礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

たなぞこもやららに拍ち上げ歌ふもあり

2017-09-28 02:05:12 | コラムと名言

◎たなぞこもやららに拍ち上げ歌ふもあり

 高麗明津編『高麗郷由来』(高麗神社社務所、一九三五年七月三版)を紹介している。本日は、その六回目で最後。「高麗郷由来」の紹介も、これが最後。昨日、紹介した部分のあと、改行して(一字サゲなし)、次のように続く。

禅阿の弟慶弁は、諸国名山修行の後、鶏足寺に留まつて、大般若経、法華経等を書写した。法華経は聖天院に納め、失火の際焼失したが、大般若経は現に高麗神社の神庫にある。第二七代豊純は「源家の縁者」なる、駿河岩木僧都道暁の女を迎へて室とした。これが高麗家に於て国人と結婚した始めである。系図に「当家者是迄高麗従来之与親族重臣計縁組仕来処深有子細迎駿河岩木僧都道暁女為室依為源家縁者従是幕紋〈マクモン〉用根篠〈ネザサ〉」とある。是迄何故に国人と結婚しなかつた乎〈カ〉、又如何なる仔細あつて源家の縁者を迎へた乎、窺知〈キチ〉することが出来ない、又道暁が如何なる身分のものかもわからないが、投下以来、進出の自由であつた奈良平安の際にも、高倉福信一門の外、功名場裡に馳趨せず、武蔵七党時代にも雌伏してゐた高句麗部族が、高麗家の此の結婚以来、活動を始めた様に思はれる。
 二十八代永純の壮時、高麗家は古今を通じての最大不幸に遭遇した。それは後深草天皇の正元元年(紀元一九一九年)《西暦一二五九》の十一月に失火して、故国より持ち来れる貴重な宝物古記録の大部分が灰燼に帰したことである。高麗氏の古系図も此時焼失したので、一族老臣を始め、高麗の百苗が集まり、諸家の旧記を取調べて編成したのが、現在高麗家に伝はる系図一巻である。而して此系図の記載法が、日本古来の系譜記載様式と異つて、非常に勝れてゐるとは、文学博士重野成齋《安繹》氏の言はるゝ所である。三十代行仙の弟三郎行持、四郎行勝の両人は鎌倉の北条氏に仕へたが、北条氏没落の時、東勝寺に於て討死した。三十二代行高は、延元二年《一三三七》秋宮方となり、新田義興の招きに応じて、北畠顕家の鎌倉攻めに参加した。時に年僅に十九歳であつたといふ。爾来正平九年《一三五四》河村城の陥落する迄、新田氏と運命を共にした。行高の弟左衛門介高広、兵庫介則長の両人も亦兄に従ひ奮戦して、高広は討死し、則長は流矢に当つて陣没した。
 此の貴重な文献高麗氏系図は、良道(高麗王四十四代の孫)の死後、良賢の代に至り、故あつて親戚人間郡勝呂郷〈スグロゴウ〉なる勝呂氏に預けられて、其侭十代を経過したが、明治に至り、井上淑蔭〈ヨシカゲ〉、加藤小太郎二氏が勝呂美胤に返却を勘められたので、美胤は之を高麗大記に返した。井上淑蔭翁が其時の模様を記した文章があるから左に掲げる。
 凡〈オヨソ〉物の物の差誤、事の不平などいとしたゝかなるも、其の本を推し尋ぬれば僅〈ワズカ〉毫厘《毫釐》の際〈キワ〉より起る大かたの習ひなれど、高麗氏の系譜の入間郡塚越邨神官勝呂家に伝へたるは、如何なる故ならむ。古老の談に、何れの昔なりけん勝呂家嗣子無く、高麗氏より義子〈ギシ〉したる事ありと。されど家の重宝を容易に攪ふ《ママ》べきならねば、彼れいさゝけ《聊け》の縁故ありて、其のまゝ勝呂家に伝はれるにも有りぬべからむ。其はいかにまれ、高麗王の遠裔衍純主教職を奉仕し、勝呂氏また同官、余《井上淑蔭》もまた其のすぢにて、常に隔て無く交らふに依り、とかくして其の家に収むる事とはなれり。明治七年《一八七四》甲亥八月十一日、此日天朗かにして、不尽の神山《富士山》、下つ群山、手かくばかりいとけさやかに、庭の松萬世よばひ、簷〈ヒサシ〉の雀千代と音なふ《チヨと鳴く》。わが遥岳邇水楼に置酒す。集へる人々は、東駒衍純主勝呂美胤子自余二家の親族五六人、勝呂氏懐〈フトコロ〉より一軸を交与す。高麗氏おし戴きて披き〈ヒラキ〉見る。人々悦ぶこと限りなし。おのれ觴〈サカズキ〉を挙げて、時ありてもとの瀬を行く水くきをおもへば清き高麗の川浪と歌へば、勝呂氏六絃の琴を合せたり。高麗氏も筆執りて系譜離家幾許年、祖宗履歴似沈淵、君教浮出添金玉、并照本枝永世伝、傍なる人壁に立てたる月琴を弾く。から歌には調〈シラベ〉細かにていとつきづきし《ふさわしい》を、人々感けて〈カマケテ〉聞き居たり。盃あまた度〈タビ〉めぐるにひとびと酔ひすゝみて、懐より短笛とり出でゝ吹くもあり。手掌憀亮〈タナゾコモヤララニ〉拍上げ〈ウチアゲ〉歌ふもあり。翁もほとほと舞ひ出でぬべし。日影花やかに秩父嶺にかゝるに、いざ家路をと人々そゝめく。此ころ書きすさびたる三韓沿革考の机上なるを、高麗氏見て、是れは我が遠祖の故国の事なりとて懐しむ。其中に承らまほしきことも多かり、今宵は宿り給へととゞむれど家にえさらぬことあり、又のどかにを、とてあゆひ《足結》の紐むすぶ。今日は中の十日《中旬》の初めなれば、夕月もさやかにて、道のほどもたづたづしからじとて、やをら立ちいづ。終日の愉快忘れがたしとて、拙き筆にかくなむ。 
             権大講義 藤 原 淑 蔭 識
 顧みるに高句麗先民の皇国に投化してより茲に千二百有余年、物換り星移つて、世界の歴史も幾〈イク〉変転し、日鮮の関係も亦親疎さまざまの時代を経て、遂に併合一家の状たる今日に立ち到つたのであるが、思へば奇しくも尽きせぬ因縁であつたと言ひ得るであらう。
 かく内鮮《日本と朝鮮》一家の今日に於ては、この奈良朝以来、我国文化に貢献する所甚だ大にして、加ふるに武蔵野開拓の功績顕著なる高麗人の遺跡こそは、単に歴史的文化的価値の上からのみならず、あらゆる意味に於て、十分に尊重されなければならないのであるが、明治二十九年《一八九六》、この由緒深き高麗の郡名を廃されて以来、いまだに復活されないのは、かへすがへす残念な次第である。
 高麗村は東京を距る十二里、川越の西四里の所にあり、高麗神社及び聖天院の所在地なる大字新堀字大宮は、武蔵野線《武蔵野鉄道》高麗駅より十八町、同飯能駅より約一里半、又八高線高麗川駅より約十八町の所にある。
 高麗氏系図に見ゆる高句麗系姓氏は左の如くである。
 高麗、高麗井(駒井)、井上、新、神田、新井、丘登(岡登、岡上)、本所、和田、吉川、大野、加藤、福泉、小谷野、阿部、金子、中山、武藤、芝木。

 以上が、「高麗郷由来」の末尾の部分である。
 ちなみに、ブログ「韓郷神社社誌」の「②『高麗神社と高麗郷』」は、この末尾の部分を紹介していない。高麗澄雄編『高麗神社と高麗郷』では、この部分がカットされていたのではないかと推測するが、あくまでも推測である。

*このブログの人気記事 2017・9・28(4・7・8位に珍しいものが入っています)

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