礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

家族の将来に関する80年前の予言

2013-03-09 23:55:16 | 日記

◎家族の将来に関する80年前の予言

 高田保馬の『社会雑記』(日本評論社、一九二九)という本を読んでいたら、こんなことが書いてあった。八〇年以上前の本だが、家族の将来に関する、この予言は当たっている。さすがは、社会学者である。
 本日は都合で、この文章の紹介のみ(2013・3・9)。

 私の友人が神戸の川崎造船所に勤めて居りますが、この人が一昨年会ひました時に申しますのに、自分は学校を出てから十数年になるけれども、自分はつくづく自分の子供の顔を見ることはない。朝出勤する時はまだ子供は起きて居ないし、晩返つて来ると、もう寝てしまつて居る。たまさか日曜日に子供を連れて外出しやうと思ふと、この叔父ちやんとはゆかないと云ふ。どうも困つたものだと申して居りましたが、今日の分業制度と云ふものゝ結果は当然に起るのである。其点に関しましてしもう少しく論を進めてゆきます。この分業と云ふものが発達して参りますれば参ります程、家の中の仕事は乏しくなり、洗濯や入浴等は固より〈モトヨリ〉、甚だしきは自分の家で御飯を炊く事すらしなくなる。現に一昨年京都でありましたか、その計画を樹てたものもあつた。或は多数の来客あれば、之を総て料理屋へ頼むと云ふ風に、自分の家での仕事は益々減り、仕事として唯子供を育てると云ふだけとなり易い。自分の家に於て飯を一緒に食べると云ふ事すらしなくなつてしまふが、その根本に一つの事実がある事を忘れてはならない。幾ら以上の如き事柄が進んで行つても、男子が外に出て働く事に依つて収入を得る。その収入を以て家族の者を育てゆくと云ふ事である。言ひ換へれば、家族は最早今日に於ては、昔の如く生産の事柄を同じくする所の生産団体ではなくなつたのであります。消費を共にする所の消費の団体と云ふ性質も薄くなりつゝある。たゞ夫が外部に於て働き収入を得て来る事に依つて家族を養ふ。この点にのみ、先刻申しました、女子に依つて男子が征服されたと云ふ、家族の本質が残つて居るのであります。所が総ての社会の結び付きと云ふものは、その働き即ちその社会の営みまする、機能が薄らぐに連れて弛みて参ります。昔の大家族の機能と云ふものが亡びずにあつたならば、その家族の団結と云ふものは弛まない。家族の人が相接蝕する機会も多く、総て人は相〈アイ〉接すれば情自ら生ずと申しますが、この家族も亦然り〈しかり〉。この家族の者が起居を共にする機会が乏しくなりますと、つまり、親と子、又はその母との間に於ても、関係が決して円満にゆくとは云へませぬ。兄弟の間に於ても亦然り。この大勢がずんずんと進んでゆきますれば、恐らく今日の小家族と云ふものゝ将来は、益々小さく、益々その薄弱さを加へてゆかないと、誰が断言し得るものぞ。これが私の考へざるを得ない第一の疑問点である。

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