礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

右翼は「安保廃棄」を打ち出せ(野村秋介)

2017-11-16 05:37:53 | コラムと名言

◎右翼は「安保廃棄」を打ち出せ(野村秋介)

 昨日に続き、『証言・昭和維新運動』(島津書房、一九七七)を紹介する。
 本日は、同書第二部にある「反共右翼からの脱却――野村秋介・鈴木邦男」から、野村秋介の発言を紹介してみよう。これは、二者による対談の記録で、『現代の眼』の一九七六年(昭和五一)二月号が初出である。

 鈴木 戦争は一番優秀な人間を殺すと言いますからね。勇気のある人間はみな死んでしまった。
 野村 右翼においてはとくにそうですよ。優秀な人は皆死んでしまい、残された少数派から戦後の右翼運動は再出発した。だから数が少ないということで、ともかく数をふやそうと考えたんですよ。児玉誉士夫〈コダマ・ヨシオ〉さんなどが考えたのもそういうことだったと思うんですよ。任俠〈ニンキョウ〉団体にまでも働きかけ抱えこんで、< 量>の拡大を考えた。
 鈴木 しかしそれはある意味では仕方がないんじゃないですかね。左が<数>でせまってくるわけでしょう。そうしたらそれに対抗する側も<数>を集めなくては、と思うんじやないですか。でなければやられちゃうという不安がありますからね。
 野村 僕はその考えには根本的に疑問を持っていたんですよ。<数>に頼れば資金的な問題で運動が歪められるし、国民大衆に対する迎合的なものに変質してしまう。三島〔由紀夫〕さんなんかはその点、<数>をふやそうとしなかった。<数>をふやすということは<質>を落とすということだとはっきり知っていた。だから大衆運動なんて考えなかったし。楯の会も百人と限定したでしょう。そして行動を共にしたのは五人だけだった。
 鈴木 敗戦によってすべては無に帰してしまった。特に打撃の大きかった右翼は早く立ち直り戦線を整備しなくてはとあせり、<数>をふやすことに急になってしまった。それが結果においては現在の右翼のような体制内化したものになった要因になっているということですね。それに反共だけの運動もそれに輪をかけたと……。それはまあわかるわけですけど三十五年安保〔60年安保闘争〕の頃は、どうもそれだけではなかったのでは、とも思うんですよ。何と言うか、ナショナリズムとナショナリズムのぶつかり合いだったのではないか。すなわち安保支持派も反対派もですけど、その基盤にあったのはナショナリズムであったろうと思うわけですよ。どっちのナショナリズムが国民をよく吸収したかといえば安保反対の反米ナショナリズムですよね。その時の選択は後から見た場合、間違っていたかもしれないが、そう選択せざるをえなかった心情は理解しなくてはならないのではないか。結果的には反共右翼をつくることにはなっても、当時の右翼の人々もやはりナショナリズムから安保支持に回ったのだということですね。
 野村 そりゃそうですよ。当時の人達も反共だけであとは国がどうなろうと構わないなんていう気持ちではなかったでしょうし、ナショナリズムの範疇〈ハンチュウ〉から外に出ていたわけではない。ただ、その時の失敗(あえて失敗と言いますが)を今、教訓として生かしえているかどうかですよ。全然生かしえてないじゃないですか。だから三十五年安保の<負債>を我々がどう引き受け、どう越えてゆくかの問題ですよ。さっき児玉さんの話をしましたが、<数>をふやすということでも体制サイドに立った発想ではなく、ナショナリズムに立脚した上での考えであり、運動であったと思いますね。
 鈴木 左の連中が<数>で来る。それに対して右の方も対抗するには<数>を集めるという発想は野村さんが言われるように今から考えればナンセンスだったかもしれませんが、それなりに一つの見識というか、やむにやまれないものがあったんじゃないですか。というのは、国会前に人数を動員した安保反対派は、これだけの国民が反対してるのだという<事実>でもって迫ってきた。また、学生やら市民やらの動員された人間だけではなくその背後にはもっと大多数の国民がいるのだという確信があったと思うわけですよ。それに対して安保支持派の方もまったく対極に立ちながらも国民の大多数は自分たちを支持しているのだという確信を、これまた持っていたわけでしょう。そして安保反対派の動員された人間以上の数が自分たちを支持しているのだと。「声なき声は支持している」という言葉にあらわされるようにですね。しかしその「声なき声」は<数>として、<動員>としては顕在化されえない。そうしたアセリがたとえ任俠団体を動員してでも、<数>として示す他ないというところになったんではないかと思いますね。たしかにその結論は間違っていたかもしれませんが、<数>や大衆運動を考えたということ自体までもすベて間違いだとは言えないんじゃないですか。
 三島さんだって最初は大衆運動を考えていたし、<数>に対しては色気も持っていた。さらに自衛隊をも巻き込んでドデカイ騒乱状況をつくろうと目論んでいたわけでしょう。それが出来なくて挫折し、いわば絶望の果ての自決でしょう。その結果だけからみて断言しちゃうのは極論だと思うのですが。それにその<結果>だけを我々が真似てみたって何も変わりはしないですよ。あれは三島さんだからあれだけの大事件として扱われ、影響力もあったんであって、即、我々が同じことをしても波及効果はないと思いますね。我々は我々としていまの時点に何が出来るかを考えなければならないと思うんですよ。合法、非合法を問わず。
 野村 確かにそれはノーマルな考え方だと思いますよ。僕もその点に関しては異議があるわけじゃないんですよ。ただそうしたものがいまに至るまでもずうっと続いてるんじゃないかというところに危惧を持つてるわけです。反対もされずに延長している。それはどこまで行ってもその延長のままでふっ切れないんじゃないか。一度ここで、立ち止まって考えてみる必要があるんじゃないかと思うんです。立ち止まるところがあり、流されるだけではなく踏み止まるところがあるんじゃないか。いや実際にあるんですよ。大体にして、右翼の間から三十五年安保を再確認しようだとか反省しようという風潮は一度だって無かったでしょう。だからこの機会にその点をもっと考えなくてはならないと思うんですよ。鈴木さんもそれは認めるでしょう。
 鈴木 それは勿論認めますよ。たとえ善意からであり、また彼らの心情は痛い位わかりながらも、いまの右翼の体制化の因は三十五年安保の時の選択にあったと思いますからね。
 Y・P体制〔ヤルタ・ポツダム体制〕打倒にしてもその支柱をなしている安保と憲法の二つを同時に打倒する闘いであったはずなのに、一方の憲法の打倒は言いながらも、もう一つの安保の方は支持するんだという。こんなおかしな話はありませんよ。少々皮肉をこめて言えばこうした器用なまねが出来るようになった時から戦後右翼の堕落が始まったんだと思いますよ。
 野村 その堕落した姿勢はいまも統いているんですよ。反体制右翼としての誇りもなく、牙〈キバ〉もすてて体制ベッタリになってしまった。だからどこかで踏みとどまらなければならないんですよ。そうでしょう。保守政党と右翼という本来相反するもの同士が癒着したまま続いてきてるんですよ。ここで三十五年安保のことを考え直すということは我々戦後右翼が背負ってきた負債を確認し、失敗は失敗として認めることですよ。さらには、では我々は安保に対してどういう姿勢をとり、どういう見解をとるのかをはっきりさせることですよ。今までの右翼とは違うんだといったって安保に対する考え方も同じでは、どこに違いのがあるのかとなっちやいますよ。Y・P体制打倒を言い、戦後体制からの脱却を言うのならば、安保と憲法を分けて考えるなんてことは絶対に出来ないはずですよ。少なくともそのスローガンを口先だけではなく、自分たちが命を賭して実現するんだという決意があるのなら「安保廃棄」ということをはっきりと打ち出すべきだと思うんですよ。【二〇〇~二〇三ページ】

 ここで、野村秋介(一九三五~一九九三)は、「体制ベッタリ」の右翼を批判し、右翼は「安保廃棄」ということをハッキリ打ち出すべきだと述べている。大胆な発言である。
 この対談については、さらに紹介を続けようと思っているが、明日は一旦、話題を変える。

*このブログの人気記事 2017・11・16(8・10位に極めて珍しいものが入っています)

ジャンル:
ウェブログ
コメント (1)   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 赤尾敏、「親米反共」を説く... | トップ | 青木茂雄自伝・その1「最初... »
最近の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown ( 伴蔵)
2017-11-17 19:40:01
 鈴木邦男さんは昔、生長の家にいたので右翼の論客とされていますが、今では完全にリベラル側の人間として見られていると思います。

 また数年前、日本の右翼を強くするにはもっと共産党に頑張ってもらわなければだめだなどと書いてある本の表紙に出ていました。

 私は現在の鈴木さんは鳩山元首相のような立場・思考をしているのではないか?と思うこともあります。

コメントを投稿

コラムと名言」カテゴリの最新記事