礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

1945年1月の三河地震と発光現象

2017-01-09 04:24:21 | コラムと名言

◎1945年1月の三河地震と発光現象

 年末に資料を整理していたところ、『イトスギ』という雑誌の第二号が出てきた。愛知県幡豆〈ハズ〉郡西尾町立西尾中学校が、一九五二年(昭和二七)三月一〇日に発行したものである。中学生の作文を集めたものだが、活版で本文九二ページというのは、当時としては、かなり思い切った試みだったのではないだろうか。
 本日は、その中から、加藤米子さんの「地震」という文章を紹介してみたい。

  地 震
       一の五 加藤米子
 わすれもせぬちようど今から七年前〔一九四五年〕の一月十三日の出来事である。その時、私はおばあさんとねておりました。その時は父は兵隊でした。母は赤ちやんをうみに、おじいさんは用事で東京へ、後にのこつた二人でした。いつも二時すぎに便所に起るのですがその時に限つてぐつすり寝てしまつていました。ふと目がさめると物凄くゆすつているではありませんか。はね起きて立つとおばあさんが「外に出るのだ。」といつたので私は走つて行くと上に家がもち上げられました。幼ない私には立つて居られませんでした。電気があつというまにきえてしまいました。ガラスごしに東の方が明るく見えたと同時に大きな音とともに家はころんでしまいました。それはちよつとの出来事でした。
 それから私は気を失しない家のしたじきになつていたのです。気がつくとおばあさんの苦しそうな息がきこえてきました。すると大きな声で前のおじさんが「どこにいるかー。」といわれたのでたすけ船が来た様に思いました。私は歩けるがおばあさんは歩るけないのでおじさんがおんで〔負うて〕行つてくださつた。ほかの人たちは食糧を出してからだと言つて私たちの苦しみもしらないで食糧の方が大事だと言つていたそうです。おばあさんはすぐ西尾のびよういんに行こうと思つてリヤカーで橋まで来たら橋が落ちていたので行けなかつた。
 数日間の間小屋でまた家を作つて入つた。親類の人が空しゆうでやけてしまいせんそうも終り父は帰つて来た。そして二人戦死してしまいもう二人帰つて来た。私の家は五人も兵隊に行きました。一人の人はうちが変わつているのでちがうと思つたそうです。あれから私の家はいろいろの出来事があった。
 人間というものは自分で出来るだけの事をしなければならないのだ。学科の成績も勿論大切な事でありますがいくら学科の成績が良くても信用のない人は人間として不幸な人だと思います。どんな困難も苦しみも失望せず「まごころ」をこめて働き勉強して行かないとこれからの新日本をきずく事が出来ないと思います。あれからの私の生活は楽でない。私の家だけではない日本全体がまづしいのだ。生活にまけて一家心中とか自殺がこのごろの新聞にうずめられている。地震の時は苦しかつた。家がなく小屋に三軒も入りぎゆうぎゆうでした。あの時の事を思うと今の生活は淋しいほどらくである。でもあの時は私は幼なかつた保育園の青組であつた。私は地震の時の事を一生わすれる事が出来ないと思う。

 決して巧みな文章ではないし、用字や表現も整っていない。これは編集者によって、添削が施されていない文章であることを物語っている。
 この地震が、一九四五年(昭和二〇)一月一三日午前三時三八分二三秒に起きた「三河地震」であることは、間違いない。直下型で、マグニチュード6・8だったという。「上に家がもち上げられました」という描写は、おそらく誇張ではあるまい。
 また、「ガラスごしに東の方が明るく見えた」というのは、時刻からいって、地震にともなう発光現象であろう。
 そのほか、近所の人たちが、負傷者の救出より、食糧の搬出を優先しようとしていたというのは、伝聞にもとづいた記述ではあるが、当時の深刻な状況を考えると、いかにもありそうな話である。

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