礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

重臣暗殺とはつまらぬことをしたものである

2017-03-08 03:37:36 | コラムと名言

◎重臣暗殺とはつまらぬことをしたものである

 尾鍋輝彦著『クーデター』(一九六四、中公新書)の第四部「日本的クーデター」第二章「二‐二六事件――日本的クーデター」から、「二‐二六クーデターはなぜ挫折したか」の節を紹介している。本日は、その二回目(最後)。

 ブリュメール一八日のクーデター〔一七九九〕の本拠であるテュイルリー宮の入口は、兵士によってかためられ、総裁政府の要人の官邸も軍隊によって封鎖された。二‐二六では反乱軍の占拠した陸軍省、参謀本部、陸相官邸などは、出入りが完全に統制されておらず、敵味方がかなり自由に往来した。これによって敵味方の意識があいまいになり、団結心にヒビが入った。完全に敵であるはずの憲兵の往来が許されていたことも驚くベきことだ。これで反乱軍の刻々の動きは当局者に筒抜けとなった。
 一九六二年の韓国クーデター〔一九六一年五月の朴正煕によるクーデターのことか〕では、大統領官邸を軍隊で封鎖し、大統領を孤立させて、クーデターへの抵抗を不可能にした。二‐二六で大御心を反乱側に有利に傾かせるには、宮城を封鎖して大御心を「君側の奸」から遠ざけねばならないはずである。宮城を反乱軍弾圧論の本拠にしてはいけなかったのである。こういう大きな手落ちも、クーデターの最後の段階を政治的交渉にまかせるという手ぬるい方法からおこったものである。「大御心〈オオミココロ〉」の性格を誤認して、政治的交渉で成功すると思いこんでいたのである。
 小はストライキから大は革命まで、被支配者側の失敗の原因の一つとして、報道力、通信力における支配者側の優越がしばしばあげられる。しかるに、二‐二六反乱者は放送局、新聞社、電信電話局を占拠しなかった。新聞社に蹶起〈ケッキ〉趣意書をくばって掲載を要求したが、強制されないのに掲載するはずがない。一新聞社の輪転機に砂をかけるのは児戯に類する〔東京朝日新聞が襲撃され、活字ケースが壊されたことか。輪転機は無事だったという〕。敵側が電話で画策するのを放置したのもぬかっている。
 逆に、政府や軍部はクーデター発生の日にすでに報道機関を管制した。国民は二日間は事件の経過を知ることができなかった。やがてつたわってきたのは、戒厳司令部発表のものばかりであった。報道・通信機関の占拠・管制という蜂起の常道が実行されなかったのも、実力行動を最小限にとどめて、あとは「大御心」にまかせるという考え方から出たのであろう。
 民衆をおさえて独裁権を握ろうとするものでも、自己の行動を正当なものとして見せかけるために、民衆への宣伝工作に力をいれるものである。二‐二六反乱軍には民衆への工作がまったくなかった。この点はビラを街頭にまいた五‐一五事件よりも低調である。大詔いったん渙発されれば、忠良の民はそれに随順するとでも思いこんだのであろうか。青年将校の心情にはかねてからある程度の共感をいだいていた国民もすくなくなかったが、彼らは蹶起趣意書をすら見ることができなかったのである。
 重臣暗殺とはつまらぬことをしたものである。史上の成功したクーデターの多くは、暗殺をともなっていない。仇〈カタキ〉を消すことは、一見すると反対勢力を倒すのにもっとも近道のようであるが、それによって、非合法のためただでさえ国民の反感を買いやすい蜂起が、ますます世論の前に不利になるからである。「ダルマさん」として敬愛された高橋〔是清〕蔵相や、温厚の君子として知られた斎藤〔実〕内大臣を殺したことは、軍にたいする国民の反感を招いた。「朝敵」を倒すのであるから「忠良なる民」は賛成するとでも思ったのであろうか。不必要なテロをおこなったのは、奸賊打倒的観念にとらわれたからである。
 派はちがうが、かつては宇垣〔一茂〕をかついで裏切られ、荒木〔貞夫〕に望みを嘱して幻滅を味わった青年将校が、またまた真崎〔甚三郎〕の言を信じたのはどういうことであろう? 三月事件支援者の宇垣の真意が首相となる野心であったことがあきらかであるのに、真崎の真意もそれとおなじではないかという疑念はもたなかったであろうか。東洋的以心伝心のみで反乱を最後まで支持するものと合点したのであろうか。
 これにたいして、陸軍上層部は、二‐二六事件が国民に与えたショックを最大限に利用した。統制派は粛軍を名として皇道派を要職から遠ざけた。荒木、真崎、柳川〔平助〕、小畑〔敏四郎〕らにかわって梅津〔美治郎〕、東条〔英機〕、杉山〔元〕、小磯〔国昭〕らの時代となった。急進派―皇道派をしりぞけるのと併行して、急進派の激発を理由として陸軍の政治的要求をつぎつぎに貫徹していった。軍部と政界・財界の一体化がすすんだ。下からのファッショは二‐二六でつぶれ、上からのファッショが進行していくのである。突撃隊のレーム一派を倒して、国防軍と妥協しながら国防軍をナチス化していったヒトラーのやり口である。二‐二六事件は、新統制派にとっては、やはり「成功」であった。

 二・二六クーデターが挫折した理由を分析して、なかなか説得力がある。
 ただし、最後の「下からのファッショは二‐二六でつぶれ」という捉え方については、異論がある。青年将校の激発は、はたして「下から」の動きだったのか。また、いわゆる「皇道派」の心情は、むしろ「反ファッショ」だったのではないか。

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