礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

尾崎光弘さんによる書評三件

2016-08-26 04:54:57 | コラムと名言

◎尾崎光弘さんによる書評三件

 畏敬する在野研究者の尾崎光弘さんが、そのブログ「尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅」で、最近、三冊の本の書評を書かれた。いずれも、礫川が関わっている本である。ご本人から、転載のお許しをいただいたので、本日以降、この書評を紹介することにする。
 本日は、『独学の冒険』に対する書評(二〇一六年八月二一日)を紹介する。

独学の覚悟を迫られる 礫川全次著『独学の冒険』(批評社 二〇一五)

 今週は曜日ごとのテーマをお休みして、気になっていた本を紹介したいと思います。それは礫川全次著『独学の冒険』(批評社 二〇一五 十月)、同編『在野学の冒険』(同社 二〇一六 五月)、同著『雑学の冒険』(同社 二〇一六 六月)の三冊です。『独学の冒険』と『雑学の冒険』の二冊は在野史家・礫川全次氏の単著で、『在野学の冒険』は八人の論客による論集で礫川氏は編者を兼ねています。三冊揃ったところで、三冊の関連が書かれている『雑学の冒険』の「はしがき」を読んでみますと、独学・在野学・雑学は互いに重なり合う部分を持ち互いに繋がっていると言いたいのだなと伝わります。というよりか、三冊を続けて読んでみますと、それぞれの個性が自ずと浮彫りになって来ます。私の受けとめを一冊ずつ一言でまとめると、『独学の冒険』は独学の覚悟に迫られ、『在野学の冒険』は学問研究の方法について深く考えさせられ、『雑学の冒険』は、歴史の多様な側面に気づかされる、という言葉になります。まず、『独学の冒険』」から敷衍していきます。私がこの一冊から受けとめた「独学の覚悟」の要点は三つあります。

(イ) 研究動機に切実さがあったか
(ロ) いつも完成品だけを目指していなかったか
(ハ) チャンスをみずから切りひらこうとしてきたか

 (イ)は、第五章の一つ「八王子が生んだ異色の思想家・橋本義夫」が語る、どんな人間でも「書かねばならない」ことがあるという指摘が私の内面を抉りました。たしか小説家の中村光夫がよい文章の条件として書く人の「切実さ」を挙げていましたが、これを含めて自分の「研究動機に切実さがあったか」と自問しました。すると、途中まで作ってはまたちがう物を作り始めるという少年時代の工作遊びと同じことをやっている現在の自分が見えてきました。そこでは、己の切実さをより広く社会や歴史に位置づける発想なんてまるで希薄、・・・というかそういう位置づけを意図的に留保していたことに改めて気づかされたのです。
 (ロ)の「いつも完成品だけを目指していなかったか」について。これは第二章の「自分の資質にあった研究スタイル」が参考になり、立ち止まって考えました。歴史学者・家永三郎は「教科書裁判」関係の集りで、私も何度か尊顔を拝したことがあります。この高名な教授が自伝で「私の研究テーマは、このように次から次へと変わってゆき・・・」と書いてあったことを知って驚きました。ですが、家永さんほどの研究実績をもった人が、テーマを次々と変えていたということを知って、もしかしたら、一つのテーマから完成品を得るところまで漕ぎ着けない独学者は、案外いっぱい潜在しているのではないかと思いました。それには必ず理由があるはずです。
 この予想は、第一章の独学者としての柳田国男を論じた末尾の一節に結びつきました。著者は「なお、柳田の例でもわかるように、独学者が初めて研究成果を公表することは、その独学者にとって、一つの過程にすぎません。」と述べられています。いつもなら読み飛ばしている一文かも知れません。完成品は一つではなく、矛盾した言い方ですが、中途半端な研究も「完成品」になり得るし、事実だけを記述した研究も完成品の一つです。要するに完成品か否かは、目的しだいということになります。完成品にも段階があり、それぞれにニーズに応えた研究作品群という中に位置づけてみると、それぞれの役割の独自性が見えてきます。やはり、と思いました。私のアタマが固かったのです。なにか結論が明解に書かれているものだけが、「研究論文」あるいは「完成品」と呼ぶに値する、こんな価値観が私にしみこんでいたことが自覚できたのです。
著者の引用は、続いてこう結ばれています。
 その最初の研究成果を、「原点」としながら、さらに研究を深めて、次なる成果を目指すという考え方が大切です。そういった意味をこめて、研究がある段階に達したときは公表をためらうべきではない、と申し上げたわけです。(69頁)
 それにしても、(イ)も(ロ)も初めて知ったことではありません。昨年の五月に亡くなった教育学者・庄司和晃先生から教わってきたことなのです。恥ずかしいというかナサケナイ。教え甲斐のない人間だったわけです。その原因は分かっています。大人になり教師になって他人の中途半端は許容できても、自分のそれはイヤだったのです。感情を次の段階にひらいて行く途を自分で閉ざしていたのだと思います。
 (ハ)の「チャンスをみずから切りひらこうとしてきたか」について。これもまったくやってこなかったといってもいいです。「機会を活かしきる」ことを念頭に、与えられた機会を活かして精いっぱい自分なりのものを書きたい、こう思ってきました。ここにも「完成品」は一つしかないという価値観が露呈しています。
 第四章の「独学者が世に出るまで」では、映画評論家の佐藤忠男さんの独学論が紹介されています。私は佐藤さんの作品は好きでこれまでいろいろ読んできましたが、ただ、この「チャンスは、みずから切りひらけ」の一点、書いた原稿をあちこちの出版社に持ち込むことは自分にはできないな、と思ってきました。理由は分かっています。そういう生き方は苦手、これは性分と思い込んできたわけです。しかし、まさにここをひらいて行かなくてはならない、ようやくそう自覚しました。著者も別の箇所で述べているように、まずアクションを起こせと教えています。アクションを通じて先の「三つ要点」を血肉化すること。では何から始めるか。考えるのではなく、・・・やるかやらないか、決めること。──ここまで、自分に「独学の覚悟」を迫った一冊です。ブログを再開する気になったのも、この一冊が大きな契機になっています。

*このブログの人気記事 2016・8・26(10位に珍しいものが入っています)

 

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