礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

十一年間、五時に起き十時に伏す(栄田猛猪)

2017-04-24 04:59:03 | コラムと名言

◎十一年間、五時に起き十時に伏す(栄田猛猪)

 栄田猛猪による『大字典』の跋文を紹介している。本日は、その三回目。
 武蔵中学校国語科が作成した発行した小冊子『国語と漢字』にあるものに基づいているが、一九一七年(大正六)四月の再版(啓成社)の「跋」、および講談社の『新大字典』(一九九三)にある「跋」を参考にして、小冊子版の用字や句読点を改めている場合がある。漢字は、原則として新漢字を使用した。

 序し去り序し来る。顧みれば是等をや此事業の崎嶇〈キク〉といはゞいひなん。之を外にしては、書肆専務、印刷所主任及び余の三人が、事業の困難なると、巻帙〈カンチツ〉の尨大なると、及び進歩の遅々たるとを憂へて、幾十回となく鳩首凝議〈キュウシュギョウギ〉せしことこそありつれ、概して言えば、此事業は寧ろ単調なりき。前後十一年を通じ、五時に起き十時に臥す〈フス〉。寝ては夢み、窹めて〈サメテ〉は書く。唯矻々〈コツコツ〉として分秒だも休まざるのみ。併かも此単調の間にありて、師父の恩、知己の誼〈ヨシミ〉、親戚の情、さては弟子の愛に至るまで、予は心ゆくばかりに味ひえたるを悦ぶ。著述の経験なき一寒の書生が、心の赴くに任せて書き集めたる草稿を懐きて、徒に〈イタズラニ〉前途の遼遠なるを想望し、眼眩み、魂消えなんとする時に当り、之を憐み、之を導き、以て蘇生の思〈オモイ〉あらしめられたるは、実に余が十有余年来の恩師上田・岡田の両先生なり。本書の体裁甚だ世の字書と異り、自ら之を危ぶみ、之を惧れ〈オソレ〉し時、懇切に批評を吝まれ〈オシマレ〉ざりしは、余が最も畏敬する先輩山田孝雄〈ヨシオ〉君、同僚文学士亀田次郎君、同橋本進吉君、同学高成田忠右衛門〈タカナリタ・チュウエモン〉君、友人堀由蔵〈ホリ・ヨシゾウ〉君等なりき。又、索引に余が頭を悩ましし時、欧洲人の見地よりせる漢字索引の感想を語りて余を啓発せしはぺテログラード大学院生にして、当時我国に留学し、五段排列漢字典を撰して名ある露国人ロゼンベルク氏なりき、此長年月を通じて、荊妻を助け、寒に暑に余が健康を案じては、余が食膳を賑はしめ、事に当りて常に余を鼓舞し、余を激励し、恰も〈アタカモ〉自己の事業の如く、原稿に校正に各一頁の成る毎〈ゴト〉に余が成功を祝福せられたるは、実に心友野間清治〈ノマ・セイジ〉君と、及び君が令夫人となりき、余が終日筆を握り、気餒え〈ウエ〉胸痛み、憂鬱遣るに由なき時、忽ち来りて詩を吟じ、思を?べ〈ノベ〉、以て余を慰め、余を労り〈イタワリ〉しは、余が二十年来の心友尾崎楠馬〈クズマ〉君と、同窓近藤久吉君と愛弟子池田林儀〈シゲノリ〉氏となりき。此稿始めて印刷に附せられんとするや、字典の価値は校正に存す、校正は落葉を掃ふ〈ハラウ〉が如し、掃ふとも掃ふとも尽きざるなり。其困難他人に委ぬべからずといひて翻然〈ホンゼン〉職を京都の公署に棄て、妻子を伴ひて東上し、専ら校正を以つて己が任となし、終日終夜校正刷りに目を暴して〈サラシテ〉遂に其明を損ずる〔失明する〕に至りしは、実に余が兄濱田民之助氏なりき。大正三年〔一九一四〕十一月飯田君遂に長野県中学校教諭となりて任に諏訪に赴く。此の時印刷僅かに全編の半〈ナカバ〉なり。君が忠実なる努力を杖ともなし、柱とも頼みたる余にとりては、正に是れ屋洩りて更に連夜の雨に遭うとも謂ひつべし。此の時に方り〈アタリ〉、君に代って其労に服し、原稿整理に索引調整に予をして全く先の憂〈ウレイ〉を解かしめたるは是れ余が弟濱田楠治生なりき。花に背き、月を忘れ、衣を解かず、髪を梳らず〈クシケズラズ〉、婢となり、僕となり、或時は筆耕に、或時は字典検索掛〈ガカリ〉に、十年一日、影の形に添ふ如く、余に随ひ、余を離れざりしわが糟糠の妻が苦心も亦之れ思出の一〈ヒトツ〉ならずんばあらず。
 嗚呼。菲薄〈ヒハク〉余の如きをして、幸いに天下の書庫に一椅子を占めしめ、啓発教導、鞭撻笞撃〈ベンタツチゲキ〉、善く其方向を誤らしめず、而して能く此業を終へしめられたるは、偏へに〈ヒトエニ〉是れ上田・岡田両先生の恩蔭〈オカゲ〉なり。余をして心安らかに、体胖けく〈タイラケク〉、綽々〈シャクシャク〉として余裕あらしめしものは、飯島・飯田両君を始めとして、親戚知友の賜〈タマモノ〉ならずんばあらず。余は唯之等〈コレラ〉師友の傀儡〈カイライ〉なり。余は唯命惟従ひ〈タダメイニコレシタガイ〉たるのみ。此書若し〈モシ〉些少〈サショウ〉なりとも世に益するところあらば、皆之〈ミナコレ〉師友の恩賚〈オンライ〉に外ならず。思うて此処〈ココ〉に至れば、感激せざらんと欲すと雖得べからざるなり。【以下、次回】

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