ギャラリー酔いどれ

売れない絵描きの世迷い言&作品紹介

夏のおはりにⅢ

2013-08-29 10:53:58 | Weblog
 画は柚木 武士(ゆき たけし)

 柚木武士:
 1921年 出生于台湾省花莲港 1939年毕业于台北第一中学(现台湾省立建国高等中学)
 1942年 毕业于台南高等工业学校(现成功大学) 1946年由日本陆军航空部队复员,
 从中国回日本 1959年 从日本航空自卫队退职 ~ とあり。

 ☆https://fukui-freaks.jp/u/crissnote/HrYaDEKbmAML1Q6htIOf/
 柚木武士『日本軍艦画集』 ご参照!                      作


  「空母 飛龍 蒼龍」です。


☆晴れ、午後雨らしい?

さて、ヘタすると「第三次世界大戦」の引き金になりかねんと思う。

◆http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130829/k10014120951000.html
NHKニュース 2013年(平成25年)8月29日[木曜日]
米 国連決議なしでも軍事行動辞さず


シリアで化学兵器が使われたとされる問題を巡り、アメリカ政府は、
ロシアの反対によって国連安全保障理事会で決議案が採択されない場合でも、
アサド政権に対して軍事行動も辞さない考えを強調しました。

イギリスのキャメロン首相は、アサド政権が化学兵器を使ったとして非難した上で
シリア国民を守るために必要なあらゆる手段をとるよう求める決議案を、
国連の安全保障理事会に提出する方針を明らかにしています。

これについて、アメリカ国務省のハーフ副報道官は、28日、
「けさ、安保理の常任理事国5か国で決議案の内容を協議したが、
ロシアから、これまでと違う意見は出されなかった」と述べ、

現状では、ロシアが軍事行動に反対する姿勢を崩さないために、
決議案を採択するのは困難だという見方を示しました。

一方で、ハーフ副報道官は、
「ロシアの妨害の影で、アサド政権が事実を隠し続けられるとは思わない。
われわれは適切な行動を進めるだろう。重要なのは、
化学兵器の使用は見過ごせないという強いメッセージを送ることだ」と述べ、
国連安保理で決議案が採択されない場合でも、
アサド政権に対して軍事行動も辞さない考えを強調しました。



キ印ユダメリカの悪辣ぶりはいや増すばかりだ、

また、まんまと嵌められてはならんよ、

「昭和天皇」にはえらい目に合わされておるのだ、

その「田布施システム」のゾンビが壺三だからねぇ、縁起が悪いのさ。



柚木 武士、二枚目、



「駆逐艦 吹雪」です。



「歴史は(形を変えて)繰り返す」といいますよ、

◆http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-577.html
読書日記  2008/08/08
原爆投下

より抜粋、


『原爆の秘密 国外編』 鬼塚英昭 成甲書房 2008年8月 
 
 *************

私(鬼塚)はどうして「原爆の秘密」を知りえたのか [序として]

1945年8月6日広島に、その3日後の9日には長崎に、アメリカは原爆を投下した。
日本の敗戦はすでにはっきりしていた時期であった。
私はながい間、「どうしてアメリカは日本に原爆を落としたのであろうか」と考え続けてきた。
アメリカ側からの本もたくさん読んできた。
日本人が書いた本も同様にたくさん読んできた。しかし、私には疑問が残った。

日本は敗戦(「終戦」という言葉になっているが)工作を続けていた。
アメリカは、その日本の敗戦工作の詳細を知りつくしていた。
広島に原爆を投下する1週間前に、アメリカは原爆投下の最終準備に入った。
天候だけが問題であった。それと同時に、アメリカは無条件降伏を日本につきつけていた。

日本国民は、日本政府の敗戦工作も、
アメリカを中心とする連合国の敗戦提案も何ひとつ知ることがなかった。

それだけではない。広島では、原爆投下直前の8月3日ごろから、
投下の中心地付近に多くの学童・生徒が集められていた。しかも、
原爆投下の直前にもかかわらず、アメリカ軍機の空襲の情報さえ、
広島市民は何ひとつ知らされなかった。長崎市民も悲劇に放り込まれた。
広島の原爆投下についての情報をほとんど知ることがなかった。


私は、広島と長崎に落とされた原爆について調べているうちに、
常識では考えられないような矛盾点を数多く発見した。
そのためにもアメリカ側の資料を読み、原爆とは何か、
どうして原爆がつくられるようになったのか、どのような過程でつくられていったのか - 
を調べていった。そしてついに、アメリカがどうして原爆を投下したのか、
という私の積年の疑問が少しずつ解けていくのが分かった。


私は原爆製造の謎に挑むことによって、原爆投下の謎を解明しえたのである。
従来の原爆投下説と私の説は、全くといってよいほどに異なる。
読者は私の本により、原爆投下は何よりも、
国際金融寡頭勢力とも呼ぶべき集団が主役である
と知ることになる。

私たち日本人は半世紀以上にわたり、騙され続けている。
私たち日本人は、真実に眼をそらさずに直視しなければならない。
もし、現状のままでいるのなら、広島と長崎の悲劇がふたたび繰り返されるであろう。

この本を、広島と長崎で死に、あるいは傷ついた人々に捧げたい。

 2008年7月、またあの日を目前にして     鬼塚英昭


 ************


この鬼塚氏の『原爆の秘密〔国外編〕』のサブタイトルは、

 【殺人兵器と 狂気の錬金術】です。 

 長くなりすぎたので、稿を改めます。 

 
 引き続き、鬼塚氏の著から続ける。


 『原爆の秘密 国内編』 昭和天皇は知っていた。 

日本人はまだ原爆の真実を知らない 「序として」


原爆はどうして広島と長崎に落とされたのか? 
多くの本は、軍国主義国家たる日本を敗北させるために、また、
ソヴィエトが日本進攻をする前に落とした、などと書いている。なかでも、
アメリカ軍が日本本土に上陸して本土決戦となれば多数の死者を出すことが考えられるので、
しかたなく原爆を投下した、という説が有力である。

しかし、私は広島と長崎に原爆が落とされた最大の原因は、
核兵器カルテルが狂気ともいえる金儲けに走ったからであるとする
説を立てて、
姉妹書『原爆の秘密 国外篇』(*上に一部紹介した。)を書きすすめたのである。

核兵器カルテルとは何か? 

アメリカのロックフェラー、モルガンという巨大な財閥が戦前の世界金融を支配していた。
ロックフェラーとメロン両財閥は共同作戦をとり、ウラン爆弾の開発に乗り出した。

すると少し遅れて、モルガン財閥もデュポンという巨大な化学トラストと組んで、
プルトニウム爆弾の製造に着手した。ここに、新しくてしかも巨大な軍需産業が出現した
のである。

ウラン爆弾は、ウラン238からウラン235を抽出し、このウラン235を使い原爆を製造する。
プルトニウム爆弾は、ウラン238から原子炉を用いてプルトニウムを抽出し、
これを使って原爆を製造する。ウラン爆弾の製造は1945年の春には完成していた。
しかし、プルトニウム爆弾の製造は遅れた。しかも、核実験しなければ実用の可能性があやぶまれた。

1945年7月16日、プルトニウム爆弾の実験がようやく成功する。時あたかも、
トルーマン大統領とチャーチル首相(英国)、スターリン首相(ソ連)が
ポツダム会談をしていたときであった。

この実験が遅れ、プルトニウム爆弾の完成が遅れたために、日本の降伏も遅れたと私は書いた。
それは、核兵器カルテルのために日本の敗戦が遅れたことを意味するのだと私は結論した。
この原爆製造と投下の総指揮をとったのは、陸軍長官ヘンリー・スティムソンである。
彼はモルガン財閥の一員でもある。アメリカのみのためではなく、モルガンのために、
国際金融寡頭勢力のために、要するに核兵器カルテルのために、
スティムソン陸軍長官は原爆投下の総指揮をとった
のである。

そのために、スティムソンは日本の「あるルート」を通して昭和天皇との秘密交渉を続けた。
原爆を完成し、これを広島と長崎に落とすまで、天皇に敗北宣言をさせなかった
のである。

無条件降伏とは、原爆を落とすために考え出されたアメリカの謀略であった。
何も知らない日本人は完全にスティムソンと天皇に騙されたのである。

本書『原爆の秘密 国内篇』はこの私の推論が正しいことを立証するものである。
ただ、その過程では、日本人として知るに堪えない数々の事実が浮上してくる
読者よ、どうか最後まで、この国の隠された歴史を暴く旅におつき合いいただきたい。
それこそが、より確かな明日を築くための寄辺となるであろうから。

2008年7月、 またあの日を目前にして  鬼塚英昭


 *************

 目次は以下の通り。


 日本人はまだ原爆の真実を知らない[序として]


 第一章 原爆投下計画と第二総軍の設立

 東京ローズがささやいた「テニアンの秘密」
 第二総軍設立の真の理由に迫る
 原爆投下予告を確かに聴いた人々
 投下予告はこうして封印された

 第二章 「原爆殺し」の主犯を追跡する

 日本進攻計画と第二総軍との「不可解な暗合」
 発令されなかった警戒警報
 謀殺された徹底抗戦派・戦争終結反対者たち
 生者と死者と、あるいは賢者と愚者と
 演出された投下時刻「八時十五分」の意味

  第三章 長崎への原爆投下は真珠湾奇襲の復讐である

 「長崎は小倉の代替地説」のウソを暴く
 やはり予告されていた長崎への原爆投下 
 カトリックの聖地であるがゆえに狙われたナガサキ

  第四章 悲しき記録、広島・長崎の惨禍を見よ

 湯川秀樹ノーベル賞と原子爆弾との関係
 元帥の述懐は「君!・・・なるようにしかならんねエ」
 「県庁員幹部二死傷ナシ」は何を意味するか
 アメリカ人捕虜だけがどこかへ消えた
 日本政府も認めた公式見解「広島・長崎に放射能なし」

  第五章 見棄てられた被爆者たち

 原爆はどのように報道されたのか
 ドクター・ジュノーの懸命なる闘い
 「昨日はウサギだった、今日は日本人だ」
 国際赤十字社、もうひとつの顔
 迫りくる恐怖、生き抜いた原爆患者たち

  第六章 天皇と神と原爆と

 天皇美談だけが残って、責任は消えた
 「神の御心のままに」逝った人々
 原爆で死んだ人々を見つめて


 ************


 第1章 原爆投下計画と第2総軍の設立

 東京ローズがささやいた「テニアンの秘密」 

「東京ローズ」をご存じだろうか。
第二次世界大戦中、太平洋戦線にいたアメリカ兵への宣伝放送を、
魅惑的な英語で読んでいた日本人女性アナウンサーのニックネームである。
彼女たちの甘美で美しい声は、故国を遠く離れた若い米兵たちの郷愁をかきたてたという。

だが、その東京ローズについて書く前に、ゴードン・トマスとマックス・モーガン=ウィッツの
『エノラ・ゲイ』(1980年)からある文章を引用する。
とても奇妙なことが書かれている。
その文章は「1945年7月12日 -   テニアン島」の項の中にある。
テニアン島の基地から原爆投下機が広島、そして長崎に向かったのである。

ビーザー〔テニアン島に派遣された諜報将校〕は、テニアン島占領の時に戦死した
アメリカ兵の墓地の近くのかまぼこ小屋にいた。
その墓地には、彼が目撃した墜落事故で死んだ爆撃機乗員たちの遺体も葬られていた。
ビーザーはその後、焼夷弾をぎりぎりまで満載したB29 の
そうした墜落事故はテニアン島では珍しくないことで、
嫌でも逃れられぬ人生の現実であることを知るようになった。
ビーザーは服を着ると、かまぼこ小屋の中が空っぽなのを知った。
仲間の将校たちはおそらく浜辺へ海水浴に行ったのだろう。

小屋のラジオのスイッチをひねると、センチメンタル・ジャーニーの曲が
雑音のなかから聞こえてきた。そしてその曲が止むと、続いて甘い美しい声が響いた。
それはビーザーが、しゃくだけれども引きつけられているものだった。

東京ローズが太平洋地域のアメリカ軍向けの定時の宣伝放送を繰り返していた。

日本放送協会(NHK)で戦時宣伝放送「ゼロ・アワー」が開始されたのは
1943年(昭和18年)3月であった。
参謀本部情報局管轄のもとに行われた対連合国向けの謀略放送である。
命じられるままに、東京ローズは太平洋地域のアメリカ軍向けの放送を流していた。
『エノラ・ゲイ』の続きをみよう。

・・・東京ローズはもう2度も第509航空群のことを名指しで取り上げて、
隊員たちの胆を冷やした。第1回目は、第509航空群・地上勤務部隊が
5月30 日のメモリアル・デー(戦没将兵追悼記念日)に
テニアン島に上陸した直後のことであった。東京ローズは彼らの到着したことに触れ、
「日本軍の餌食にならないうちにアメリカヘお帰り」とすすめた。

第509航空群の隊員のなかにはその言葉を嘲笑したものもいたが、また心配したものもいた。
そういう隊員は、一体、東京ローズがどうやって、
アメリカ全航空隊のなかで最も秘密のこの部隊のことを知ったのだろうかといぶかった。
それから2週間後に、東京ローズはまた第509航空群のことを言った。
彼女は、第509航空群の爆撃機は、尻に「R」の記号がはっきりついているから、
日本軍の高射砲隊はすぐ見分けられるぞと警告した。
今度は誰も馬鹿にはしなかった。その記号が機に書き付けられたのは、
そのすぐ前のことだったからである。

『米軍資料 原爆投下の経緯』(1996年)を見ることにする。

第509航空群団が米軍資料に登場するのは、
「資料A-3/グローヴス将軍ヘテリー大尉から。
主題:12月28日に貴官グローブスの執筆室で開かれた会議のノート」
(日付1945年1月6日)である。

  ・・・

8、今後のティベッツ大佐の群団の計画について、以下の通りに決定をみた。

 a、第509〔航空〕群団の全機は、陸軍の規格爆弾が運べるように爆弾倉内の懸架装置を改修する。
   この作業は、群団の訓練がバティスタ飛行場で完了したのち、4月15日ごろに特別改修工事で行う。
 b、テイベッツ大佐の群団が作戦に使用できるように、月当り最低9発の大型爆弾を提供する。
 c、デリー大尉は、将軍(グローブス)のために、第509航空群団の、
   1月1日から3月1日を経て6月 15日に至る間の、作戦の概要をまとめて提出するように求められた。

第509航空群団は原爆投下のために作られた特別の航空群団であった。
この群団は1944年12月28日に正式に発足した。この会議記録のなかに気になることが書かれている。

7、6月15日と7月15日の間の、東京上空の気象条件はどうかという問題が出された。
アツシュワース海軍中佐は、8月15日までは比較的に雨が多いと指摘した。

なお、「大型爆弾」とは、ファットマンと同一の弾体を有し、
火薬だけを詰めたものと提示された、と書かれている。カボチャ爆弾と後に呼ばれたものである。

どうして東京ローズは第509航空群のことを知り得たのか? 
彼女はNHKに雇われた2世の女性である。
彼女の人生を知りたい人は、上坂冬子の『東京ローズ』1995年)を読まれるがいい。
しかし、この本は、東京ローズが放送で米兵に語りかけた肝心の内容についてはまるで触れていない。


『エノラ・ゲイ』の続きを見ることにしよう

・・・ビーザーは、東京ローズがそこら辺中のことを知っているらしいのに不安は覚えたが、
それでもその日本からの妖しい魅惑的な声には耳を傾けた。今朝も彼女は相変わらず、
アメリカのごく最近の野球試合の点数、ブロードウェーの内外の劇場にかかっているドラマや
コメディの知らせ、フィクションとノンフィクションのベストセラーの詳細を知らせ、
その間に現在のヒットパレードの曲を流した。

今日は第509航空群の名前は出なかった。ビーザーはラジオのスイッチを切って、
東京ローズに他のホームシックの兵隊の慰問をまかせた。

引用文中のビーザーとはテニアン島に派遣された検閲将校である。
東京ローズのニュース放送を検閲していたのである。
この東京ローズに関する文章を読むと、

日本の陸軍参謀本部が原爆のことを知っていたことに気づくのである。

戦前戦中、東京・駿河台の現在は文化学院がある場所に「駿河台技術研究所」
(後に駿河台分室と改められた)があった。
上坂冬子の『東京ローズ』から引用する。

・・・技術研究所とは申すまでもなくカモフラージュのための偽称である。
私がこの蔦のからまる文化学院にことさら注目するようになったのは、
「謀略放送といえば東京ローズのゼロ・アワーが真先に引き合いに出されますが、
実はあれはいわゆる謀略放送のほんの1部にしかすぎません。
主流は何といっても駿河台技術研究所(捕虜の間では通称〔文化キャンプ〕)の
捕虜たちの行った放送ですよ」と述懐した
元参謀本部宣伝主任・恒石重嗣中佐の一言にひきつけられたからである。・・・

上坂冬子は捕虜たちのことを詳述するが、どんな内容を彼らは喋らされたのかについては書いていない。
しかし、興味深いことを書いているので引用する。

・・・14人の捕虜のうち3人(ヘンショー、ブロボー、マクノータン)は
翌日早速NHK第五スタジオヘ赴いて、同盟通信社
(昭和11年連合通信社と日本電報通信社通信部門を合併して設立した国策通信社で
社長は吉野伊之肋、幹部には松本重治、長谷川才次、井上勇の各氏など)
の用意した原稿を読み上げ、
かくて我が国初の捕虜による謀略放送第1回「日の丸アワー」は放送されたのである。・・・

この上坂冬子の文章を読んで分かることがある。
あの「黙殺」発言を「イグノア」と訳したのが、国策通信社による謀略であったということである。
松本重治や長谷川才次は戦後にアメリカのロックフェラー財団と気脈を通じて
甘い汁を吸った謀略家たち
であった。
あの東京ローズのニュースも1種の国策であろう。

陸軍参謀本部と同盟通信社が共同でニュースを作成し、東京ローズに喋らせたのである。
彼ら陸軍参謀本部のエリートや同盟通信社の幹部たちは、
第509航空群の爆撃機の尻に「R」のマークがついている秘密まで知っていたのである。

これが何を意味するかは考えるまでもないことである。

彼らは、ロックフェラーやモルガンと通じていたのだ
そして、原爆が落とされるまで日本を降伏させないように猿芝居を演じていたのである。
この同盟通信社とヨハンセン・グルーープに深い因縁がある
ことはすでに姉妹書『原爆の秘密 国外篇』で書いた。

上坂冬子は「その8課(参謀本部の)の人々は戦後から今日まで『駿河台会』という名の親睦会
を持っており、ほぼ毎年1回の割で集りをつづけて、すでに30 回を越えている」と書いている。
そして、1977年7月12日午後5時、上坂冬子は会場の霞が関ビル34階の1室に、
取材許可を得て出席する。そこに元参謀本部第二部長・有末精三陸軍中将が出席していた、
と上坂冬子が書いている。この有末清三陸軍中将の発言を上坂冬子は書きとめている。

・・・ついに82歳の有末精三元中将まで立ち上り、

「東京ローズの生みの親というオーストラリアのカズンズ少佐に、
1度だけ駿河台で会ったことがあるんだが、私はこういうザックバランな男だから、
こちらからグッドモーニングと手をさしのべて『食い物はどうだ』と聞いたら、
彼は即座に『ワンダフル』と答えましたな」・・・

戦争が終わったとき、多くの軍人や政治家、文官たちが戦犯となったり追放処分となった。
しかし、謀略機関で働いた連中は、1部の例外はあるものの、ほとんどが自由の身となり、
それだけではなく、権力と富を得た
。有末精三も例外ではなかった。
「有末機関」をつくり、米軍に協力した。


これは何を意味するのか。彼らはアメリカとグルであったことを意味するのではないのか。
アメリカのために働いてきたのではなかったのか。

  続く。



柚木 武士、三枚目、



「イ号第370潜水艦」です。



◆http://2006530.blog69.fc2.com/blog-category-6.html
読書日記 2008/09/01
“核”を求めた日本 ~被爆国の知られざる真実

より抜粋、


第6章 天皇と神と原爆と

 天皇美談だけが残って、責任は消えた   

天皇裕仁は、1947年12月5日から8日まで、広島県を巡幸した。
広島市の編による「天皇行幸録」(1948年)を中心に天皇のかのときの姿を追ってみよう
(小野勝『天皇と広島』1989年、より引用)。

 ・・・

アトム広島御展望

この日、広島の空は乳白色の雲が空を覆い、周囲の山々、瀬戸の島々は霧に包まれて
御遠望は十分でなかった。けれども、それはあの日焦土と化した約4百万坪の地域を
陛下に御示しする為の天のなせる業かの感があった。
放送局のマイクが遠慮なく陛下の御顔近くに差し出されて御声をキャッチする。
「割合に建物が出来たネ」と濱井市長を顧みられた陛下は、御足を階段に向けられた。

市庁舎周囲の路上から万歳、万歳の声が湧き起った。
屋上の御姿を見つけた市民の歓呼である。陛下は思わず御足を留められた。
そして御帽子を右手に高く幾度も幾度も打ちふられながら地上の歓呼にこたえられた。
一際高く上る地上の万歳は百雷の如く屋上に轟いた。〔略〕

(*以下、「子供たちの〔天皇讃歌〕の作文等の紹介も略す」

次に児玉隆也の『君は天皇を見たか』(1975年)から引用する。
全く異なる天皇像が描かれている。

 ・・・

笑徴だ(宮本六襄・会社員・31歳)

私たちは、天皇を2度見ました。
1度目は、終戦直後、私が原爆孤児の寮に収容されていた小学生のころです。
天皇は殿さまのようでした。
2度目は46年(*昭和)の広島訪問でした。
そのとき私は天皇は象徴やなか、笑徴や、恥やと思いました。
広島にはもっと早く来るべきでした。しかも、自分の意思で。

(下口輝明・農協勤務・37歳)

1度目の原爆孤児院では、天皇が来るというので施設の昼メシがごちそうでした。
天皇よりも食べものを覚えています。天皇陛下は、あーそお、あーそお、とだけいいました。
ぼくらの関心は、チョコレート色の車についている菊の紋章が、
純金かメツキかに集中しました。
46年の天皇は、慰霊碑までまっすぐ歩いていって、まっすぐかえってしまった。

いまだに苦しんでいる被爆者にも会わずに、大企業の工場を見に行った。
あんなことをしていたらあかんと思いました。

(今田恒雄・精薄児施設指導員・37歳)

私も原爆孤児院にいました。おかけで有名人にもおうてよかったと思いますよ。
しかし私が育ってきたのは、社会の恩恵であって、
天皇に置きかえたことは1度もありませんでした。
46年のときも、天皇のことなど前日まで思ってもいませんでした。
そのとき、天皇が来るというので、農事試験所のバカが、
梅に薬をかけて花の咲く時期を遅らせました。
天皇はそんなことも知らないで、キレイだね、といったそうです。
皇太子が天皇になれば、もっともっと利用されるだけの時代が来るでしょう。・・・

この3人の原爆孤児たちの言葉に対しても私(鬼塚)は何1つ批評をしない。
広島への原爆投下をさめた眼で見続けていた1人の女性を紹介したい。
栗原貞子は『核・天皇・被爆者』(1978年)の中で次のように書いている。

 ・・・

戦前派の天皇への意識が混濁し不透明であるのとちがって、
戦後生まれの被爆二世たちの意識は明確であり、
青年特有の鋭さとはげしさをもって天皇の戦争責任を追及した。

1971年4月18日、天皇は島根県に植樹祭が行われた時、15、16日と広島により、
護国神社に参拝し、原爆慰霊牌に立ちよった。(参拝ではない

被爆団体や革新団体など、組織的には何らの抗議声明も行わなかったが、
被爆者青年同盟、アジア青年同盟、解放同盟の3団体は、
天皇来広を糾弾する連絡会議をつくり、糾弾県民集会の開催やデモ行進を計画したが、
いずれも行政・司法一体となって弾圧し、
いったん貸した会場の許可をとりけし、デモ行進をやめさせた。

4月15日、天皇が慰霊牌に立ちよりの際に平和公園に動員された機動隊は
5千人と言われている。しかし糾弾県民集会は開催出来なかったが、
それに先立つ3月27日大手町の平和会館で、
3同盟による「天皇問題を考える」被爆者集会が行われ、
50名近くが集まって各人が発言し、天皇の戦争責任を糾弾した。・・・

1947年の天皇巡幸に熱中した広島の人々も、それから24年後には完全にさめていたことが、
栗原真子の文章を通じて理解できるのである。
しかし、さめた天皇観を持つにいたった原爆被爆者たちには過酷な人生が待っていた。
もう1度、過ぎ去りし時代を、語り部の栗原貞子に語らせよう。
同じ『君は天皇を見たか』からの引用である。

 ・・・

〔昭和〕21年1月、天皇は神格天皇から人間天皇に転身することで戦争責任を回避した。

転身した天皇は22年12月5日から7日まで広島県下へ第1回の巡幸を行ったのであるが、
県議会は天皇の行幸に対し感謝決議をし、楠瀬県知事は天皇の質問に対して次のように答えた。

- 広島の原爆の影響についての人体の健康は、全く心配がなく、
ただ植物が学問的に言えば多少影響を残している程度で、決して御心配はいりません。
(中国新聞社編『ヒロシマ』未来社刊)

占領軍も民主主義勢力も行政も一貫して被爆者を抹消し闇のうちに封じこめてしまったのである。
どこにも救いのない被爆者は疎開先の農村や郊外の町で
「原爆の流れ者」「きたない」と疎外され、
遅発性の原爆症で髪が脱け、吐血し下血して血まみれの病床で原爆を呪って死んで行った。

医師は未知の兵器による未知の病気を診断することが出来ず、死亡診断書にも、
「血を吐いて死んだのだから肺結核だろう」と推定の病名を書き、
原爆症は闇から闇へ葬られた

原爆後遺症についての研究発表はゆるされず、臨床医学のなかった当時の状態である。・・・

児玉隆也の『君は天皇を見たか』から再度引用する。
児玉隆也は、赤提灯「六歌仙」という一杯飲み屋を経営する高橋広子さんから
原爆に遭った人生を聞く。この部分はすべて省略する。天皇について語るところのみ引用する。

 ・・・

聞き書き「陛下さま この金いりませぬ」

陛下は、天皇は、あの人は、いったい何しに去年この広島へ来んさったんですか。
どうして26年もたって、のこのこと帽子振りに来たですか
うちゃあ、腹あ立ってどもならん。うちゃあ、その2、3日まえから、
□ではいわんですよ、口ではいわんが、よし行っちゃろか! と思うとった。

行って、あの人の前へとび出して、
「陛下さん、あんたの腹からのことをここでしやべってみい!『あっそう』いうて
帽子振っとるだけじゃあ、うちゃあ納得できん。
おれが納得するまであんたの腹からのことをしゃべってみい! 
あんたの腹ん中を見せてみい!」

そういうて、あの人にくってかかるうちを考えとった。
うちゃあこのとおり軽いから、イリコつまんだようにつままれ、
はじき出される姿が、寝とっても頭ん中をめぐってねえ、いよいよ情けのうてねえ。

あの人、慰霊碑に花置いて、老人養護ホームヘ行って、それだけじゃあないですか
年寄りたちが「陛下さま来られて、これで思い残すことかありません」いうた。
うちやあ、「あんたがたこれだけ悲しんでおって、何か有難いか!」と、
新聞引き裂いて泣きました。
そのあと、あの人は、天皇は、何をしたですか。
原爆病院にも行かず、無縁仏にも行かず、こともあるうに、そのあと東洋工業ば行った

社長の案内で自動車工場を見た。
自動車見る暇があったら、27年間も、女房子供にも己が顔見せんと、
己がケロイドの顔を包帯の中にとじこめて、屍のように生きとる被爆者に、
どうしてチンがすまなかったというてやらんですか。

あの人は、帝王学かなんかしらんが、自分の意思をいわん人やと聞いた。
あの人に罪はない、原爆病院行くかわりに、自動車会社へ行かせた県や宮内庁の役人が悪い
という人もいる。それならば、
なぜ、戦争やめさせたのはあの人の意思やという〔歴史〕があるのですか
神やない、おれは人間や」というたのですか。
美談だけが残って、なぜ責任は消えるのですか

うちゃあ情のうて、〔へ〕も候や。

もう1度、福島菊次郎の『ヒロシマの嘘』から引用する。
赤提灯「六歌仙」の高橋広子さんと同じ思想を別の形で表現している。

 ・・・

歴史は繰り返すと言うが、
大本営と政治の嘘が国を滅ぼした戦前の悲劇を性懲りもなく繰り返そうとしているのである。
「現人神」‐という神話時代の言葉が戦前の日本を支配していたのは幼稚の限りだが、

敗戦後の日本は、「主権在民の民主主義国」になっても「を憲法の冒頭に登場させ
「天皇」という正確に外国語に翻訳できない言葉が、いまだに国を支配している。

「天皇」とは天人を恐れぬ傲慢な言葉である。
天皇・裕仁がいくら権威ぶっても、しょせんは僕と同じ人間にすぎず、
本来僕に死を命ずる権利も資格もない人間だった。
僕は幸運にも生き残ったので、
戦争責任も取れないような人間が皇位に居座るのに反対し続けてきた

戦後天皇の地位は、「現人神」から、「主権の存する日本国民の総意に基く」と、
「国民統合の象徴」に鞍替えしたが、選挙による結果ではなかった。

当時、戦争犠牲者の多くは天皇制に反対し、僕はいまも反対している。
「国民の総意」などと軽々しく言ってもらいたくない。・・・

この項の最後にもう1度、天皇に執念を燃やして生きた詩人の栗原貞子に
天皇論を語ってもらおう。赤提灯の詩人・高橋広子さん、
魂の叫びを続ける写真家と同じように、彼女も天皇を語る。

 ・・・

今度の天皇の訪米〔1975年〕は旧敵国アメリカによって改めて天皇の戦争責任を解除され、
天皇制ぐるみアメリカのパートナーとなることであり、
自衛隊と米軍との円滑な提携をはかるもの
であった。

新聞は「天皇の訪米は、大統領選挙を翌年に控えたフォード大統領の
デモンストレーションであり、大成功だった」と書きたてた。

大統領選挙の利用の次は戦争利用へと発展することを許してはならない。

テレビを通じて見るパーティや送迎のたびに挨拶する天皇の口辺(こうへん)の
頻繁なけいれんは病的で異様だった。

菊のカーテンの中から出て明るい陽光の中で人間天皇として通されることに対する
神格天皇の名残りが苦悶のけいれんをしたのではないだろうか。

私はテレビの画面を見ながら、天皇の背後に黒々とひろがる
原爆の瓦礫と渦まく死体
を思いながら「あの人だったのだ」、
「あの人だったのだ」と心の中で言いつづけた。


原爆投下を誘発させ、数百万の日本人を天皇のおんためにとして死なせ、
アジアの数千万人を殺させた最高の戦争責任者は、
免罪されて帰国し新たな戦前が始まろうとしている。

しかし私たち戦中世代は天皇制にこだわりつづけるだろう。「王様は裸だ」と言った子供のように。

 ★天皇美談だけが残って、責任は消えた  <了>




ユダメリカは自衛隊をタダの傭兵として、

中東で、北アフリカで使いたくてしょうがない。

世界覇権維持の鉄砲玉として使いたいのですよ。

まさに日本にとっては「吸血鬼にして死神」でしかない。

奴らの手羽先どもで国内溢れんばかりの惨状です。

その頂点に「大室天皇家」がおること、忘れてはならんと思う。




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1 コメント

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奴らの手羽先を完膚無き迄に叩きのめす必要があるだろう!!! (福田元昭)
2013-08-29 18:51:37
ご指摘の通り、自衛隊をタダの傭兵として使用したい為の集団的自衛権の確立ですね。自衛隊をタダの傭兵として使用したい為の改憲・国防軍の設置ですね。

自衛隊をタダの傭兵として使用する事が現実になると、自衛隊志願者が減るから、
石破茂はもう10年くらい前から「自衛隊は憲法違反ではない」とか言っているし、最近では「徴兵を拒否したら死刑」と言っているに等しい発言をしているのです。

 その点は、ブログ:福田元昭の「桜の木になろう」で私も批判しました。

http://ab5730.blog.fc2.com/

貴ブログがおっしゃる「奴らの手羽先どもで国内溢れんばかりの惨状」になっているのは、一般の人々においてはマスメディアや教育に洗脳されている奴らが多いと言う事ですね。特に政治家における奴らの手羽先どもが、最近、前にも増して跳梁跋扈できるようになったのは、不正選挙の成果と考えられます。何しろ、昨年12月と今年7月の不正選挙で奴らの手羽先ではないと思われる候補者の多くは落選しましたので。こうした件も、ここ9ヶ月程、拙ブログに書いてきた事ですが。

 「大室天皇家」と言えば、「天皇伝説」と言う映画が思い出されます。私は、2008年10月16日(木)夜、横浜市開港記念会館で、「ノモンハン」と言う映画と「天皇伝説」と言う映画を鑑賞しました。その際、制作者の渡辺文樹監督と話をした。

http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-39.html

 私は戦後世代ですが、天皇制に拘っています。廃止した方がいいと考えまています。高校生だった1975年に井上清先生の「天皇の戦争責任」と言う本を読みました。

天皇の戦争責任追究の本としては、千葉県の習志野高校の教員だった1984年に
藤原彰先生らが執筆された『天皇の昭和史』も読みました。

私も執筆陣に加わった1986年にあゆみ出版から発行された『たのしくわかる日本史100 時間(下)』(教師向けの授業のHOW TO本で、購買対象者が限られる本としては、当時 上下巻合わせて1万部以上の良好な売り上げを記録した。)の中で、この『天皇の昭和史』を参考文献とした原稿を執筆した。

藤原彰先生とは1度だけ酒の席でお話をする機会をもった。

 昭和天皇に関しては毒殺説がある。

http://ab5730.blog.fc2.com/blog-entry-390.html

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