礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

木畑壽信氏を偲んで(青木茂雄)

2017-09-17 02:40:43 | コラムと名言

◎木畑壽信氏を偲んで(青木茂雄)

 今月八日に東京・中野区で開かれた「木畑壽信〈キバタ・トシノブ〉氏を偲ぶ会」のことを、当ブログ、九日のコラムに書いた。これを書いたあと、青木茂雄氏にメールし、「偲ぶ会」でのスピーチの際に手にされていた「原稿」を送ってもらえないかとお願いした。青木氏からは、すぐに、了解した旨の返信があったが、「原稿」そのものは、なかなか送られてこなかった。
 昨一六日の未明になって、「木畑壽信氏を偲んで(1)」と題する原稿が送られてきた。一読すると、当日のスピーチの原稿とは、明らかに異なるものでああった。はるかに詳細なものになっている。このあと、まだ、「続き」があるとのことだった。
 とにかく、本日は、この「木畑壽信氏を偲んで(1)」を紹介させていただこう。

木畑壽信氏を偲んで(1) 青木茂雄

 装(よそお)いせよ、おお わが魂よ、
 暗き罪の穴ぐらを去れ。
 明るき光のもとに出できたり、
 主のもとにふさわしき輝きを放ちそめよ。
    ……
聖なる宴の賜物のいかに尊きかな!
 これに比すべきものは、げに見当たらず。
 世がつねに貴しとなすところは、
 空しきあだごとなり。
 ……
(J.S.バッハ作曲『教会カンタータ180番、“装いせよ、おお わが魂よ”』
  より、杉山好訳)

 木畑壽信氏(享年65歳)、文筆家、社会理論学会会員、「変革のアソシエ」事務局。

 「木畑壽信さんを偲ぶ会」が先日都内で行われ、氏の知己が50名ほど集まって、生前の氏を語り合った。私も彼の古い知己のひとりとして短い話をした。その話をきっかけに文章を書いた。生前の木畑氏とその時代を偲ぶよすがとなれば幸いである。

(Ⅰ)『構成する差異』
 私が木畑壽信と最初に出会ったのは、高田馬場駅近くに教室兼事務所を構えた「寺小屋教室」で月1回ほど行われる「寺小屋論」と銘打った小さな報告会の場で、である。注釈が必要である。
 矢掛弘司氏主宰による「寺小屋教室」は、大学闘争の興奮いまだ覚めやらぬ1973年に、清水多吉氏、片岡啓治氏らを講師兼運営委員として迎え、高田馬場駅近くのマンションの一室で市民向けの思想講座として開かれた。今で言えば“カルチャー”の先駆けだが、当時の熱気は違っていた。参加者の平均年齢は20代後半、さながら封鎖中のキャンパスの中で開かれていたであろう「自主講座」の延長のようなものだが、違いは参加者のほとんどが言わゆる社会人であったこと、講師陣は主として学問研究の業績を残している研究者でありいわゆる学者であったこと、である。その意味では「自己否定」や「大学解体」を唱えた潮流とは一線を画していた。
主宰者矢掛氏の目利きもあって、「寺小屋教室」では70年代に先端を行く気鋭の思想研究の紹介が行われた。ひとつが「フランクフルト学派研究」であり、もうひとつがようやく戦後史のタブーの中から解き放たれはじめた日本思想の研究であった。後者の流れとして当時はかなり大胆な企画であった「水戸学・国体論」や「吉田松陰」などがあった。これに「柳田国男」や「安藤昌益」なども加わり、さながら日本思想の百家斉放の感があった。
「われわれの思想をわれわれのの手で」が初期の寺小屋教室のキャッチフレーズであった。 寺小屋教室に会員として参加し、のちに著名人となったのは、政治学者の姜尚中(カン・サンジュン)氏(「フランクフルト学派研究」講座)、思想家・評論家の故小阪修平氏(「ヨーロッパ革命運動史研究」講座)、中世思想研究者の山本ひろ子氏(「水戸学・国体論」講座「吉田松陰」講座など)、明治社会主義研究の山泉進氏(「フランクフルト学派研究」講座)などである。
 私は、1976年にたまたま神保町の古書店に掲示されたポスターで「寺小屋教室」の存在を知り、同じ教員仲間(当時私は東京都下のとある中学校で社会科の教員をしていた)をさそって「明治国家論」なる講座に大枚年間4万円を支払って参加した。同講座には、大濱徹也氏、故前田愛氏、故松本健一氏、坂野潤治氏、などが入れ替わりで登場し講義した。私にとっては初めての分野であり、どの講座からも本当に目を開かされる思いであった。とくに大濱徹也氏からは、明治思想史研究のエキスを教えられた。氏のアドヴァイスもあって、私は1977年のひと夏かけて「堺利彦論」を書き『寺小屋雑誌』4号に発表した。思えば400字詰原稿用紙で20枚以上の文章を書くのは卒論のつたない文章以来のことである。
 講座の終了後には毎回必ずと言ってよいほど、近くの安酒場で談じあった。ブレークする直前の松本健一氏の話も印象深かった。「私は大学を出たあとはまったくあてがなく、ラーメンの屋台で日銭を稼ぐことも考えた。(東大を出て)会社勤めをするのはまだ良い、私が許せなかったのは大学に残ってアカデミズムへの道を進むことだった…」
その寺小屋教室で、1978年ころから、講座の枠を越えて会員の自主研究の発表が月に1回行われるようになった。それが寺小屋論である。マルクスありウェーバーあり、そこに水戸学あり国学あり、柳田国男あり、安藤昌益あり、フランクフルト学派ありフロイトあり、大半が20代後半か30代前半、今にして思うと、どこかから借りてきたようなその議論は、青臭いとは言え、皆若くその熱気は本物だった…。
 寺小屋論は回を重ねるごとに熱気を帯び、やがて公開シンポジウムを2回開催するまでになった。 
 その寺小屋論に颯爽と登場したのが木畑壽信であった。多分、自己紹介は次のような内容のものだったと思う。“ 新宿区自治体労働者の木畑です、新宿区職労の闘いについて報告します。”そして配られたのが分厚い手書きの冊子だった。イラストと言ってもよいその表紙の手書きのタイトルが「構成する差異」であった。
 そこには私の聞いたことのあるようなないような人物(デリダとかフーコーとかフッサールとか)に加えて定番のマルクスやヘーゲル(このあたり遠い記憶に頼っているので不確か)。立て板に水を流すようにまくしたてたあと、会場からの発言に対して木畑いわく。「あなた、ヘーゲルをちゃんと読みましたか?」
 私はこの言葉にガクンと来た。いったいどういう人なのだろう。すごい奴が来た。それが木畑壽信の最初の印象であった(別の日であったと思うが、同様の強烈な印象が小阪修平氏の登場であった。彼の登場は文字通り《ヘーゲル》だった)。
私はその時までにヘーゲルについては『法の哲学』を中公の世界の名著で通読はしていたが、ほかは岩波文庫で『哲学入門』を読んだことがあるくらいで、大著『精神現象学』は河出の樫山欽四郎訳でまったく歯がたたず、数ページで放棄した(その後挑戦する機会が2度あったが、原語で読もうなどという高望みをしたためか、2度とも「自己意識」かその前あたりで挫折した。同書の内容をもとに思想を語る人に対して、私は今でも羨望を禁じ得ない…)。
 もちろん私は今に至るまで、ヘーゲルなど「ちゃんと読んでいない」。しかし、次のフレーズとの出会いから私が影響を受け、私の行動に何らかの痕跡をのこしたことも間違いない。
A「自由とは必然の洞察である。」 ―エンゲルスの『空想から科学へ』の中での引用
B「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である。」
思想の伝播とはそういうものであろう。
 さて、木畑壽信がヘーゲルを「ちゃんと読んで」いたかどうかは、その後の彼との付き合いの中からはまったく疑わしい。彼の「神々」はヘーゲルではなく、「デリダ」であり「フーコー」であり、「ソシュール」であり、そして何よりも「吉本隆明」であった。この組み合わせに共通するものは《先進性》であり(彼は後にこの《先進性》を「喫水(きっすい)」というイメージで語った)、こういう言い方が許されれば、「見栄えがして」、「装い(よそおい)」がいがあったのである。
“それは違うだろう”、それが私の木畑壽信に対する最初の意見であった。(つづく)

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1 コメント

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Unknown (伴蔵)
2017-09-23 08:49:10
山本女史は思想史家というよりも、仏教文学者

のような感じがします。

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