礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

調布の一住民が回想した関東大震災

2013-01-18 05:22:47 | 日記

◎調布の一住民が回想した関東大震災

 関東大震災関係の話題を続ける。
 東京・調布市布田〈フダ〉の竹内武雄さんが書いた『郷土の七十年』(啓明出版、一九七九)という本がある。そこに、関東大震災の体験を回想した「大震災と災害」という文章が収められているので、これを何回かにわけて紹介したい。なお当時の布田は、東京府北多摩郡調布町布田である。

 大震災と災害
 昭和五十三年六月十二日(月)午后五時十五分、宮城県に震度5の地震があり、仙台市などかなりの被害があったと報ぜられた。震度5だからたいした事はないだろう、津波の被害もないそうだから心配する程ではなかろうと思ったが、次ぎ次ぎに報ぜられる仙台市の被害は相当らしい。つぶれたり傾いた鉄筋コンクリートの建物がテレビに映し出された。立派なコンクリートの建物も案外もろいものだと思った。
 若し大正十二年の関東大地震のような震度六程度のが襲ったら想像以上の被害が出るだろう。これはよそごとでない。何時起こるかも知れない現実の問題である。
 鉄とコンクリートと硝子の高層建築と自動車の洪水、石油化学製品のはんらん等、今の都会は大正時代の都会と比較にならないと思うが、それだけに現在の都市に大地震が起ったらどんな事になるか予想出来ない。
 そんな訳で昔の経験など参考にもならないが、大正十二年九月一日の関東大震災の体験を述べて見たい。私は当時二十一才の青年で上布田に住んでいた。
 大地震当日の九月一日は雨あがりのむし暑いひと雨ありそうないやな天気だった。親爺の用件で、ひる前、下駄ばきで雨傘を持って電車で笹塚の京王本社へ行った。京王本社と言ってもトタン葺きの平家でバラック同然のひどい建物だった。受付の事務員に払込用紙と金額を添えて渡すと南の方からゴーッと大風が吹き荒れるような響きがした。何だろうと思う間もなく小きざみな地震に続いて横ゆれの地震がだんだん大きくなってきた。「これは大きいぞ」と外へ跳び出した。
 そこは三十坪ばかりの空地で南端に大谷石〈オオヤイシ〉の倉庫があった。大きなヒビ割れで口があいたりとぢたりしたが倒れなかった。四十才の奥さんが四ツん這いになっているので倉庫から早く離れるよう注意した。そのうち静まったがゆり返しが来ると言うので皆安全な所へのがれた。間もなく第二震がやってきた。一震より幾分大きかったように感じた。会社の係員が「後日にして下さい」と書類も金も返してくれたので笹塚駅へ行ってみた。“調布へ電車が出ますか”と聞いたら、“一寸待って下さい”と駅員が言いながら線路を見て「駄目です、レールがあんなに曲ってしまったから当分電車は出ません。」と言う。余震がひっきりなしに来る。これから下駄ばきで調布まで歩いて帰えるのも大変だと思い、自転車で帰ろうと街道筋の自転車屋を次々と聞いたが何処も売ってくれない。乗れゝば古くてもいゝからと頼んでも売ってくれない。こうなると自転車が唯一の乗りものだと知ってどこも売ってくれない。仕方ないので甲州街道を歩いて帰ることにした。時折大きな余震がくる。道ばたの横たわった電柱へまたがってる人達もいた。
 東京の方へ自転車で走る人達が続いてゆく。街道の両側も傾いた家は多く、瓦は殆んど落ちたがつぶれた家は見なかった。当時は草葺きかブリキ屋根の平家〈ヒラヤ〉が多く、二階家〈ニカイヤ〉などポツンポツンだから倒れもしなかった。
 五分か十分おきに余震があったが街道に出て不安そうに東京の方を見ている人も多かった。東京の空は太陽の光で輝いた入道雲が空高くもくもくとゆるやかに拡がっていった。
 この辺は地盤がいいのか地割れは見なかった。給田〈キュウデン〉の坂下の橋が崩れ落ちて車は通れないが脇の細く残った処があって歩行には差支えなかった。
 畑の傍の肥料溜〈コエダメ〉など半分以上もハネ上げられているのを見たがひどいゆれだったと思った。
 私の住居は元布田郵便局舎の古い家を引移した〈ヒキウツシタ〉ので、トタン葺〈ブキ〉平家の低い家で、ブドー園の住宅地事務所と上布田青年会事務所となっていた。私一人住いで事務室の板の間にあるセトの大きな火鉢が倒れて火事になりはしないかと心配しながら急いで帰ったが、火鉢が倒れると掛けておいた鉄びんの湯で火は消えていたので安心した。棚のものは全部落ちて壁も少し崩れた。戸や障子は立てつけがわるくなったが住むには差支えなかった。
 東京の方を見ると入道雲が夕陽に赤く映え、火事の為か益々高く拡がっている。幸い調布町では火事は起こらなかった。電柱など殆んど傾いたが倒れたのは見なかった。余震も何回となく続くし、倒れた家財道具の片付けで他家へ見舞いにゆくひまもなかった。当時は水道も瓦斯〈ガス〉もなく皆堀井戸〈ホリイド〉で水は少しにごったが差支えなく使えた。堀井戸は丈夫で何処のも崩れなかった。
 停電で当分は電灯もつかなかったが、電気製品は何もない頃だから、家庭ではローソクやランプで夜を過ごした。水は井戸、燃料は薪炭だから生活にはさほど困らなかった。
 夜は竹林や裏の樹の間へ蚊帳〈カヤ〉を吊ってまっくらな中で女や子供を寝かせ、男は徹夜で警戒に当たった。
 焼け出された人々が足を曳きずって風呂敷き包を背負ったり黒い顔した子供を連れて悲惨な姿で延々と西へ続く。軒先きへ湯茶の用意などした親切な家もあった。
 夜の更けるに従って東京の空は物凄かった。一面真赤な火でこのあたりまで明るいように感じた。メラメラと炎が見えた、時折火の粉が高く舞い上った。品川、川崎方面は時々爆発音が響き一晩中燃え続けた。
 恐怖の一夜が明けて、九月二日になると朝からにぎりめしを持って、自転車で神田の知人塚田さんを見舞いに出掛けた。
 親戚、知人をたよってゆくのか街道を西へ西へと避難の人々がひっきりなしに続いている。四谷見付の陸橋を渡って麹町まで行くと警官がこゝから先きは未だ焼けているから通行止めとのことで止むなくそのまゝ自転車で引返えした。家へ戻ると町中が大変な騒ぎだ。暴徒が来ると言ううわさが何処からともなく広まり、新聞は出ないし勿論ラジオのない頃だし、人から人への口伝えで、ありもしない事も針小棒大に騒がれる。【以下は明日】

 竹内武雄さんの『郷土の七十年』には、新宿や四谷に、「オワイ」(肥え)を汲みにいった話も出てくるので、実家が農家であることはまちがいないが、大震災当時のお仕事などは不明。なお、『郷土の七十年』出版当時の竹内さんの肩書は「調布史談会会員」である。
 上に引用した部分を読むと、コエダメの中味が半分以上はねあげられているといった観察があってリアルである。また、地震発生と同時に、自転車屋が自転車を売り惜しんだなどという話もあって興味がつきない。 

今日の名言 2013・1・18

◎街道を西へ西へと避難の人々がひっきりなしに続いている

 竹内武雄さんの言葉。『郷土の七十年』(啓明出版、1979)の79ページより。関東大震災発生の翌日の様子。上記コラム参照。ここで「街道」というのは甲州街道のことである。

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