礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

吉良義周の死因はマラリアか

2017-12-03 03:12:32 | コラムと名言

◎吉良義周の死因はマラリアか

 遠藤達著『元禄事件批判』(元禄事件批判発行所、一九四二)を紹介している。本日は、その三回目。本日、紹介するのは、「七、吉良義周終焉之地」の全文である。

  七、 吉 良 義 周 終 焉 之 地
 上杉家第五代綱憲〈ツナノリ〉の次男、吉良左兵衛佐義周〈キラ・サヒョウエノスケ・ヨシチカ〉は元禄十六年〔一七〇三〕二月四日評定所に召され、前年十二月十四日赤穂浪士其〈ソノ〉邸に討入の際(当時義周十七歳なり)仕形不行届の皆を以て信州高島に流し、諏訪安芸守忠虎に御預けとなり、宝永三年〔一七〇六〕正月二十日同地に於て逝去(当時義周二十一歳)同地法華寺に葬られたる旨諸書に散見するを以て吉良家絶家後昭和十三年〔一九三八〕まで約二百三十年同墓所は如何に保存せらるゝや、余其実見を心懸け居りしが同年十月三日機を得て之を実見するを得たり。
 地図を按ずるに、現今信濃国に高島町なるものなし、吉田東伍氏著日本地名辭書に依り現今の上諏訪町は旧高島なるを知り、又其東南中洲村に法華寺存在せるを知り、就て調査の結果、上諏訪町の東方一里半、中洲村官幣大社諏訪神社に隣り法華寺存在せり。其門前に左記の二標木を立てたり。
 (一)史蹟 吉良左兵衛佐義周之墓  在当寺境內
 (二)義周は米沢藩主上杉綱憲の次男にして、元禄十四年冬吉良義央の嗣となる、義周実は義央の孫なり、義央赤穂義士の討つ処となるや其子義周これを救はす、元禄十六年二月四日義士の誅に服すると同日に於て義周亦仕方不行届の故を以て、領地没収の上上諏訪高島の城に配流せられたり爾来南の丸に籠居すること三年、宝永三年正月二十日瘧症を煩ひ病死し、二月四日当寺に土葬す。享年二十三歳、碑は義周の従者左右田孫兵衛〈ソウダ・マゴベエ〉山吉新八〔ママ〕両人の志望に従ひ、当時代金参両を以て建て置かれたるものなり。
法華寺境内には集団せる基地なきものゝ如く、義周墓所は本の杉林中に在りて山の入口にも「吉良左兵衛墓所」の標木を立て置けり、細径進むこと約一丁にして約三、四坪位鑿平〈サクヘイ〉したる所に左図の如き碑石建立せらる。
【図略】
図示の如き割れ目あるも、二百三十年間杉林に放置せられたる如き古色蒼然たるものにあらず、然れども後年再建したるものゝ如くにも認められず、碑石は一旦二つに割れたるものなるも案外無難に保存せられたるものと認めたり、旧事を追念し謹んで拝礼の後、墓所を下り寺院に至り刺を通して住持〈ジュウジ〉に面会を求む、住持石川毎丈氏快く引見面談せられたり。
 元来法華寺は臨済宗に属し、元諏訪神社所属の寺院なりしが、明治の初年、神仏分離の際本尊釈迦牟尼仏像は付近の観音堂に移して廃寺と為し、寺院は長く同地小学校舎に供用せられたるが、石川氏の先代住持が法華寺を再興したるものなりと云ふ、壇家二百五十余、寺院建物は相当規模を有し、堂々たるものなり。然れども法華寺伝来の遺物は釈尊像のみにして過去帳すら散逸せりと云ふ、従つて義周氏に関する参考事項の如きは全く調査することを得ざりしも、門前標示事項は上諏訪町住人小平雪人〈コダイラ・セツジン〉翁より説示せられたるものなりと云ふ。又義周は高島到着直ちに法華寺に宿泊し、年余を経て高島城南丸に移住し、同処に於て病死、吉良家は茲に断絶せり。同処は諏訪湖に突出せる場所なるを以て、法華寺門前標示の如く瘧症即ち「オコリ」近代語の「マラリヤ」病に罹り病没したるものなるべし。享年二十三歳と標示せるも、生年月より計算し、亦上杉家系譜に依りて二十一歳なり、寺を辞して帰途車を駆り、城跡の南、旧南丸を過り〈ヨギリ〉たるが一面畑地となり点々工場等を見るのみなり、上諏訪住人の語る所に依れば、徳川将軍家身寄の者も同地に流されたることありと云ふ。頼朝も島地にあらざる伊豆韮山〈ニラヤマ〉付近の蛭ケ小島〈ヒルガコジマ〉に流されたるか如く、単に形式上の流人は「島」字を有する地名の土地に移し流配としたるものならざるか。付記して学者の示教を俟つ。

 法華寺の標木は、碑を建てた人物として、左右田孫兵衛と山吉新八を挙げている。インターネット情報によれば、左右田孫兵衛は、吉良家家老で、名は重次(しげつぎ)。山吉新八とあるのは、山吉新八郎(やまよし・しんぱちろう)のことであろう。吉良家家臣で、名は盛侍(もりひと)。
 碑の図は省略したが、手書きの図で、おそらく著者によるスケッチであろう。四角い台の上に、自然石のような縦長の石が立てられ、右から順に次の文字がある。

   寳永三 丙戍 天 神
宝燈院殿岱嶽徹宗大居士
   正月二十日    儀

 この本の著者の遠藤達は、一九三八年(昭和一三)一〇月三日に法華寺を訪れ、碑を実見したと書いている。ところが、国立国会図書館の書誌情報では、遠藤達の生没年が、「1847-1892」となっている。一昨日も指摘したことだが、これは何かの間違いであろう。

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