礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

日本の文章は和漢混淆の変体物(原敬「漢字減少論」)

2013-05-13 05:34:12 | 日記

◎日本の文章は和漢混淆の変体物(原敬「漢字減少論」)

 一昨日からの続きである。原敬が、大阪毎日新聞の記者時代に発表した「漢字減少論」(一九〇〇)である。出典は、改造社の現代日本文学全集『新聞文学集』(一九三一)。本日紹介するのは、「漢字の使用」という項の前半である。

 漢字の使用
 漢字は文字〈モンジ〉だけ日本〈ニホン〉に輸入したる訳ではない。儒教の伝来と共に日本に輸入したるものであるが、その後漢字を以て翻訳したる仏教が輸入したから、丁度儒仏の二教が相扶けて漢字の使用を全国に伝播〈デンパ〉せしめたのである。その事実はいふまでもなく歴史上明瞭の事柄である。和学者の説によれば、日本に固有の文字があつたと称して居る。有つたでもあらう、シカシその文字はドウいふものであつたであらうか、今日和学者の唱へて居る所の説には疑ひなきを得ざることが多い。但しその詮議は本論に必要がないから姑く〈シバラク〉これを措て、兎に角〈トニカク〉固有の文字があつてその文字がドンナ文字〈モジ〉であつたにもせよ、漢字に比較しては誠に〈マコトニ〉発達せざる文字であったに相違ない。而して優勝劣敗の結果漢字のためにその文字が社会より掃蕩されて、社会に痕跡を留むることが出来得ざるやうになつたといふ事は疑なき事実であらう。
 シカシながら自国の言語といふものは、他国の言語のために全然消滅するものではない。また自国の言語といふものは他国の言語を以て完全に翻訳し得らるゝものでもない。これ殆んど何れの国の事情に徴しても明かなることである。故に漢字の勢力は実に〈ジツニ〉旺盛なるものであつたであらう、漢字でなければ何事を記載しても明瞭でない。漢語を使用しなければ何事をいうても野卑たることを免れ〈マヌカレ〉ない、といふやうな感じが一般に起つて、漢字の根柢をますます深からしめたに相違ない。さりながら日本文を尽く漢文にすることも出来なかつたのであるし、また日本語を尽く漢語とすることも出来得なかつたのである。これ畢竟〈ヒッキョウ〉漢字なるものは他国の文字言語であるから、到底日本の言語文章を全く一変することは出来得なかつたのに外ならぬ。斯様な〈カヨウナ〉次第であるから、日本の言語といふものも、文章といふものも、純然たる日本語でもなければ純然たる日本文でもないが、さりとて純然たる漢語でもなければ純然たる漢文でもない。而してその結果は和漢混淆〈コンコウ〉の変体物〈ヘンタイブツ〉を生じたる訳である。然るにこの変体物は年を経る〈フル〉に従つてますます変体となり、漢字ばかり羅列したる文章は、一見すれば漢文の如くであるが、その実漢文とは殆んど縁のない文章が多い。【以下は明日】

 改造社の現代日本文学全集は、総ルビに近いので、当時の漢字の読みを知るためには、興味深い資料である。しかも、この「漢字減少論」この文章は、講演の速記録であるというから、その意味でも貴重な資料と言える。ただし、速記者が、原敬の発音を正確に記録しているかどうか、現代日本文学全集の編集者が、速記録の通りルビを振っているかどうかは不明である。
 上記で言えば、文字という言葉は、〈モンジ〉と〈モジ〉の二通りのルビがある。前者が圧倒的に多いが、この使い分けに意味があるのかどうかは、ハッキリしない。

今日の名言 2013・5・13

◎畢竟漢字なるものは他国の文字言語である

 原敬の言葉。「漢字減少論」(1900)より。上記コラム参照。

コメント (1)
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