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Vitali Chaconne [Arthur Grumiaux]
駒形神社略記:ここです→ ブログ人マップ
本社の鎮座するこの地は、古くは利根川本流の西岸に位置し、広漢たる原野の中に駒形社一社のみあり、駒形大明神と称し、祭神は保食命で、食糧、農耕守護の神として信仰された。上野名跡考では「駒形とは野の神、山の神、水の神、土の神の社地より淨き土を採り、駒形を造り野馬守護のためこの四神を祀る」と誌す。境内は馬蹄形をなし源頼朝の愛馬「磨墨」の蹄と伝えられるものが御神体の一部にある。
勧請年月は、元亀元年と伝えられる。「上野国郡村誌」
神仏混淆時代は小屋原町の天台宗泉蔵寺に属していたが、慶安年間(1650年)頃東善養寺村(現前橋市東善町)より数戸、この地へ移転して以来、漸次戸数の増加により社殿を改築し、別当「山伏修験本明院」を設け駒形の氏神とした。
社殿は宝暦七年(1752年)に改築したが現在のものは明治三十八年十月の新築である。明治四十年十二月本社境内末社三社(八坂社、稲荷社、秋葉社)並びに町内字東高島鎮座琴平神と、その境内末社四社(八坂社、稲荷社、秋葉社、菅原社)及び町内字桃井鎮座の雷電神社と、その境内末社三社(八坂社、三峯社、諏訪社)を駒形神社本社に合併した。
大正三年十月九日、群馬県より神饌幣帛料供進神社に指定され村社となる。
昭和二十年神社官制廃止に伴い、同年十二月「宗教法人駒形神社」となる。
延喜式内上野国十二社
二宮赤城神社
当社は、第十代崇神天皇の皇子「豊城入彦命」「大己貴尊」を始めとし、数柱の神々を祭神とし、第十一代垂仁天皇、第十二代景行天皇の時代に創建されたと伝へられる古社である。特に、古代豊城入彦命を始とした毛野氏の子孫上毛野氏と深い縁のあった社とも伝へられている。
平安朝初期の第五四代仁明天皇の承和六年(八二九)に従五位下に叙されて官社となり、続いて昇叙を経、第六〇代醍醐天皇の延長五年(九二七)に制定された「延喜式」内、上野国十二社中の名神大社とされた。第六八代後一條天皇の長元々年(一〇二八)頃の上野国の国司文書中に、正一位赤城大明神、上野国神名帳には、上野国二宮赤城大明神などの神位、神階が記録されている古名社であった。第七〇代後冷泉天皇の永承四年(一〇四九)には、日本全国の諸社中から五五社が選ばれ、神仏習合の勅願神社となり、当社もその一社として、社域内に造塔の折、心礎(根巻石)内に仏舎利(釋迦尊の骨片、現存)が奉納されていたのである。
鎌倉時代には征夷大将軍源頼朝の崇敬を受け、建久五年(一一九四)当社などの修築を、守護職安達盛長に命じ、二宮太郎浅忠、岡部九内忠成らが修築を奉行したり、百石を寄進したと云う記録も見られる。戦国時代に小田原城主北條氏政の軍勢に依って、数多くの建物は打壊され、壊滅的被害を受け、宝物類も多く失ない衰微した。天正十八年(一五九〇)北條氏滅亡後、領主として大胡城へ入城した牧野駿河守忠成、康成父子を始めその後厩橋藩主となった酒井氏歴代、江戸時代幕府の天領代官藩主松平氏歴代さらに住民に篤く尊崇されてきた、そして赤城南麓地帯の連神社の中心的役割を果していた。
産泰神社
この神社の創建は、社伝によれば履中元年とされているが定かでない。しかし、社殿背後に壘々としている巨石群から、神社信仰の初現形態の一つである巨石崇拝にその起源があるとみられ、歴史の古さがしのばれる。
安産を祈る者が、軽くヌケル(生れる)ようにと底を抜いたヒシャクを奉納するようになったのは、江戸時代以降のことで、前橋、伊勢崎などをはじめ県下一円の人々から、安産の神として篤い信仰を受けた。特に、前橋藩主酒井雅楽頭は、社殿の造営をするなどその信仰著しいものがあった。
酒井氏の造営になった社殿は、多くの彫刻で飾られ、内部格天井には、酒井抱一が描いたとされる極彩色の花鳥図もある。数ある社宝のうち八稜鏡は、平安時代のもので、前橋市の重要文化財に指定されている。
また、四月十八日例祭の際に奉納される太々神楽も前橋市の重要無形文化財に指定されている。
このムクロジは、目通り周3.7m、樹高25mに達する巨樹で、地上3.8mの高さで3幹に分かれています。枝張りは、東西18.2m、南北21.7mに及び、根回りは非常に大きく50m以上に達しています。環境省の調査によると、樹齢は300年以上と考えられています。
ムクロジは、西日本の山林には自生していますが、群馬県での自生は知られていません。このムクロジも移植されたものと考えられます。
ムクロジの実は、石けんとして利用されたほか、羽子板の追羽根や数珠としても利用されました。