礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

意気軒昂却つて痛快の情湧くを覚ゆ(栄田猛猪)

2017-04-23 07:38:04 | コラムと名言

◎意気軒昂却つて痛快の情湧くを覚ゆ(栄田猛猪)

 昨日に続いて、栄田猛猪による『大字典』の跋文を紹介する。
 武蔵中学校国語科が作成した発行した小冊子『国語と漢字』にあるものに基づいているが、一九一七年(大正六)四月の再版(啓成社)の「跋」、および講談社の『新大字典』(一九九三)にある「跋」を参考にして、小冊子版の用字や句読点を改めた場合がある。漢字は、原則として新漢字を使用した。
 
 此間印刷校正も亦極めて難事業なりき。是れ元来漢文字の植字に不便なると、本字典の組織の複雑なると、加ふるに活字に見えざる文字を多く使用したるとの為にして、彫刻木版一頁平均四十五本、全編総計十二万六千本の多きに上り、其校正に当つてや、初校の如きは全紙朱変し、遂に記入の余地無きに至る。斯くして再校三校、少きものも六校、多きは実に十有二校に達せり。されば一台八頁の校了に四ケ月の長きを要し、組版〈クミハン〉の停滞常に三百頁を算するに至る。然りと雖猶本書の為に全力を挙げて其完璧を期せんとし、書肆啓成社及び博文館印刷工場の痛苦如何ばかりなりけん。是れ余等の想像にも及ばざるところなりき。彼の大正四年〔一九一五〕五月十七日、印刷工場祝融〔火事〕の禍〈ワザワイ〉に罹りて、工場の過半烏有〈ウユウ〉に帰せし時に於てすら、本書のみは特に文選植字の手を措かざりし〔中断しなかった〕にも拘はらず、猶一日平均一頁半を上る〈ウワマワル〉能はざりしを見ても、其印刷校合の如何に難事たりしかを知るに足る。されば此間に処せし書肆の莫大な負担と、活版職工の惨憺たる苦心とは、余の特に感謝に堪へざるところなり。
 憶い起す。印刷工場の災禍に罹りし翌朝なりき。余は工場全部烏有に帰せりと聞いて、驚愕措く能はず、東洋有数の一大印刷工場、忽焉〈コツエン〉として灰燼〈カイジン〉に化す。館主の損害固より〈モトヨリ〉傷む〈イタム〉べしと雖、財貨を以て換へ難き、幾多の学者が心血を注ぎし原稿もありつらん。おぞくもなしつる天公の悪戯かな。思へば余が字書の運命も亦危い哉〈カナ〉。然りと雖、万一の僥倖を頼みとせんより、寧ろ今に於いて焼失を予期するの雄々しきに若かじ〈シカジ〉、西哲にも亦此〈コノ〉例ありきと思ひ定めて、強ひて心を平〈タイラカ〉にす。此時友人相続いて来り、皆余が字書の無事ならん事を祈るの情切なり。余答へて曰く、未だ情報に接せざれど、余が心決せり。之を平日に徴して、停滞の組版三百頁はよもや助かるまじ。之に加ふる原稿を五百頁と見積もるとも、合して八百頁は越えざらむ。仮す〈カス〉に時日を以てせば再稿難きにあらず。乞ふ幸いに意を安んぜよと。意気軒昂却つて痛快の情湧くを覚ゆ。此日午後啓成社専務来り告げて曰く、昨夜の火災に駭き〈オドロキ〉、車を飛ばして工場に至る。何の幸ぞ、見るも無慙なる被害の中に、我が字書の原稿一枚の損害だになし。此字書は元来類例なき難事業なれば、万一の危険を慮りて〈オモンバカリテ〉、煉瓦造りの耐火家屋にて作業し、原稿は其刻々〈コッコク〉金庫に収蔵せしが為なり。是れ一に〈イツニ〉博文館印刷工場が責任を重んぜしによると。此吉報を耳にせし時の余が喜〈ヨロコビ〉や如何。直に之を師友に報じ、足を空〈ソラ〉にして工場を訪ひ〈オトナイ〉、不慮の災殃〈サイオウ〉を弔い、自己の僥倖を謝し、帰りて門を入ると共に、呆然〈ボウゼン〉として自失し立つこと能はざりき。斯くて筆硯〈ヒッケン〉に親しむ能はざること数日。噫〈アア〉。前に凶報を耳にせし時、余が意気却って昂り〈タカブリ〉しは、前途の困難を予想して精神の緊張せし為か。速かに館主の災厄を弔ふべくして、敢て弔はざりしは、余が心に恐るゝ所のものありて然りしか。後に吉報に接し、忽ち足を空にして工場に赴き、帰り来りて病まざるに床に臥す。大敵去りて精神の弛緩〈シカン〉せし為なるか。嗚呼〈アア〉。感情の極まるところ、悲と喜と相距る〈アイヘダタル〉遠からざるなり。文豪ギボンが彼の浩瀚〈コウカン〉なる羅馬史〔ローマ帝国衰亡史〕を草し終るや筆を投じて号泣せりといふ。余今に至りて其意を了り〈サトリ〉、始めて其著の日月と光を争う所以を知れり。【以下、次回】

 最初のほうに、「彫刻木版一頁平均四十五本、全編総計十二万六千本の多きに上り」とあるが、ここは、小冊子および『新大字典』では、「彫刻木版、数万本の多きに上り」となっている。一九一七年四月の再版の形に復元してみた。

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