あさがた日記

静かな朝は、私だけの時間。

ボアアップ

2010年02月10日 | 思い出日記
たしか、こんなふうに言っていたと思う。

なんとエンジンのシリンダーの内面を削り、排気量をアップすること。

ボアアップ・・・?

エンジンの出力性能試験の実習室(私は機械科だった)で、隣のやつとさかんに議論した(?)思い出がある。

そのうちカワサキSS250所有(当時の校則では125以下)になったが、幼なじみの先輩のバイクは、その頃スズキバンバン50。

それをボアアップしたら、馬力が出たというのだ。

「これもそーすれば、いいんだべじゃ。」

だがやつの意見は、それだとキャブレーターとのバランスが崩れて云々・・・だったかな?

チューンナップと称して、いずれみんなしていじくりまわしたものだ。

当時私の愛機ヤマハHS90(校則順守。そのうち350を手に入れた)も、自分でシリンダヘッドを外し内面を削った。

紙やすりで(笑)

その先輩も、最初カーボンを取り除く(つまり掃除)ために研磨したらしいが。

「もう、ばんばんずで〜」(ガンガン走るようになった)と聞いた私は、真に受けたのかもしれなかった。

そのバイクの愛称も、スズキバンバンだった(笑)

当時私らは、ともかく速く走ればよかったのだ。

同級生には750(もちろんいけない)をもっているやつら(実は、いっぱいいた)がいて、夜な夜なロードレースをやっていた。

私は見に行っただけだが。

そいつらは、ふだんはどちらも見た目おとなし〜いやつら。

が、バイクにまたがると変身した。

まるでまんがの亀有に出てくる、ホンダさんみたいな感じ。

真っ暗な県道(当時はほとんど車の往来がなかった)で、ドラッグレース。

ライトに照らされみるみる遠ざかる750。

その2台の後を、あわてて追いかけた記憶がある。

彼らは、一種独特の雰囲気があった。

ひとりはガソリンスタンド店員、ひとりは自動車部品卸販売店に勤務したが、その後はわからない。

いずれその一方のやつと、私は議論していたのだった。

成人したあと、私が750のバイクを買ったのも、彼らの影響が大きかった。

それで、北海道を流れあるいたのだった。

やつらに追い付きたくて。

黒ぶちの眼鏡をかけて、熱く語るやつだった。

今はどこにいるかわからない。

もう、まったく乗ることもないバイクを見るたび思い出す

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ホンダZ

2010年02月09日 | 思い出日記
中古だったが、私は10代で車のオーナーだった(笑)

その車は、ホンダZというやつだった。

それも空冷エンジン(笑)

360ccのエンジンは、つまり早い話がオートバイだった。

その前(というか同時に持っていたが)に乗りまわしていたのが排気量350ccのバイクだったので、いくらも違わなかった気がする。

だから、家族4人(おふくろさんと妹弟)を乗せると、急な坂は登るのがやっとだった(笑)

ホンダさんの名誉のために言うと、たぶん私の車だけの現象だったろう。

そうとうヘタったエンジンだったのではなかったか。

だから私(おふくろさんにも手伝ってもらったと思う)にも買えた。

水沢の自動車販売店から、叔父(当時水沢の国道管理事務所にいた)を頼って手に入れていたのだった。

まぁー、初心者マークだからこれぐらいでいーだろーという感じではなかったか。

「安全運転だぞ」

叔父貴には、念を押された(笑)

しかし私は有頂天だった。

それでもって、あちこち出歩いたものだった。

そして颯爽と無線機を取り付けていた、はず。

コールサインをリヤウインドにでかでかと貼り付けていた、と思う。

8トラカセットのカーステレオでいつも岩崎宏美を聴いていたので、もしかすると無線機を取り付けたのはずっと後かもしれない。

いずれ、そのホンダZも無線機同様相当いじくりまわしたものだった。

キャブレーターは、ツインで高性能とされていた。

が、バランスが崩れていたらしい。

休日はいつもバラして調整に余念がなかった。

そのうちナット1個シリンダーの中に吸い込まれてしまった。

カラカラカラッ!と音がした。

いっしょにいた友人が「マフラーから出てくるんじゃねーか?」と言った。

今考えれば、そんなことあるはずない。(←あるか?)

たぶんピストンに突き刺さったか、めり込んでしまったのだろう。

さんざんいじくりまわして、その後なんと正面衝突で大破。

彼(ホンダZ)の一生は終わった。

私はひたいを切って、免許停止・・・だったと思う。

まだ二十歳前だった

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Eスポ

2010年02月08日 | 思い出日記
スポラディックE層のことを、Eスポと呼んだ。

スポラディックE層とは、突発的に発生する特殊な電離層のこと。

それで本来電離層反射が起きないはずのVHF帯で、反射が起きて遠距離通信が可能になった。

夏によく起きた。

当時はふつうに起こった。(というより、今はやっていないのでわからない)

いちばん記憶に残っているのは、市内から大阪と交信できたことだった。

ハンディー機の、それもロッドアンテナだった。

周波数は、たしか50MHz帯だったと思う。

そういえば、当時50MHzは入門バンドだったと聞いたような気がする。

しかし当時はガラ空きで、広いバンド内に交信している局はほとんど(というかまったく)いなかった。

この50MHz帯で、ドラム缶いっぱいのQSLを交換したという先輩がいた。

記憶にあるのは、その先輩から借りた50MHzのハンディー機(自衛隊の移動無線機ぐらいの大きさだったと思う)をビルの屋上に持って行ったということ。

私は半そでで、夕方の生温かい風がながれていた。

とつぜんJA3(関西)のコールサインが聞こえ始めた。

女性の局で、だれか近辺の方とローカルな話をされていたと思う。

二人の交信が終わると同時に、夢中でコール(呼ぶ)した。

私の東北コールを聞いて、少しびっくりされたようだったが「Eスポや、おまへんかぁ〜(←ちょっとちがうか)」という感じだったと思う。

あとで送られてきたQSLカード(交信証)には、無線機の前に座るきれいなおねーさんの写真が印刷されていた。

大切にしていたと思うが、どこいったんだろ?

しかしその後、144MHz帯でもたびたびEスポが発生したが、却ってじゃまに感じるようになったりした。

自分たちの会話のほうが大事だったからだ。

が、最初のころのそのときはもう感動感動だった。

純粋に、遠くと交信したいというアマチュア無線家本来の姿だったからだろう。

そのうち、仲間内の話題にばかり気を取られるようになっていった。

CB無線(ほとんど短波帯)のときも、場合によっては1000キロ以上離れた局と交信ができると聞いていたりしたが、実際は交信したことはなかった。

その後無線機は、遠距離通信にはあまり興味がなくなった私には、仲間内の会話だけに使われるただの通信手段になってしまったような気がする。

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初交信

2010年02月07日 | 思い出日記
初めてというものは、なんでも記憶に残っているものらしい。

が、私のアマチュア無線初交信は、あまり記憶にない。

たぶん、CB無線で遊んでたので、新鮮味がなかったのかもしれない。

同棲が長すぎて、結婚生活に新鮮味がないのと同じだろう。

・・・たとえが悪いか(笑)

いずれ、すぐに飽きた(それほど短時間ではなかったが)ところは、同じか。

私の第一期無線趣味は18〜9までで終わり、その後22〜3歳ごろに第二期が始まり、それ以降が黄金時代(なにが?)だったかもしれない。

その後、HFで海外交信に夢中になった28〜9歳ころからで、第三期か。

今は・・・?

別れたりくっついたりと、ハリウッドスター並み(笑)の私と無線との関係だが、初めての時はやはり新鮮だったと思う。

まだ10代だ。

使った無線機は、先輩から借りたものだったろうか。

ちょっと、記憶があいまい(笑)

しかし従免(無線従事者免許)を受けてから開局申請(けっこうややこしかった)をする際、かならず無線機が必要だった。

当時の(今もか?)無線従事者免許では、自分の無線機(自局)しか操作できないことになっていたからだ。

だから、かならず自分の無線機を持っていたはずだ。

たぶん、車載用のトリオ(のちのケンウッド)TR-7200ではなかったかと思う。

記憶にあるVHF帯無線機のなかで、一番古いものだからだ。

周波数増設は、水晶発振子を差し足して使うものだった。

水晶発振子とは・・・ま、いいか。

現在は製造すらされていないし。

いずれ無線機のたいせつな部品だった。

いろいろいじくりまわしたので、そのうち車の振動でFずれを起こすよーになった気もする。

Fずれとは、送信周波数がずれること。

相手にはもがもがと、何を言ってるかわからないほど電波の質が悪化した。

それでも、楽しかったような。

デジタルの現代では、想像するのもむずかしいかもしれない。

いずれ、シンセサイザー方式になる前は一般的な発振方式だったのだ。

メインチャンネルの145,00MHzだけは固定されていて、そのほかのサブチャンネルは3〜4個付属しているだけだったと思う。

12、20、32・・・ぐらいだったかな。

貴重なサブチャンネルだったが、無線局の絶対数が少なかったのでそれでもかまわなかったかもしれない。

あと、(この辺では)有名な144,88MHzも。

ちなみに、無線界(多分欧米だろう)で88(エイティーンエイト)とは、ラブ&キッスを意味していた。ワォ!

これは電信(モールス交信)のなごりだと思う。

交信の最後におくるあいさつで、一般的には73(セブンティースリー)を使った。

女性の無線家が何人いたのかわからないが、たいていは男性のオペレーターなので88を使うのはまれだったのではないだろうか。

男性同士で88を送受信するのは・・・あまり考えたくない(笑)

えーっと、話がそれた。

あと、50か54を入れたら「ここはモービル(移動)のメンチャンだよ。」と言われた。

当時、トラック運転手たちが連絡用に大挙してハムになっていた。

国内無線機販売店の大切なお客様だったのだろう。

モービルといっても、ほとんどがトラック専用だったよーな気がする。

そーいえば、7MHzでもバンドのはじっこのほうにそういう周波数が存在していたっけ。

あとで知った。

ともかく、下界(普通の生活)も空の世界(無線界)も、人間社会には変わりなかった。

若い私には、いろいろ勉強になったよーな気がする

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BCL

2010年02月06日 | 思い出日記
BCLとは短波放送を聴くことだと思っていた。

1970年代中高生に一大ブームが起こったというが、雑誌のなかでのことだったよーな気がする。

周りに興味をもっているやつは、ほとんどいなかったからだ。

そういう連中と知り合うのは、実際にハムになってから。

類は類を呼ぶというやつだろう。

いわゆるマニアはいても、オーディオマニア。

あいつは金かけてたナ。

びんぼーな私がもっていたのは、ソニースカイセンサー。

中古だったと思うが、愛用してた。

どこから買ったのか忘れたし、いまどこにあるかも忘れた(笑)

いとこからもらったものだったよーな気もする。

いずれあのアナログダイヤルが、たまらなく好きだった。

チューニングダイヤルを、少しづつゆっくり回して雑音交信のなかから、聴きとれる音声を探し出していった。

わけもわからず、ロシア語や朝鮮語の放送を聴いていた。

強力で、どこの周波数にも出ていたからだ。

そんななか、SSBではなくAMで交信している無線局がいた。

私のラジオ(AM)で復調(音声で聞くこと)できたからだ。

親しげに話しこんでいたが、あれはもしかするとアンカバーだったかもしれない。

「俺もやってみたい」

そう思ったのが、アマチュア無線をするきっかけだったよーな気がする。

もっともCB無線で遊んでて、味をしめていた(笑)のも事実だが。

だから私は、ほんと意味でのBCLではなかったと思う。

ベリカード(受信確認証)も一枚も持っていなかったし。

自分のなかでは、放送局はやっぱり放送局だった。

めずらしいラジオ局・・・というのも、あまり興味がなかったかもしれない。

無線局、というものに興味があったのだと思う。

モールス信号にも、とても興味があった。

当時は、まるでわからなかったが。

後に2アマを取得(試験に出る)するとき、習得に苦労したが覚えたら楽しかった。

まったく使わない今でも、ほとんど忘れない(かな?)。

もっとも和文(1アマの試験に出る)はわからない。

欧文(25文字だけなので、比較的ラク)だけなのだが、アマチュア無線の世界ではそれで十分だった。

実際に交信したのは、わずか数局だったが(笑)

その前に、電話級(現在の4級)のアマチュア無線技士の試験があった。

仙台の合同庁舎で受けた。

3〜4回受験したかな?

いや、2〜3回だったかも(笑)

いずれ、一発合格ではなかった初の国家試験だったわけだ。

で、CB無線から足を洗うことになる(笑)

のちにHF(短波帯)の無線機を購入し、さらに2アマを取得して本格的に短波帯にデビュー(?)したのは、ずーっと後のことだった。


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