礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

河原宏少年、学徒動員で電圧計を製造

2016-12-10 02:20:13 | コラムと名言

◎河原宏少年、学徒動員で電圧計を製造

 先日、河原宏(一九二八~二〇一二)の『日本人はなんのために働いてきたのか』(ユビキタ・スタジオ、二〇〇六)を再読した。この本は、『日本人はいつから働きすぎになったのか』(平凡社新書、二〇一四)を書いたときに参照させていただいたが、ジックリ読んだわけではなかった。あらためて読んでみて、シミジミ良い本だと感じた。また、この研究者に対し、その生前、あまり注目していなかったことを、今さらながらに悔やんだ。
 さて、今回、その『日本人はなんのために働いてきたのか』を再読してみて、最も印象に残ったのは、第四章「中学生の勤労動員――戦時下の『働くこと』」であった。少し、引用させていただきたい。

  02 中学三年生の工場労働
一日十時間、休日は月に二日
 学校は東京の西郊にある都立中学だったので、私たちは現三鷹市の無線会社で働くことになった。ここは海軍の軍需工場で、航空機に搭載する無電機を製造していた。
 会社に着くなりクラスはばらばらになり、それぞれの職場が決まった。それ以後、別の場所で別の仕事をしている級友と会う機会はほとんどなくなった。多くは遠く雕れたガラスエ場に配属された。真っ赤に溶けたガラスに管から息を吹きこみ真空管の外被を造る作業である。溶けたガラスが飛び散り、彼らはいつも腕や足に火傷を負っていた。
 私は同級生と二人、電圧計の製造部門に配属された。徴用工一人と三人一組。これで直径八センチメートルほどの二五〇ボルト電圧計を月産二百五十台造る。これは簡単には達成できない量だった。
 勤務時間は朝八時から夕方六時までの十時間。しかし作業の進捗によってはしばしば残業になり、夜九時、十時まで。徹夜残業もあった。休みは「電休日」と称する月に二日。本は読むなと言われないでも、既に疲れはてていた。
 朝の通勤電車は毎日が満員。途中駅ではほとんど乗れないほどだった。しかも十九年の秋からはB-29の爆撃が始まり、多くの人が鉄兜を背負って通勤していた。これが電車の混雑に一層輪をかける。何人もが乗れないでいると、車内から声がかかる。「もっと詰めてやれ!皆働いているんだ」。これでやっと車内にもぐりこめることになる。
 駅からは木炭バスが走っていた。ガソリンがないから木炭を燃やして走る自動車である。いつも満員で、乗ったことはない。速さは人が駆ける程度。それでもバスは苦しげに唸り〈ウナリ〉をたてていた。

作業は、部品の造り直しから
 小さな電圧計でも部品の数は驚くほど多い。太さの違う電線を巻いた幾つものコイル。大小さまざまなビス。各種の抵抗器。ベークライトの据えつけ板。軸受けと、その中に立てる軸。文字盤と時計の針に相当する指針。これらを詰めこむ黒塗りのケースと表面のガラス板。それを本体の無電機に装着するスプリングとネジ。
 これらはそれぞれ部品メーカーから納入されるが、ノルマ生産の落とし穴がある。なにしろ質より量の戦時下のこと、「一機でも多くの飛行機を戦場へ」は至上の合言葉だったから粗製濫造の品も多く、われわれの手で多くの部品を造り直す必要があった。
 送られてくる銅の電線は大抵太すぎる。それを髪の毛よりも細くしなければならない。そこで級友が大きな電圧計に電線の端を繋ぐ。五メートルほどの別の端を私が鉄のぺンチに挟んで裸足〈ハダシ〉で土の上に立つ。彼がゆっくりと電圧を上げてゆき、私はそれに応じて電線を引っぱってゆく。電気はペンチから私の体を伝って土に流れてゆく。二人の呼吸を合わせることが大事だ。引っぱるのが強すぎると電線が切れてしまう。もし彼が誤って急に電圧を上げると、実際にはなかったので分からないが、心臓麻痺にでもなるかも知れない。七、八メートルも伸ばしただろうか。電線は半分ほどの太さになって、それをコイルに巻きとる。すぐに次の電線、また同じことの繰り返し……。
 さまざまなビスもしばしば規格に合わず、旋盤で真鍮棒を削って造り直すことが多かった。ベークライトの据えつけ板も、ボール盤を使って部品を装着するための穴を開けなければならなかった。数百枚の作業をくり返すことになる。【以下、次回】

 ここには、中学校の名前も、工場の名前も書かれていない。同書の他の箇所における記述、あるいは「河原宏教授 年譜・著作目録」(河原宏編『日本思想の地平と水脈』ぺりかん社、一九九八)などによれば、河原少年が通っていたのは、都立十中であった(一九四三年六月までは府立十中)。今日の都立西高の前身である。「現三鷹市の無線会社」というのは、北多摩郡三鷹町牟礼〈ムレ〉の「日本無線」である。河原少年は、中央線吉祥寺駅から南方向に歩いて、そこに通っていたのであろう。
 詳しいことは不明だが、河原少年が日本無線で働き始めたのは、中学三年のころからで、たぶん、一九四三年(昭和一八)四月から。同年一〇月から、年間の三分の一が作業期間となり、一九四四年(昭和一九)四月からは、通年の動員となったという。

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