礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

文部大臣みずから教科書原稿をいじくりまわす

2015-12-14 05:15:00 | コラムと名言

◎文部大臣みずから教科書原稿をいじくりまわす

 昨日の続きである。国語教育講座編集委員会編『国語教育問題史』(刀江書院、一九五一)に収録されている、井上赳「国語教育の回顧と展望 二 ――読本編修三十年――」から、その第六節「国民学校教科書事情」を紹介している。本日は、その二回目(最後)。
 
 ところで、いよいよ編纂を実行に移しでみると、私が予想した以上に困難が続出した。ます編修方針が出来上ると、待っていたといわぬばかりに、数百項にわたる教材細目を整然と並べ立てた大きな紙片幾枚が、軍の教育総監部本部長の名に於いて図書局へ移諜されて来た。軍はこれによって国民学校の教科書を軍事教科書にぬりつぶす計画かと、疑えば疑えるのであった。なかんずく国語読本には、そのもっともめぼしいものが割り当てられている。私はこれに目を通し、監修官諸君をも集め一応会議をした形にして、「この要求は技術上到底実現し得る見込なし」という趣を、局長を通じて総監部へ送り返すことにした。
 後で聞くと、これは大変な事であったらしい。もし、その時本部長が今村〔均〕大将でなかったら、私はとうの昔、進退問題うけあいであったろう。い誉り立つ着い将校連を放淀めた今村大将は、「技術上むすかしいというなら、軍から出かけて協力しようじゃないか。」ということで一応おさまったと聞いている。その緒果か、総監部附の佐官数名が文部省の嘱託という名義で、図書局へつめることになった。
 軍のいちばんねらっているのは国語読本である。――そこで私は、国語の教材は、低学年では童謡、童話、児童の遊戯生活の表現の中心であること、上級に進むに従って文学でなければならぬことを説き始めたのである。けだし、軍にとってそれらがいちばん苦手であり、また軽べつする処でもあったからである。そしてこの事は、結果において成功だったと私は思っている。私にもっとも親しんで来た高橋少佐が、まず次第に私のいうところに耳を傾けるようになり、書いて来るものも書いて来るものも、恥ずかしそうに「これじゃ文学じゃありませんな。」と自ら頭をかく始末である。もちろんその間、断片的によく出来たもの、質のよさそうなものは、採り上げなければならない場合もあったけれど、軍が最初に考えたように、「そもそも総力戦とは……」といった正面切った軍事教材は、国語はもちろん、国民学校のあらゆる教科書にのせられない結果になった。かれらのめざした教材系統も、めちゃめちゃになったらしい。それというのも、高橋少佐が次第に教育に共鳴するようになったからである。――教育総監部は軟化した。高橋なんかだめじゃないかという声が、軍の他の方面では起りつつあり、高橋少佐も、この板ばさみに大分苦労したように後で聞いたことである。
 いちばんひどい見幕であったのは、海軍である。海軍は、早くから笈田光吉〈オイダ・コウキチ〉の絶対音感教育を支持し、それを軍に実際やってみて、国防上大いに役立つというところから、国民学校の音楽を、絶対音感教育に改むべしという意見である。この問題について、海軍と文部省との交渉には長い経緯もあったようであるが、いよいよ図書局に移って来たのは、戦争直前であったと記憶する。そこで、一度図書局の音楽教科書委員と、海軍の将校、それに防空関係から陸軍の将校も参加して、会談をしたことがある。海軍といえばこれまでどこか文化的で、やさしいものがあるように考えていたが、この時の海軍将校は実に猛烈で、ほとんど乱暴に近いものがあった。教科書委員の小松耕輔〈コマツ・コウスケ〉氏など、ちょっと質問したために、のっけから悪罵され、散々の攻撃を蒙った。何でもこのために、小松氏には当分尾行がついたと聞いている。この会談の後始末をするため、図書局内に「音名に関する委員会」を作り、委員として、大学教授、音楽学校教授、それに図書局側の音楽教科書委員を主軸とした研究会を、毎週開くことになった。私も毎回この会に出席したが、世の中に、学者というもの程調法なものはないという印象を受けた。一般に音楽教育者は教育を考えてなかなか動かぬが、これを正当に理論づけてくれそうな学者や音楽家になると、どうも態度そのものがはっきりしない。音楽教育の立場を支持するような口振であるかと思うと、いざという場合にげを打つような理論が出る。学者がすべてああいうわけでもあるまいが、ああいうのは実に困ったものである。幸いにこの長い会議の結論も、音楽の聴音練習を少しばかり行うこと、音名は日本名を用いることぐらいでおさまり、国民学校の音楽は、絶対音感におもやを取られないですむことになった。
 こういうことを、一々書いていてはきりがないから、この辺でやめにするが、要するに戦争が苛烈になるとともに、私の周囲にも、雲行〈クモユキ〉があやしくなりだした。昭和十八年〔一九四三〕岡部長景〈オカベ・ナガカゲ〉氏が文部大臣となるに及んで、私は次第に覚悟をきめる方向に事態が進んできた。まず尺貫法で、じりじりと在来の編修のメートル法を改めさせられる。新大臣を通じて、右翼や軍の圧迫がひしひしと感じられる。果して国民科国語の教科書が槍玉にあげられた。十八年〔一九四三〕十一月には、二十三年続いた図書局が廃止されて、普通局に合併される。以来大臣自身、丹念に教科書原稿をいじくり回わすことになり、その修正は底止するところがない。編修課長もこれではやりきれたものでない。とうとう意を決して、十九年〔一九四四〕三月に辞表を提出し、以後病〈ヤマイ〉と称して出勤しなかった。この辞表は、六月一日に至って聴許となった。
 かえりみれば二十三年の国定教科書編修生活――それはからず私のほとんど一生の生存意義を打ち込んだものであったが、やめるに際しては一片の未練もなかったほど、時勢は悪化の一路をたどっていたのであった。

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1 コメント

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すべての論理を否定する軍部 (尾崎)
2015-12-14 08:23:32
軍部に対する抵抗は、やはり教育をどう考えてゆくかという教育の論理でもなく、「辞職の論理」だったのですね。軍部の論理以外はすべてを否定する時代の厳しさが伝わりました。ブログの続編ありがとうございました。

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