礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

柳田國男も高く評価した『日本巫女史』(付・柳田國男の名言)

2012-07-06 05:19:37 | 日記

◎柳田國男も高く評価した『日本巫女史』

 中山太郎の師・柳田國男は、中山に対して厳しく、終始一貫してその業績を認めようとはしなかった。しかしその柳田も、一度だけ中山の業績を高く評価したことがある。
 それが、『日本巫女史』に対する評価であった。すなわち柳田は、一九三〇年(昭和五)五月二七日付の大阪朝日新聞、「読書のペーヂ」に載せた書評「日本巫女史」の中で、次のように述べたのである。
―中山氏の前著『売笑三千年史』〔一九二七〕は、巫女史と同一の意図の下に著はされた姉妹篇ともいふべきものだが、不幸にして在来の遊蕩文学の連想があるために、読まれた割合には婦人問題の研究者からは、疎遠なる待遇を受けてゐた。今度の巫女史の方は交渉がずつと広い。独り〈ヒトリ〉女の力といふことを知りたいと思ふ者のみでなく、日本の神道の元の姿、少なくとも官府の眼を離れた村々の信仰が起り、また衰へた原因を考えてゐる人にも、興味豊かなる読物になると思ふ。/もし欠点をいふならば読んで余りに面白いこと、もしくは史料が雑駁〈ザッパク〉に過ぎて、強ひて価値不同の事実を継合せて、急いで堂々たる体系を備へようとした点であろうが、これはむしろ後にこの書を利用する人々に、さらにより簡潔なる名著を作らしむべく、大いなる張り合いをもたせるに足るものである。社会は単に珍奇なる民俗資料の索引としてだけでも、大いにこの書を歓迎する理由があると思ふ。―
 この引用部分より前の部分でも、柳田は、「これに答へるだけの材料は中山君しか持合せてゐない」とか、「当時中山君のやうに潤沢なる史料を抱持する友人が無かつたために」などと書いている。「史料が雑駁」と言いながらも、中山が史料収集に払った努力に対しては、一応の敬意を払っているのである。
 ところが、昨日のコラムで見たように、ウィキペディア「中山太郎(民俗学者)」の項の執筆者は、この柳田の書評を次のように紹介していた。
―柳田國男は中山の『日本巫女史』を評価しつつも「(前略)欠点をいふならば読んで余りに面白いこと、もしくは史料が雑駁に過ぎて、強ひて価値不同の事実を継合せて、急いで堂々たる体系を備へようとした点であらう(後略)」と述べている。―
 この紹介は、事実において誤りではない。しかし恣意的な紹介になっていることは否定できない。この紹介を読んだ読者は、柳田は、『日本巫女史』を評価しながらも、史料面で問題があるとしていた、と受け取るであろう。
 しかし、柳田の真意は違う。あえて欠点を挙げようとすれば、「史料が雑駁に過ぎて、強ひて価値不同の事実を継合せて、急いで堂々たる体系を備へようとした点」などが挙げられるものの、基本的に柳田は、この本を「興味豊かなる読物」として高く評価しているのである。「もし欠点をいふならば読んで余りに面白いこと」という素直でない表現も、柳田としてみれば、最大の褒め言葉として使っていた可能性がある。
 また、この書評の冒頭で柳田は、「女でなくては出来なかつた大きな精神運動が、不思議にも今までは同性の人達にさへ省みられてゐなかつた」と述べている。いかにも持って回った表現だが、こうした言い方によって、柳田は、『日本巫女史』の出版を祝福したと見るべきであろう。
 ウィキペディア「中山太郎(民俗学者)」の項の執筆者が、『日本巫女史』について、どのような評価をおこなおうと自由である。しかしそれは、執筆者があくまでも、自己の見識に基いて評価している場合に限る。柳田國男の書評を恣意的に引用し、それが『日本巫女史』に対する標準的な解釈であるかのごとく装うのはいかがなものか。
 南方熊楠の同書に対するコメントについても、同様なことが言える。南方は、基本的に中山太郎の民俗学のよき理解者であって、同時に中山太郎という人物を信用していた。だからこそ、『南方随筆』(一九二六)、『続南方随筆』(一九二六)の編集を中山に委ねているのである。『南方随筆』の跋文「私の知つてゐる南方熊楠氏」(中山太郎執筆)の記述をめぐって、第三者であるはずの柳田國男が激怒したときも、南方はむしろ中山をかばおうとしているのである。
 たしかに南方は、中山の研究について、「氏得意のカード調べに間違い多し」などの厳しい指摘をしているし、そうした指摘は当たっているのである。しかしそれは、中山の民俗学を肯定した上での、また中山の研究をよく読みこんだ上での「苦言」なのであって、中山太郎あるいは中山民俗学そのものの否定と捉えるべきではあるまい。

今日の名言 2012・7・6

◎驚く者必ずしも伝ふるの力ある者で無かつた

 柳田國男の言葉。書評「日本巫女史」(一九三〇年(昭和五)五月二七日付の大阪朝日新聞1930・5・27)に出てくる。かつて巫女〈ミコ〉が「その不思議の言語」をもって男たちを導いた時代もあったが、「忌みてこれを記述せず」、また驚きを伝える力を持つ人ばかりでなかったこともあって、巫女の活動は次第に落ちぶれていった。――こう柳田は言う。柳田の文章は、そこで語られていることの当否を論ずる対象ではなくして、そこに含まれているレトリックを味わう対象のように思える。

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1 コメント

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Unknown ( 伴蔵)
2014-07-02 12:21:40
 柳田特有の言い回しは、読んでいる者をしてイライラさせると思います。

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