礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

家永三郎、美濃部達吉博士に接する

2015-06-19 04:56:11 | コラムと名言

◎家永三郎、美濃部達吉博士に接する

 断続的に、家永三郎の自伝『一歴史学者の歩み』(三省堂新書、一九六七)を紹介してきたが、本日でひと区切りつける。本日、紹介するのは、第六章「『暗い谷間の時代』の中で始まった私の研究生活」から、「近代史への関心の発生」の節の後半である(一一一~一一四ページ)。

 近代史への関心の発生 【前略】
 新潟の三年間は、とにかく私にとり貴重な経験となったとはいうものの、さきほど述べたようなよそ者として、顔のきかない不自由な生活を続けなければならないことは、苦痛であった。その上に病弱の私には、北越の気候は予想どおり耐えがたかった。私の胃腸病はだんだん悪化し、ことに食糧難になって、自分の胃腸にふさわしい食物が自由に選択できなくなってくると、苦痛はいよいよ強くなり、ついに意を決して辞表を出し、新潟高等学校を去ることとなった。昭和十八年〔一九四三〕十月、ちょうど二学期制になっていた前期の終りに、私は新潟を去って、東京に帰って来たのである。
 たまたま辻〔善之助〕先生が当時帝国学士院(今の日本学士院の前身)で『帝室制度史』の編纂を主宰しておられ、戦争中の人手不足のため編纂員がなくて困っていたところから、私に長くなくてもいいから、ここへ勤めたらどうか、と言ってくださったので、とりあえずここにごやっかいになることになった。
 ここで私は、はからずもかねて尊敬していた美濃部達吉博士と接触する機会に恵まれたのである。というのは、美濃部博士は昭和十年〔一九三五〕の迫害によっていっさいの公職を辞任されたが、ただ学士院のみは純粋な学者の集まりであるからという理由で、学士院会員のポストだけは維持しておられ、学士院の内部事業として進められていた『帝室制度史』編纂のキャップをされていたのである。多年著書を通じて深く尊敬してきたこの老碩学の主宰する仕事に従事することとなったのは、私にとって思いもかけぬ喜びであった。
 ここで私と同じく専任嘱託として編纂の実務に携わっていたのが、現在京都大学教授をしている井上清氏と、現在東京大学教授の井上光貞氏の二人である。この三人がたまたま同じ部屋で編纂のいちばん末端の仕事を仰せつかっていたのである。三人でいつごろ敗戦になるだろうかなどと話し合っていたのだから、ここは戦争中でも別世界の観があった。といっても、一歩外に出れば苛烈な戦時下の日本である。そのころは食糧難が日ごとに逼迫〈ヒッパク〉していたので、誰にとってもその日その日の食糧のことが第一の関心事であった。公爵家の御曹子の井上光貞氏にとっては、それほど痛切ではなかったに違いないが、私などは何といっても、家庭の食糧を少しでも補充することを考えなければならぬ身の上だったので、出勤するとすぐにカバンを放り出して、近くの上野の松坂屋の食堂にかけつける。ここには雑炊食堂があって、スープ同様のシャブシャブの雑炊であるが、一人一椀ずつ公定価格で食べさせてくれるのである。何百人という人たちが五階の食堂から三階まで蜿々たる列をなして順番のくるのを待っている。三時間ぐらいたってやっと一椀の雑炊にありつく。だから役所へ帰るのは、もう昼休みをとっくにすぎており、いわば雑炊食堂に行くために出勤しているかのような日もあった。こんなことは、物資が氾濫して、いたるところでうまいものが、金さえ出せばふんだんに食える現在からは、想像もできない光景であろうが、戦争世代の私たちが、このようなみじめな思い出をもっているということを、戦争体験をもたない、今の青年諸君にぜひ知ってもらいたいと思って、あえて一筆しておく次第である。
『帝室制度史』の仕事で感銘の深かったのは、美濃部博士のバーソナリティーの一端に接したことであった。先生は日本第一の憲法学者であろうが、『帝室制度史』は何といっても歴史の書物である。私たち三人の嘱託が下書した草稿を、先生がご自身の手で完全にリライトされる。ところが先生のリライトされた文章を見ると、歴史的な述語の使用、その他において、歴史専門の私たちの目から見ると、いささかどうかと思われるような箇所がおりおり見出されるので、ここはやはりこうなさったらいかがですかということをいくら言っても、ひとたび先生がリライトされてしまうと、断乎として修正に同意されないのである。私は、昭和十年の天皇機関説問題で先生が迫害の嵐の中に立たれたとき、『東京日日新聞』の紙上に紹介された談話の中で、「いかなる迫害があろうとも、私の学説は変革修正することは出来ぬ。私は自分の学説に対して一歩たりとも退くことは出来ない」と語られたのを読み、深い感銘を受けたことがあるが、このような態度をとられたのが、先生がその信念に忠実であったからというばかりでなく、このような性格上の一徹さによってもささえられていたのであるということを初めて知ることができて、たいへん興味深く思った次第である。戦時下、無職でまごまごしていれば徴用されかねない時勢に、こういうところに入れていただいたことを考えれば、本来もう少しこの仕事に長くご奉公すべきであったが、翌十九年、私は東京高等範学校から招きを受けて、わずか半年でここを去り、高等師範学校教授の職に就くこととなった。

 文中に、「公爵家の御曹子の井上光貞氏」とあるが、歴史学者・井上光貞の父は、桂太郎の三男・井上三郎、母は、井上馨の長女・千代子であった。

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