畑ニ居リマス・田舎暮らしPHOTO日記

畑のかえるくんの楽しい日記です。

呉の旅(2日目)②武智丸・安浦漁港

2018年03月23日 | べんちゃん






以下wikiより。
武智丸(たけちまる)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)中の日本で戦時標準船E型に準じてコンクリート船として竣工した大日本帝国海軍所属の貨物船で、EC型戦時標準船とも呼ばれる。同型船4隻が作られたが、うち2隻の船体が広島県呉市安浦町の安浦漁港の防波堤として現存している。
(略)
戦後・・・第一武智丸はエンジン故障で呉市警固屋付近で放置。第二武智丸はどうやら使用可能であったため大阪商船が払い下げを受けたがまもなく廃船となった。
おりしも広島県の安浦漁港が防波堤がなく、1945年9月に来襲した枕崎台風をはじめ台風襲来のたび、漁船等に被害を被っていた。安浦漁協側は県当局に防波堤設置を陳情したが、安浦漁港沖合いの海底が軟弱地盤のため、当時の土木技術では建設に巨費がかかると県当局側は難色をしめした。代案として、呉港の第一武智丸と、大阪港の第二武智丸の二隻を防波堤として転用することになった。 1947年に大蔵省から船体の払い下げを受け、1949年(昭和24年)に基礎工事を開始した。まず海底の泥を浚渫し・・・「第一武智丸」と「第二武智丸」の船尾同士を繋げる形で位置を決めた。沈設は満潮時を待って行われた。スクリューシャフトを抜き、また船体底部数箇所に穴を開け海水を船内に入れ2隻を沈めた。そののち船体両側に捨石をおくなどして船体を固定し1950年2月に完成した。
・・・二隻は上部構造物がほぼそのまま残されていたが、朝鮮戦争特需でスクラップ価格が高騰していた頃に金属製構造物の大半は持ち去られ、現在あるコンクリート船体のみの姿になった。わずかに船首部の錨巻上げ部付近のコンクリ埋め込み金具などが残されている。溶接跡は非熟練工によると思われるものであり、当時の勤労動員者もしくは学徒の手になると推測される。
船首左舷には「第一武智丸」の船名が白く大書されていたが、現在は塗料が剥落し判読は難しくなっている。21世紀の現在もなお、武智丸は安浦漁港を守る防波堤として現存している。陸側の「第一武智丸」は沈設から60年以上を経て主に船首部が甲板まで沈下しているが、沖側の「第二武智丸」はほぼ沈設当時の位置にある。

呉の旅(2日目)① 安浦海兵団

2018年03月18日 | べんちゃん
軍人履歴によると、父は昭和19年5月25日から三月半を大竹海兵団で過ごしたのち、9月10日、安浦海兵団に入団している。
この時、二等水兵から一等水兵に昇進している。

ホテルを出て予約のレンタカー営業所でフィットを借りる。
用事があって市役所に。


市役所を出て大きな新しいトンネルを抜け、阿賀、広と聞いたことのある土地を東へ向かう。
コンビナートの煙突やクレーンが再々目に入る。
二方辺りになると工場が少なくなり、海辺が見えてくる。
安浦の駅前に到着。
大竹と違って、この町は漁村の趣が残っていた。


海兵団の碑。
庁舎的な中心的な建造物があったらしい。
宿舎や訓練施設はもっと南の浜にかけてあったという話しを聞いた。
中学校及びその周辺とのブログ記事もあった。
いずれにせよ、父は9月10日から11月5日の日向に乗るまでの約50日余りをこの地で過ごした。









呉の旅(1日目)③ 大竹海兵団(後)/潜水学校、引揚港と援護局

2018年03月16日 | べんちゃん
駅に降り立ち改札を出たが、74年前の5月、19の父もこの改札を通ったのだと思った。
駅付近は商店が建て込んでいたが南に歩くと住宅が増え、だんだんとコンビナートの工場群が見えてきた。
父がこの風景を見たらどう言うだろうかと思った。

大竹は小さな町だが戦中から戦後にかけて歴史の表舞台だった。
わたしは訪れて初めてそのことがよく理解できた。

海兵団の東に大竹海軍潜水学校が隣接していた(観光列車さんのサイトから)。


希少資料艦艇研究所さんのサイト、海軍潜水学校から。




戦後は海兵団と港は引揚援護局の施設として活用された。




今日の記事は、「京急株主の生活日記」「観光列車から!日々の利用の乗り物まで」、「gooいまトピ」「70年前の日本 DDT散布、やらせシーン?謎の顔面アップ…昭和21年の復員兵たちを映した動画が興味深い」、から写真などを引用させていただきました。

呉の旅(1日目)③大竹海兵団(中)

2018年03月14日 | べんちゃん
大竹駅を降りる際、駅員に海兵団の位置を聞いてみたがわからないとのことで、旅行案内の窓口もなく西側ロータリーの一角の店で聞いてみた。
すると、その隣の店のご主人が詳しいと案内してくださった。
そのお隣りのご主人に道順を教えてもらい、行ったり来たりしながら、またスマホを見たりしながら歩いた。
途中、民家の庭につぼみをつけたユキヤナギがあった。
父親がユキヤナギが好きだと言っていたという叔母の話を思い出した。

20分ほど歩いて、前の記事に書いた工場内の記念碑の前に立つのだが、門衛の人が、
「あれが元烹炊所の建物ですよ」と教えてくれた。
が、写真撮影は総務の許可をもらわなければいけないのでと断られた。
工場構内にある数か所の海兵団遺構写真のパンフレットも見せてもらったが、写真撮影は同様の理由で許されなかった。

駅に帰り、道を教えてもらった店の人にお礼を言いに行ったら、海兵団の勤務心得と、3階建て庁舎・正門などの写真(写真はがきのコピーではないか)を見せてもらった。



これは体育館にあった海兵団内の施設位置図だ(ブログ京急株主の生活日記より引用)。

吊り床を吊って、総員起こしのラッパで始まり巡検で終わる寝起きの生活を3か月余り。
叩かれたこともあったろう、泣きたい夜もあったろう、死を覚悟した瞬間があったかもしれない。
74年前の19の父とわたしの19の青春のあまりにも大きな差・・・。

それから、図書館に行ってみたが、特に目に留まるものはなかった。
ただ日暮れ近い街を歩いたことが良かった。
駅舎や線路や山、海、島などの地形、また気候などの特徴がわかったからだ。

この項目は、特にブログ京急株主の生活日記を参考にさせてもらいました。
写真のコピーもさせていただいたので、この場を借りておことわりとお礼申し上げます。
ありがとうございました。

呉の旅(1日目)③大竹海兵団(前)

2018年03月13日 | べんちゃん
厚労省で調べた軍人履歴によると、父親が大竹海兵団に入団したのは昭和19年5月25日である。
記事欄には「海軍2等水兵ヲ命ズ」と記載されている。
同年9月10日に所轄が安浦海兵団となり「海軍1等水兵ヲ名ズ」の記事が添えられている。
したがって、19歳の春の終わりから秋の始まりまでの約3か月半の間、大竹海兵団の地で過ごしたことになる。
国土地理院のサイトから加筆したもので、中央の右上がりの潜水艦水路施設から下が海兵団。


工場の総務に許可を得て、記念碑を撮影させてもらった。








烹炊所の建物が工場入り口事務所の西側30メートルあたりにあった。
一番上の写真でみるとどこなのか確定できない。

以下wikiより部分引用。
呉鎮守府管轄の海兵団
・呉海兵団
(略)
・大竹海兵団
昭和16年11月20日広島県佐伯郡大竹町に「呉第二海兵団」設置、昭和19年1月4日改称。戦後は引揚援護局を経て大竹港の港湾施設に転用(※)。
・安浦海兵団
昭和19年9月1日広島県賀茂郡安浦町に設置。
戦後は安浦中学校や住宅地・農地に転用。

以下はawakin.blogの記録、awakinさん、引用させていただきました。
※下線部は、戦後の引揚援護局を引き継ぎ、昭和36年までは(進駐軍)接収地・・・との指摘がある。
広島今昔 / 大竹から戦争が見える vol.3の文中に「昭和37年(進駐軍接収地の返還が行われた年の翌年)」、「英連邦軍の駐留地」の語句があった。
なお一番上の写真は、同ブログvol.2の「昭和22年9月23日に米軍が撮影した大竹の航空写真」から作成したものである。

呉の旅(1日目) ②日銀旧広島支店

2018年03月12日 | べんちゃん

頼山陽史跡資料館の西隣に、旧日本銀行広島支店があった。
地下で「広島平和記念資料館収蔵資料展(原爆の絵・被爆資料)」が開催されていた。

以下wikiを参考に。
かつて水主町にあった日銀営業所を業務拡大に伴い、1936年(昭和11年)9月にこの地に移転。
1992年(平成4年)3月中区基町に移転するまで使用された。
原爆で倒壊を免れた被爆建物の一つ、爆心地から380mという近距離であったが耐えた。
現存する被爆建物の中でも抜群に保存状態がよい。


2000年(平成12年)7月、市指定重要文化財に指定、日銀から市へ無償貸与された。
2001年以降、市によってギャラリーとして暫定使用しながら、国の重要文化財指定を目指して被爆の跡を残しつつ竣工当時の姿に復元および耐震工事を進めている。
常時開館しており屋内を見学できる。



このあと広島駅に戻り大竹に。

呉の旅(1日目)①頼山陽史跡資料館

2018年03月09日 | べんちゃん
父親の19、20の頃を過ごした広島の大竹、安浦、呉を3泊4日で旅した。
今日はその初日、最初に訪ねた頼山陽の記念館。

国史跡「頼山陽居室」


wikiよりまとめる
頼山陽(らいさんよう 安永9年12月27日(1781年1月21日)~天保3年9月23日(1832年10月16日)①)。
大坂生まれの江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人、幼名久太郎(ひさたろう)、名は襄(のぼる)、字は子成、山陽、三十六峯外史と号、主著『日本外史』は幕末の尊皇攘夷運動に大きな影響。

父の頼春水は若くして詩文や書に秀で、大坂へ遊学し朱子学研究を進め、江戸堀北(大阪市西区江戸堀付近)に私塾「青山社」を開き、多くの文人や学者とかかわる。山陽はこの地で誕生、母は飯岡義斎の長女で歌人の頼梅颸②。
天明元年(1781年)、父が広島藩学問所創設の際に登用され転居、袋町(広島市中区袋町)③で育つ。
山陽も父と同じく詩文の才あり歴史に深い興味を示す。
天明8年(1788年)、広島藩学問所(現修道中学、高校)に入学。
その後春水が江戸在勤となったため学問所教官を務めていた叔父の頼杏坪に学び、寛政9年(1797年)には江戸遊学し、父学友・尾藤二洲に師事。
帰国後の寛政12年(1800年)9月、突如脱藩を企て上洛するも叔父杏坪によって連れ戻され廃嫡のうえ自宅へ幽閉。3年の間著述に明け暮れ『日本外史』の初稿が完成。
文化2年(1809年)謹慎を解かれ広島藩学問所の助教に就任。
文化6年(1809年)に父の友人であった儒学者の菅茶山の廉塾④の都講(塾頭)に就任。
文化8年(1811年)学者としての名声を天下に轟かせたいとの思いから再び京都へ出奔、開塾。
文化13年(1816年)、父春水が死去するとその遺稿をまとめ『春水遺稿』として上梓。
翌々年(1818年)には九州旅行、広瀬淡窓らの知遇を得る。
文政5年(1822年)上京区三本木に東山を眺望できる屋敷を構え「水西荘」と名付ける。
文政9年(1826年)には『日本外史』⑤が完成。
文政10年(1827年)には老中松平定信⑥に献上。
文政11年(1828年)には文房を造営し以前の屋敷の名前をとって「山紫水明処」とした。集まった京坂の文人は、父春水とも関係があった木村蒹葭堂と交友した人々の子であることが多く、大阪の儒者篠崎三島の養子小竹、京都の蘭医小石元俊の子元瑞、大阪の南画家岡田米山人の子半江、京都の浦上玉堂の子春琴、岡山の武元登々庵、さらに僧雲華、仙台出身で長崎帰りの文人画家菅井梅関、尾張出身の南画家中林竹洞、やや年長の先輩格として陶工青木木米、幕末の三筆として名高い貫名菘翁、そして遠く九州から文人画家田能村竹田も加わり、彼らは詩文書画を競った。この他にも⑦。
その後も『日本政記』『通議』などの完成を急いだ。
天保年間に入った51歳ごろから喀血があり、天保3年(1832年)に死去、享年53。
山田風太郎著『人間臨終図鑑』によれば、筆を離したのは実に息を引き取る数分前であり死顔には眼鏡がかかっていたという。
また、遺稿とされる『南北朝正閏論』の自序にこれを書く決意をしたのは9月12日の夜(死の10日前)と記す。
最初の妻との子長男が頼聿庵、京都で生まれた2人の子次男が頼支峰と三男が頼三樹三郎。




『史記』は「十二本紀・十表・八書・三十世家・七十列伝」の全百三十巻から成るが、頼山陽はこれを模倣して「三紀・五書・九議・十三世家・二十三策」の著述構想を立てている。
『史記』にあっては真骨頂というべき「列伝」に該当するものがないが前記の十三世家にあたる『日本外史』(全二十二巻)が列伝体で叙せられ、『史記』の「列伝」を兼ねたものと見ることもできる。
『日本外史』は武家の時代史で、簡明な叙述であり、情熱的な文章であった為に広く愛読された。参考史料として軍記物語なども用いているため、歴史的事実に忠実であるとは言いがたい記事も散見⑧する。言い換えれば、史伝小説の源流の一つとも言い得る。ただし簡明であるがゆえに巷間で広く読まれ、幕末・明治維新から、昭和戦前期まで、広く影響を与えた。

なお山陽は詩吟・剣舞でも馴染み深い「鞭声粛粛夜河を過る~」で始まる川中島の戦いを描いた漢詩『題不識庵撃機山図』の作者としても有名、同作品は死後刊行された『山陽詩鈔』(全8巻)に。
ほか、古代から織豊時代までの歴史事件を歌謡風に詠じた『日本楽府』(全1巻)あり、易姓革命による秦、漢に代表される中華王朝の傾きに対比して、本朝の皇統の一貫に基づく国体の精華を強調している。

①西暦と年号など覚えていれば理解が早いのに勉強不足で残念、旧暦と新暦の月日が異なるのが新鮮。
②文人の家系なのだと。
③こちらに頼山陽史跡資料館。
④福山市神辺、記念館あり。
⑤これが何といっても山陽の最大業績、だが今はそれほどの注目を浴びることはない、まったく過去の思想家。この注目されない山陽に目を向ける、これが旅の目的、楽しさである。
⑥禁書にされないようまず定信に献上し許しを得るねらいがあったとのこと。
⑦記念館では、これよりも前(たぶん広島時代)に古川古松軒との交流ありと紹介。
⑧記念館では、山陽は細部は歴史考証の得意な学者に任せ、自分は概略を書き記すことに徹するとあった。