礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

死刑囚・平澤貞通の死と柏木隆法氏

2014-09-14 04:51:32 | コラムと名言

◎死刑囚・平澤貞通の死と柏木隆法氏

 柏木隆法氏の通信「隆法窟日乗」の通しナンバー93(日付の記載がないが、本年八月後半に書かれたものであろう)に、帝銀事件の死刑囚・平澤定通が登場する。柏木氏と平澤死刑囚という意外な組み合わせに驚いた。とにかく、当該部分を引用してみよう。

【前略】ある日の夜中2時を回っていたころ、突然弁護士の遠藤誠から電話があった。「柏木君、これから中野坂上の宝仙寺に来てくれ」と。遠藤弁護士には随分とお世話になったことがある。理由は着いてから話す、ということだった。当時、拙は東京巣鴨に住んでいた。いわれるまま、拙はタクシーで宝仙寺に駆け付けると、真っ暗の中にバンが一台止まっていた。遠藤氏は門前で待っていて、「オッよく来てくれた」というと、バンの扉を開け、懐中電灯で照らすと誰かが寝ている。何故呼ばれたのかわからないまま「君は坊主だったな、死体は大丈夫だね」という。勿論死体などは何度も処理したことがある。触ることに嫌悪感はない。「こりゃ誰ですか」と質問すると「これが平澤貞通〈ヒラサワ・サダミチ〉だよ」と。この時初めて拙が呼ばれた理由がわかった。これが日本中を驚かせた帝銀事件の犯人かと思うと、歴史が急に身近なものに感じた。拙が行ったときにはまだけい子夫人の他は誰も来ていなかった。死体に毛布を全身に覆い隠すと、「君、足を持ってくれ」真夜中に二人で死体を葬儀場の棺まで運び、慌ただしく動いた。最初にやってきたのはテレビレポーターの東海林のり子だった。4時を少し回ったころ、新聞記者やらテレビの報道関係者が続々とやってきた。亀田知明も呼ばれて駆けつけてきた。全部、遠藤ファミリーである。平澤の親戚は一人もいない。明るくなってから養子の平澤武彦がやってきた。葬儀の準備をやらなければならないのに、報道関係者がまつわり付いて全然進まない。しばらくすると、一人の見慣れぬ人が来てテキパキと手伝ってくれた。誰だろうと思っていたら、それが映画監督の熊井啓〈クマイ・ケイ〉だった。【後略】

 帝銀事件の死刑囚・平澤貞通が、八王子の医療刑務所で病死したのは、一九八七年(昭和六二)五月一〇日のことである。翌一一日、東京大学で病理解剖、一二日に宝仙寺で密葬がおこなわれたという。
 柏木氏が宝仙寺に着いたとき、平澤の遺体は、まだ棺桶にもはいっていない状態だった。だからこそ、柏木氏が呼ばれたのであろう。これが、おそらく五月一一日の未明。遠藤誠は、帝銀事件の弁護人をつとめた高名な弁護士である。平澤武彦は、作家・森川哲郎の長男で、平澤貞通の養子、再審請求人。熊井啓は、映画監督で、かつて日活映画『帝銀事件 死刑囚』(一九六四)を手がけたことがある。今や、遠藤誠も、平澤武彦も、熊井啓も故人となった。
「隆法窟日乗」によれば、柏木氏は、このあと葬儀も手伝ったもようである。だとすれば氏は、一一日、一二日の両日、縁もゆかりもなかった平澤貞通のために尽力した(させられた)ことになる。

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