礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

福住正兄の日本語論と文章論(『二宮翁夜話』より)

2013-10-07 05:17:55 | 日記

◎福住正兄の日本語論と文章論(『二宮翁夜話』より)

 二宮尊徳の高弟・福住正兄〈フクズミ・マサエ〉が、師の訓話を集めた『二宮翁夜話』(静岡報徳社、一八八四~一八八七)は、二宮尊徳に関する第一級の資料である。
 その岩波文庫版の初版第三刷(一九三四年、第一刷は一九三三年)は、昔から座右において拾い読みしているが、先日たまたま、「夜話自跋」(あとがき)を読んで感心した。本日は、その冒頭で福住がおこなっている日本語論などを紹介してみよう。ただし、原文は漢文調で読みにくいので、今これを現代語に訳した上で紹介する。

 ある人がこう言いました。「あなたのこの本はよく書けていて敬服しますが、文章が田舎じみている〔野鄙なる〕のは残念なことです。二宮尊徳先生の言葉は堂々としたものだったのに、どうしてこんなふうにしか書けなかったのでしょう」と。私は答えて次のように言いました。私はかつて、こういうことを聞きました。奇妙なものだ。世界の全ての国は、話す言葉〔説話〕と書く言葉〔文章〕は同じで、口に述べれぼ説話となり、筆記をすれば文章となる。話す言葉と書く言葉が一致しているのは世界共通だという。ところがひとりわが国だけは、話す言葉と書く言葉が違っている。これはもともと、漢文に訓点をつけて読んだものを正規の文章〔文法〕としたために、このような弊害が生じたのである。漢文風〔漢文ぶり〕なのを美とし、口語風〔説話風ぶり〕なのを卑しいものとする弊習を改め、話す言葉と書く言葉説話と文章とを一致させなければ、世界の万国に対して恥ずかしいばかりでなく、文明の進化発展を妨げることにもなる。――実にもっともな論だと思います。実はこの本は、高尚な文体〔雅言〕で書こうとも思ったのですが、古人の言に、「雅言は、いかにくわしくても、物の味が甘いか辛いか、人から聞いているようなものだ。俗言は、物の味をみずから嘗めて知るようなものだ」とあります。まことによい喩えで、文章は、俗人に通じなければ意味がないのです。あれこれ思い合わせ、どう書くべきかと思いわずらいましたが、あくまでも二宮尊徳先生が話された言葉〔説話〕を筆記した本なのですから、話された言葉のままに記すのが本意であろうと思い定めました。また、私の浅学不才によって、勝手に筆をもてあそんだりしますと、道を誤る恐れもありますので、なるべく先生の言葉そのままに記して、それにたがわないようにするのを旨としました。

 明確でわかりやすい論理であり、福住正兄の人柄や力量をうかがい知ることができる。特に、その日本語論や文章論は、興味深い。ただ残念なのは、こうした議論が、「漢文ぶり」で書かれているということである。
 なお、この「夜話自跋」の日付は、「明治二十年一月二十日」(一八八七)となっている。

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1 コメント

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Unknown ( 金子)
2013-10-07 14:13:45
 これは、二葉亭四迷の言文一致運動を先取りにした画期的なものですね。明治維新の西洋文化の取り入れに触発されて始めてなされたように今まで言われてきましたが、我が国でも自らそのような弊害に徳川時代の末期に既にそれに気付き、修正して行ったことが他にもいろいろあると思います。

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