礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

近衛文麿は酒井鎬次を首席随員に希望

2017-07-19 04:16:38 | コラムと名言

◎近衛文麿は酒井鎬次を首席随員に希望

 富田健治著『敗戦日本の内側――近衛公の思い出』(古今書院、一九六二)から、第四一号「対ソ仲介交渉」を紹介している。本日は、その三回目。
 昨日、紹介した部分のあと、改行せずに、次のように続く。今日、紹介する部分のほとんどは、細川護貞著『情報天皇に達せず』下巻(同光社磯部書房、一九五三)からの引用であるが、これは富田が引用している形のままで紹介する。

 そこで前号〔第四〇号〕と多少重復するところもあるが、近衛公が、女婿細川護貞〈モリサダ〉氏に七月十五日頃『ソ連仲介に関する経過要旨』の筆記をさせられているので、これを茲に掲げることとし、ソ連仲介問題の経緯を一層明かにしたいと思う。
『従来東郷〔茂徳〕外相は広田(弘毅、元首相、外相)を通じ、マリック駐日ソ連大使と交渉中であったが、これは三段階に別れており、第一段階はソ連の参戦防止、これはソ側の明言により一先ず〈ヒトマズ〉目的を達す。第二は現在進行中のもので、日ソ両国が東洋平和維持のため、相互に支援するとの趣旨の下に、永年(二、三十年)に亘る不侵略協定を締結する。その基礎として「満州の中立化、具体的には大東亜戦後満州から我国は撤兵する。第二にはソ連が石油を供給すれば、ポーツマス条約規定の漁業権を放棄する。第三には大東亜戦争によりて我国が占領した地域については戦後領有の意図はない。第四にはその他ソ連の希望する事項については何なりと交渉に応ずる用意がある」というのが広田の提案である。これは広田があまり抽象的なことのみ言うので、マリック大使から「もっと具体的なことを言ってもらいたい」との要求に接して出したものである。佐藤(尚武駐ソ)大使は訓令に基づき、七月十日にロゾフスキー外務次官、十一日にモロトフ外相に面会し、この提案の返事を要求しているが、何れも「マリック大使から詳細な内容が来次第返事する」という答であった。そして佐藤大使もこれにはすこぶる気乗薄〈キノリウス〉であった。
 そこで第三段としては、仲介の話があったが、従来のような外務省の行き方では、とても駄目だということになった。
 扨て〈サテ〉十二日、重臣会議の直後、宮中から御召があり、国民服のまゝ参内し、拝謁申し上げた処、陛下は現戦局につき、非常に御心配遊ばされて居り、
「ロシアに行ってもらうことになるかも知れない」
との仰せであったし、大変御困りの御様子に拝察申し上げたので、その場で御受けした。宮中を退下して、直に〈タダチニ〉首相官邸で〔鈴木貫太郎〕総理と外相とに一緒に会見したが、総理は従来の外務省の交渉のやり方に反対で、もっと「直截〈チョクセツ〉簡明にやらねば駄目だ」と言い、特使御派遣のこと、御親書を奉じて行くことを、即日打電することを外相に伝えた。外相は「初め特使のことを打電し、相手の顔色を見て、御親書のことを言ってやっては」との意見を述べたが、総理は「外相は先の交渉を七月迄には、まとめると言いながら、未だ解决を見ず、今又顔色を見てからと言われるが、顔色等〈ナド〉解るものでない」と言い、外相も漸く打電を了承した。十二日夜打電、モスクワ十三日朝着電報には御言葉として、
 天皇陛下におかせられては、今次戦争が交戦各国を通じ、国民の惨禍と犠牲とを日々増大せしめつゝあるを御心痛あらせられ、戦争が速かに終結せんことを念願せられ居る次第なるが、大東亜戦争において、米英が、無条件降服を固執する限り、帝国は祖国の名誉と生存とのため、一切を挙げて戦い抜く外はなく、是がため、彼我〈ヒガ〉交戦国民の流血を大ならしむるは、誠に不本意にして、人類の幸福のため、なるべく速かに平和の克服せられんことを希望する。
 とのことを、そのまゝ、露骨に翻訳して示すことを命じた。又別にモロトフ外相宛に佐藤大使の書簡を添え、
 陛下が特に近衛公爵を御差遣〈オサシツカワシ〉遊ばさるるは、従来の交渉と全然性質を異にし、陛下直接の思召〈オボシメシ〉によるものである。
 むねを付け加えた。是をモロトフ出発前、少なくも主義上の回答だけでももらいたい。といってやった。此の電報を十三日午後五時、モロトフに通達した処、十三日深更に至り返事あり。
 スターリン、モロトフがベルリンに向け出発する為、回答は遅延するであろぅといって来た。
 佐藤大使は従来の交渉にはすこぶる不熱心であったが、この思召を体しての特使には我意〈ワガイ〉を得たという意味の電報をよこし、熱心になってきた。そこで大使はなおこの上ベルリンとも連終をとり、なるべく早く返事をもらいたい由〈ヨシ〉申し込んだ。ベルリン会談は約二週間の予定であるとのことである。このとき佐藤はモロトフ外相に宋子文との会談のことを尋ねているが、モロトフは明確な返事をしない。唯「国境の問題もある」という程度で「大したものではない」との印象を受けたと。又通信によれば宋は結末を見ずして重慶に帰った、これは我国にとっては一つのよい材料であろう。
 十五日夜、松本(俊一)外務次官は入生田に公を訪問して左の点を訊した。
 政府の最高六人会議で外相が発言して「随員には陸海軍の大物が行くこと」を主張したが、この際陸軍が戦争をしているという様なことを敵側でいっていることだから、その必要はない、むしろ少将級では如何とのことになった。公はどう思うかとのことであったので、同意の由を伝えた。又訓令の内容については、未だ何も決定していないが、やはり陸軍に問題があるようだ「余りきちんとした訓令ではどんなものだろう」とのことであったから「窮屈なものは困る」こと、外相がそうならぬ様、六人会議をリードしてもらいたい由を伝えた。「自分(公)は陛下にお目にかける案を作っているが、これを外相だけには御目にかける」との問答をした』。以上細川筆記の内容である。
 この随員のことであるが、近衛公は当然、酒井鎬次氏を首席随員にと希望したが、これに対し、陸軍が強く反対をした。酒井氏は和平派反戦派だというのである。結局八名程度にするということで外務二(松本次官、宮川〔船夫〕ハルピン総領事)、陸海各一(高木惣吉海軍少将、松谷〔誠〕陸軍大佐)、富田健治、松本重治、細川護貞とおよそ内定することになった。それから、近衛公は、出発が決れば、酒井氏の随員たることを押し切るといっていた。私は極力それを主張した。ところが肝腎のソ連側では七月十六日から開かれるポツダム会談に、スターリンやモロトフが出かけたので返事が遅れる口実になった。十八日夜ロゾフスキー外務次官から佐藤大使に宛てた書簡では、日本の申入れは何ら具体的提議を含んでいない。特派使節の使命が何であるかも不明確で、ソ連としてこれに対し、確たる回答をなすことは不可能だといって来た。そこで二十三日、我方から「近衛はソ連の仲介で米国との講和を依頼に行くこと、条件は行ってから話す」という趣旨の返事を出したのである。爾来近衛公を初め一同は、いつでも出立〈シュッタツ〉できるよう待機していた。【以下、次回】

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