにする。

原爆投下は完全に避けられた。
少なくとも、ポツダム宣言が出たときに、天皇がマイクの前に立ち、国民に詫びの言葉を述べ、
「わが身がどうなろうとも、この戦争を敗北と認め終戦としたい。ポツダム宣言を無条件で受け入れる」
と言えばよかった。どうして言えなかったのか。

天皇と上流階級はその甘い生活をやめられなかった。それでステイムソン陸軍長官らの”陰の政府”と交渉した。
天皇制護持を条件に原爆投下を受け入れた。
彼らの条件の最大のものは、天皇・皇室、上流階級および重臣たちが、原爆投下の非難の声をあげないこと、
および日本国民をそのように誘導することであった。

数々の交渉がヨハンセン・ルートでなされた。天皇と重臣は第一の原爆投下の地を広島と決定した。
多分米内光政のルートで、畑第二総軍司令官のもとに依頼が入った。
八月三日から、学徒、兵隊を入れた大動員がなされた。八月六日、第二総軍は壊滅した。

ここに、終戦反対を叫ぶ最も恐れた第二総軍は消えた。
残すのは第一総軍(杉山元司令官)のみとなった。天皇と皇室と上流階級は偽造クーデターを起こし、
第一総軍を中心とする反乱を未然に防いだ。かくて鶴の一声が全国津々浦々まで鳴り響き渡る時を迎えることができた。
原爆投下は天皇・皇室・上流階級にとってまさに”天佑”そのものであった。


ー私たちはこの事実から何を学ぶべきか。

結論はただ一つ。一人、一人が真実を追究すべく立ち上がるべきである。

以上、鬼塚英昭著『日本のいちばん醜い日』より順不同に抜粋しました。



今日の絵、画題は第二航空戦隊司令官、山口 多聞(やまぐち たもん、1892年8月17日 - 1942年6月6日)少将です。

手前も「鎮魂」という作品で描いております、部分ですが、



(Wikipedia)より、

この際、部下は再三にわたって多聞と加来に対して退艦を懇請したが悉く拒否された。
また、別な部下が帯同を申し出るとこれも断固として許可しなかった。総員退去の際、
退艦する主席参謀伊藤清六中佐が「何かお別れに戴くものはありませんか?」と頼むと
黙って自分の被っていた戦闘帽を渡したという。飛龍は総員退去後も暫く浮いていて漂流を続けていたが、
総員退去命令が届かなかったり、火災などにより艦内に取り残されていた乗員が相当数おり、
この一部が沈没前に最上甲板に脱出に成功した。しかし既に周辺に味方艦はおらず、
残されていたカッターを使用して退艦したがこの際傾いた飛龍の艦橋からピストルが落ちてきたという。
脱出の際既に艦橋に人影はなかったといい、また艦橋から声がかかることもなかったということから、
この時既に2人は自決していたものといわれている。

空母「飛龍」に掲げていた少将旗は生還した第二航空戦隊首席参謀伊藤清六中佐に託され、
現在広島県呉市の呉市海事歴史科学館(通称「大和ミュージアム」)に展示されている。



米内光政、山本五十六たちの、小室直樹いうところの「必敗の信念」。

親英米の「昭和天皇の意向」を忖度して動いておったのでしょうが、兵士、国民はたまりませんね。

真珠湾攻撃も戦略的には愚策、ミッドウェーも意図不明、

このミッドウェー敗北が転換点でした、ここで敗戦確定だったのだが、愚図愚図引っ張るわけだ。

北 蓮蔵、もう一枚、



「敵前上陸」です。


◆http://commutative.world.coocan.jp/blog2/2010/01/post-469.html
Commutative Weblog 2
◎大東亜戦争の勝ち目             より抜粋、


さらなる悪手は、真珠湾攻撃である。これは、恐ろしく成功の確率が低い、無謀な奇襲作戦で、
もし前もって敵にみつかると、連合艦隊が一気に殲滅され、日本は即降伏となる、という類のものであった。
だいたい、ここ一番で、万が一ばれなければ甚大な被害を与えられるという可能性はあることはあるが、
成功率は低く、ばれたら即投了という奇襲戦法を採る棋士はいない。

ところが、当時の黛大佐によると、何もそんな確率の低い奇襲作戦は、全く採る必要がなかった。
黛大佐の合理的計算では、普通に戦っても、日本海軍は、米国海軍に十分勝ち目がある。
なにしろ、大砲の威力が大きく、命中率が米国海軍よりはるかにいい。だから、実は、
真珠湾攻撃で暴れられるだけ暴れてみせるが、
という山本五十六は、実は「必敗の信念」をもってしまっていた、ということになるのかもしれない。

逆に不幸だったのは、真珠湾攻撃とそのあとのマレー沖海戦で、
信じられないようなラッキーの勝利を収めてしまったことである。どちらも、
正確に応接されると必敗だったかもしれない戦いである。一気に投了しなくてはならかったかもしれない。
それなのに、たまたまうまくいったので、日本軍は、そこで微塵だに反省しなかった。反省して、
その後の戦いにその教訓を活かせば、また様相も変わったかもしれない。
それどころか逆に勝って兜の緒が緩みっぱなしになり、思い上がりが甚だしくなったのであった。

そもそもが、英米を相手にせず、オランダだけを攻めて石油を確保だけしておく、という手もあったのである。
すると、反戦の気風に満ちた米国民は、到底日本に対する参戦に同意するはずもなく、ルーズベルトは苦渋したはずである。

このように、日本は、何のために戦うか、どこに資源を投入するか、どこで戦争を切り上げるか、相手国の歴史と文化はどのようか、
という戦争設計の技術があまりにもお粗末であった。
少なくとも大東亜戦争の前半では、飛行機と軍艦というハードウェアで優ったのに、戦争設計というソフトウェアで後れをとった。

その他、兵站思想の欠如、硬直的なハンモック・ナンバー主義など、柔軟な対応を阻止する要因はあまりにも多い。

さらに言うと、決戦思想と艦隊保全主義の並立は、真珠湾攻撃でも、ソロモン海戦でも、相手のリソースを絶つための追撃を欠いた。
追撃により、艦隊を失う可能性が増えるのである。しかし、真珠湾攻撃で決定的に燃料タンクなどを破壊しておけば、
ミッドウェーの戦いそのものがありえなかったかもしれないし、ソロモン海戦でも相手の補給船を撃破しておけば、
ガダルカナルの米軍は物資不足に陥り、あるいは、日本軍が陥せたかもしれないのである。

こうして、外交と、戦争設計と、戦術をもう少し研究し工夫しておけば、随分と大東亜戦争は有利に戦えたに違いないのである。
そして、ドイツとうまく連携すれば、有利な条件で、連合軍と講和できたという可能性もある。
ただ、それが果たして安定な解かと問うと、あの狡知に長ける米英が、手を拱いて放置しておくわけがない、ともいえるが。



◆http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3379929.html
*質問

ミッドウェー海戦

今考えると有利だった日本が何故ミッドウェー海戦で負けたのでしょう
皆さんの理由を教えて下さい
また、自分だったらどうしたら勝っていたか教えて下さい


*No.10

回答者:googahaku
回答日時:2007/09/29 06:40

あまり、指摘されることがないようですが、私は、
指揮官(中でも総指揮官の山本大将)が臆病風に吹かれたせいと考えています。

なるほど、気の緩みや作戦上の誤判断、情報不備があり、それが空母4隻を失う直接の原因となったのでしょうが、
同じような理由から思いがけずに緒戦に打撃を受けたことは、日露戦争の遼陽・旅順の戦いなど、
数多くあったことです。ミッドウエーの場合と違うのは初期の
打撃を挽回しようとの気概をもっていたということです。

10時間近い後方にあったとはいえ、大戦艦群を擁し、空母もなお
2隻を残していた「主力部隊」が何故おめおめと逃げ帰ってきたのでしょうか。

目的はミッドウエー島の占領だったはずです。
何かの本で読みましたが、このとき山本大将は、回虫をわかして腹痛を起こし、戦意を喪失していたと考えられます。
「後日を期す」とか「これ以上の消耗をしたくなかった・・・」とは逃げ口上で、
体調不良にも影響を受けたか、臆病風に吹かれ、敢闘精神を失ったとしか思いようがありません。
「最後の一艦まで戦う」決意で臨んでいたら、勝てたはずです。

戦力においては劣勢だった米軍の方が、指揮官・兵ともにはるかに勇敢に戦ったようです。
山本大将のその前後の指揮振りを見ていると、随所に軟弱振りが目に付きます。


*No.6

回答者:PENPENMAKKY
回答日時:2007/09/27 09:07

どうもミッドウェイ海戦は真実が語られていない模様です。

関係者の話しと写真を見る限りでは雷爆転換は行われていない模様です。
魚雷という兵器はひじょうに高価な兵器でかつ一度に調整できる数は赤城・加賀で8本、
蒼龍・飛龍で6本です。これは一度取り外すと調整に2時間ほど要します。
そのため一度取り付けた魚雷を爆弾に取り替えるという行動はありえないそうです。

また、出撃直前の空襲といわれていますが、
米軍のガンカメラに収められた各空母の甲板上に飛行機は並んでおりません。
また蒼龍から飛び立った偵察機は空襲直後に飛龍に帰還しており、甲板上に何も無かったことを示しています。
関係者の話しでも甲板上に飛行機があったら海に投棄して誘爆を防ぐのが常識、
それが出来なかった状況にあったと考えるのが筋と言っておりました。
加賀の乗組員は後ろ半分の甲板は吹き飛んでいたと語っております。

敗因はチャチな偵察計画(立案者は源田)と、
偵察機の職務怠慢(筑摩一号機は敵機動部隊上空を通過している)と思われます。


*http://www.warbirds.jp/BBS/c-board/log/tree_179.htm
◎ミッドウェー海戦で筑摩1号機が敵空母を見つけていたら     ご参照。



*No.4

回答者:buchi-dog
回答日時:2007/09/27 08:56

パールハーバーの真実 技術戦争としての日米海戦 PHP文庫 兵頭二十八/著
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31624972

に、質問者様の疑問を解く情報が多く書かれていると思います。

ミッドウェー海戦で日本が4空母を喪失したのは

1. 「高高度から接近する敵急降下爆撃機を事前に発見できなかったから」
2. 「敵急降下爆撃機を爆弾投下前に撃墜できなかったから」
3. 「いち早く敵機動部隊を発見できなかったから」
4. 「敵機動部隊発見後、迅速に攻撃隊を準備して発進させられなかったから」
5. 「敵弾を受けた各空母が、攻撃準備中の飛行機の炎上、搭載した爆弾や魚雷の誘爆で消火不能の大火災を起こしたこと。
飛行甲板に防御がなかったこと。密閉型格納庫のため、格納庫内の火災に対処する術がなかったこと」

といった理由があります。いずれも偶然ではなく、「システムの欠陥」があってのことです。

1)の主因は「レーダーがなかった」ことですが、ないならないで、
 高高度に艦攻や艦偵を滞空させて敵機の接近を監視することは可能でした。ただ、
「空母機動部隊」というものを発案したのが日本であり、その戦術も「試行錯誤」の段階にあったわけですので、
「高高度から接近する敵機をいち早く発見する手立てを講じなかった」ことを責めるのは酷です。

2)と4)の主因として
「零戦が空母直衛戦闘機として重大な欠陥を抱えていた。20ミリ機銃の弾薬数が少なく、
 すぐに撃ちつくして補給のために着艦することを要し、その度に飛行甲板をクリアーにしなければならなかった」
上空直衛の零戦が低高度に集まっており、高高度からやってきた米軍急降下爆撃機を迎撃できる態勢の零戦が全くなかった。
 当時の戦闘機は上昇力に限度があり、高高度からやってきた米軍急降下爆撃機を迎撃するには、
 事前に高高度で待機していなければならなかった」

4)の原因としてはさらに「戦闘中の艦内で、魚雷を攻撃機に搭載すること自体が困難なことであった
《上記の本に詳述。従来は知られていなかった史実です》。その上に、
 指揮の混乱による「魚雷→陸用爆弾→魚雷の再三の兵装転換」で時間を空費してしまった」

などなど、上記の本を読むと質問者様のミッドウェー海戦についての認識が大きく変わるはずです。
題名が「パールハーバーの真実」となっているので誤解しやすいのですが、
1942年の空母機動部隊を運用するのは非常に難しいことであったのが判るはずです。

「また、自分だったらどうしたら勝っていたか教えて下さい」

ミッドウェー作戦の際には、支援作戦としてダッチハーバー攻撃を隼鷹、飛鷹の2隻の空母で行いました。
このような無駄な作戦を止めます。隼鷹、飛鷹の2隻の空母に機動部隊直衛用の零戦と偵察用艦攻を積み、
史実でミッドウェー作戦に参加した空母4隻は、攻撃専用に用います。

そして、機動部隊の外周部の高高度に敵機発見のための艦攻(通信能力に優れ、爆弾や魚雷を積まなければ長時間滞空可能)を配し、
かつ高高度に零戦を常時待機させます。隼鷹、飛鷹の2空母を「迎撃専用」に用いれば十分可能です。

こうすれば、赤城以下の4空母は、迎撃用の零戦を発艦・着艦させる心配なく攻撃の準備に専念できます。
(1)(2)(4)の問題がなくなれば、
(5)の「攻撃隊を満載した状態で爆弾を受け、ガソリンに一斉に火がつき、爆弾と魚雷が次々に誘爆」と言う悲劇は避けられました。

また、日本の偵察機は、低翼構造のため、偵察に一番大事な下方視界が良くない(というより「下方視界がない」)
という致命的な欠陥がありました。偵察が主任務の水偵は全て高翼構造(セスナのような構造)とします。
可能ならば、偵察を主任務とする艦上機を高翼構造で作りたい所ですが。

零戦の「20ミリ機銃の携行弾数が少ない」という問題ですが、
大口径のために弾薬が重く、多数は積めないと言う問題もあります。
この「戦闘機搭載火器の問題」は上記の本で多くのページを割いて書いてありますので読んで下さい。


*No.1

回答者:myeyesonly
回答日時:2007/09/26 23:54

こんにちは。
あの海戦は負ける選択肢の方が少なかった感じがします。

◎空母機動部隊だけ突出させないで全艦隊まとまってれば空母に被害が集中する事態はなかったと思われます。

◎空母機動部隊にミッドウェイ島基地と米機動部隊の両方を相手させる二正面作戦。
 最もやってはいけない作戦として常識的な物です。
 最初に島の基地を爆撃したら、後は強力な戦艦部隊に島を任せてしまえば米機動部隊に集中できたでしょう。

◎よく言われる爆弾と魚雷の付け替え。
 山口多聞少将の進言を容れてれば出遅れなかったでしょうね。
 そもそも、水雷専門の南雲司令官が空母機動部隊の総指揮を取った事自体変だと思います。
 空母が全滅した後、水雷戦をやりたかったけど駆逐艦を護衛や救助にまわしてしまうとそれが出来る戦力が無かったといいます。
 なら最初から航空攻撃と併せて得意な水雷戦をしかければよかったのに。

◎巡洋艦利根のカタパルトが壊れたのは仕方が無いにしても、利根航空隊長自身が偵察飛行でミスしてますので、
 部隊全体に楽戦ムードがあったのかもしれません。

何より、強力な戦艦群を持ちながらあそばせていたのが不思議です。
あそこには大和も武蔵もいましたし。

動かない陸上基地を砲撃したらさぞすごい戦果になったと思わなかったのでしょうかね?



まさに「必敗の信念」。

トップがいかれておると、民の不幸極まれり、なのですよ。

現在も変わらんよねぇ。




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