gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

梶原和義のブログです。

2011-06-11 19:22:03 | 日記
 生きていることが神の実物

人間は死ぬべきものではないのです。しかし世間の常識に従って生きていますと、必ず死んでしまうことになります。
五官が私たちに与えている影響をよく見れば分かるのです。おいしいものを食べた時に、おいしいと思います。これは、神にコンタクトしている感覚なのです。神をあがめている心なのです。
おいしいものを食べて、おいしいと思うのは、当たり前だと思う。当たり前と思うのが、大変悪いことなのです。時間があるのが当たり前、太陽と地球があるのは当たり前、男と女があるのは当たり前と、何でも当たり前と思うのです。
しかし当たり前のものは、一つもないのです。時間がなぜあるのか。時間、空間があるのは、太陽系宇宙だけなのです。太陽系宇宙以外に、時間、空間はないのです。宇宙には、どこにでも時間があるように思っていますが、それはおとぎ話です。
時間とは奇妙なものです。太陽系宇宙以外の宇宙には、時間はないのです。光年の世界は、時間がない世界です。速度もない世界です。大宇宙は無限無窮ですが、太陽系宇宙は、初めがあって終わりがあるのです。これほどういうことかということです。
そういうことを考えると、宗教ではない、学問でもない、最も高い理想が分かってくるのです。永遠ということが分かってくるのです。こういう思想を持つようになりますと、年をとっても老人ぼけにはならないのです。
宗教とか学問を信じていると、観念が固定するのです。頭がぼけてくるのです。生きているというのは、不思議なことを経験しているのです。愛し合うというのは、すばらしいことです。これがそのまま、神の本質を経験しているのです。皆様は、愛を経験していても、欲望だと思っている。だから愛し合うことによって、皆様の霊魂が、どんどん重荷を負うことになるのです。これが地獄の底へつれていくことになるのです。
これが、世界にいる一部の誤ったユダヤ人の悪さです。世界の人々が、一部の誤ったユダヤ人の悪さによって、地獄へ引きずり込まれようとしているのです。
文明は、人間のためにあるのです。教育も人間のためにあるのです。文明のために人間があるわけではありません。今の社会は、教育がなければ人間ではないように考えているのです。この考え方が大間違いなのです。
人間のために、間違っている文明は、どんどん変えていけばいいのです。宗教ではない般若心経と聖書を根本にすれば、文明を新しくつくり直すことは、いくらでもできるのです。
人間の肉体は消耗品ですから、古くなります。これは仕方がないのです。ところが精神は、一つの人格ですから、年齢はありません。本能の世界、五官の世界、美しいものを見て美しいと思うこと、女性が女性であることは、すばらしいことなのです。これを皆様は、生きているという状態で、経験しているのです。生きていることは、神を経験していることなのです。皆様は、神を信じていなくても神を経験しているのです。五官を通して、神の実物を経験しているのです。
生きていることを、平明に、冷静に、綿密に点検していけば、死なない命がきっと分かるはずです。生きていることの本質に、目覚めればいいだけのことなのです。
皆様が生きていることが、そのまま神の実物なのです。それを皆様は、自分が生きていると考えて、神を踏みつけにしている。これが、皆様の霊魂に、地獄をもたらす結果になるのです。
皆様が生きているということは、神に生かされていることで、神の命を生きるという形で、死なない命を経験させられているのです。このことさえ分かれば、人間は死ななくなります。
皆様の心臓が止まって、肉体が使えなくなっても少しも恐れることはないのです。生きていることそれじたいが神の現われだと分かりますと、私たちの脳波は、死なない脳波になってしまうのです。
これは、医学的に驚くべき事実なのです。私たちの脳波が、生ける誠の神をつかまえますと、脳波が止まらないようになってしまうのです。脳波の構造が変わるからです。これは重大な問題です。
文明は、命に関するこういう重大な問題を隠してしまっているのです。一部の誤ったユダヤ人が文明を指導した結果、こういうことが全世界の常識になってしまったのです。これは本当に困ったことです。私の心からの願いは、文明の指導をしているユダヤ人が、その間違いに気づいて、神に帰ってもらいたいということです。これだけが、文明を打開する唯一の方法だからです。


人間はなぜ死ぬか

聖書は、神という存在と、人間の本質である魂の、二つをつないでいるのです。これが分からないために、命ということ、存在ということが全く分からないのです。
地球が存在するとはどういうことなのか。これが分かっていないのです。天文学者が分かっていないのです。地球は特殊な惑星なのです。地球には、植物や動物が詰まっている。生命現象が地球に満載している。この不思議な或墓が、太陽系にだけ存在している。こういう存在をどう説明するのか。現在の天文学者は全然分かっていないのです。
地球は、普通の惑星ではありません。森羅万象といいますが、あらゆる不思議な動植物が繁茂している。私たちは、この地球があるために生まれてきたのです。人間という不思議な生物も、地球にだけ発生しているのです。
ユダヤ人のSFでは、地球以外にも人間が存在する惑星があるだろうといっていますが、それはユダヤ人による御伽噺なのです。ユダヤ人はそういう言い方で、私たちが地球を真面目に見ないように、真面目に勉強させないようにしているのです。そういう重大なトリックがあるのです。
現代人は、大なり小なりユダヤ主義に感化されています。高校や大学で習ったことは、ユダヤ主義が多いのです。そういうトリックにかかってしまっているのです。
日本人は、聖書を読もうとしません。これは非常に不幸な状能です。だから天皇制のことが分からないのです。聖書を着目に読もうとしない人に、天皇制が分かるはずはないのです。それは日本の右翼が考えているものと違います。天皇御自身ですら、天皇制を理解していないのです。それは、聖書に対して敬遠しているからです。
日本の国のシンボルマークは太陽です。毎日の丸の旗は何を意味するのか。こういう墓の根底についての問題が、全然理解されていないのです。
聖書は、世界の文化の原点です。世界的な文化の根底なのです。人間存在の根底が聖書です。神と人間の霊魂の関係が、人間の生命の基本です。生命の基本について、はっきり受け止めていないのですから、生きていることの説明がまるでできないのも当然です。
神といっても、仏といっても、根本から間違っている。キリスト教は、イエス・キリストの贖いによって救われるといいますが、それはキリスト教の宗教概念に過ぎません。宗教概念は聖書の入り口で、中まで入ってはいないのです。ところが入り口まで行った人が、もう中へ入り込んだと思い込んでいる。そういう思いあがりが間違っているのです。
新約聖書ローマ人への手紙三章二十三節に、人間は皆、罪を犯したので、神の栄光を受けることができないと書いています。これは、神が人間に永遠の命を与えているけれど、それを受け取るだけの精神的な機能を持っていない。つまり、人間はすべて罪を犯しているので、神が人間に与えている永遠の命の実物を、受け止めることができないような精神状態になってしまったといっているのです。人間は、聖書を読み、キリスト教の説教を聞いたぐらいでは、神の永遠の命の実物を受け取ることはできないのです。なぜかといいますと、自分自身が生きているということが、間違っているからです。そういう間違った人間を否定しているのが、十字架の処置です。十字架というのは、人間が死んでしまうことなのです。
神の目から見ると、肉体的に生きている人間は、既に死んでしまっているのです。神は、肉体的に生きている人間を認めていません。神が認めているのは、復活したイエスだけです。復活のイエスの命を受け取らなければ、命はないのです。神が認めているのは、イエスという人だけなのです。イエス以外を、神は一切認めていないのです。この原理がなかなか難しいために、「狭き門」とイエスは言っています。
要するに、人間は既に救われてしまっているのです。しかし、神が与えている復活の命を受け取ることができなくなっているわけです。常識でごまかされているからです。学問のせいで、頭がユダヤ主義になりきっているのです。
常識、学問は、霊魂の目を見えなくしてしまうものです。人間は知らず知らずのうちに、文明思想によって、魂の目が見えなくなっているのです。だから、文明思想でものを考えていると、イエス・キリストの復活は全然分かりません。人間は皆、罪を犯したから、神の栄光を受け取ることができなくなっている、という言葉がそれを物語っています。
本当に永遠の命を得たいと思われるのなら、真剣に勉強して下さい。イエスは、新しく生まれなければ、神の国を見ることができないと言っています。(新約聖書ヨハネによる福音書三章三節~六節)また、水と霊によって新しく生まれて、神の国へ入れとイエスは命令しているのです。これをキリスト教では実行していないのです。水から生まれるとはどうするのか、分からないのです。キリスト教は宗教だからだめなのです。
聖書は、宗教ではありません。真実です。もし聖書を軽視すれば、死んで必ず火の池へ行きます。そこで悲しみ、歯噛みするであろうと書いてあるのです。
現在の人間は、生きているのではありません。生きている格好だけです。今の人間の命は、死ぬにきまっている命なのです。そういう命を持っていながら、生きているつもりでいるということが、根本から間違っているのです。その証拠に、七十年、八十年生きても、命について何も分からないのです。この世の商売の仕方とか、人間のつきあい方とかいうことは知っていても、命については何十年生きても全然分かりません。
そんな人間が救われて一体どうなるのでしょうか。仮にそんな人間が神の国へ行っても、座る席はどこにもないのです。神の国は、神の言葉通りに、自分自身の命を切り替えた者だけが入れるのです。ハードルは高いのです。このように、救われるというのは簡単なことではありませんが、明白な事実でもあるのです。
キリスト教ではだめです。キリスト教によらずに聖書によって、本当の神の言葉をつかまえることです。自分の思いを問題にしているようでは、とても神を信じているとはいえないのです。神を信じるというのは、自分の気持ちを一切問題にしないことです。
心を騒がすな、神を信じ、また、私を信じなさいとイエスは言っています。心を騒がすなとは、色々と考えるなということです。この世に生きている人間、肉体的に生きている人間が、肉の思いで良いと思っても、悪いと思っても、そんなことは霊魂の本当の声ではありません。霊魂の本当の声は、死にたくないという声です。死にたくないということを熱心に考えてみて下さい。素朴に考えるのです。そうすると、死ななくてもよい方法が与えられます。
イエスが誕生した時に、紀元元年が始まっています。西暦紀元というのは、人間が死ななくなったという、歴史的記録なのです。人間が死ななくてもよいようになってから、二千年以上もたっているのです。
それなのに人間は、まだ死なねばならないと思っている。これは、全知全能の神の処置に反抗しているのです。死んでからでは遅いから、生きているうちに目を開くのです。神は人に、死ななくてもよい命を、既に与えているのです。復活という永遠の命の実物を、既に与えているのです。聖書には、父なる神は、イエス・キリストを死人のうちから甦らせたことによって、すべての人を再び生んだと書いてあるのです。この言葉をキリスト教は見逃しているのです。
自分がキリストを信じてもだめです。自分というものは、もういないのです。そうではなくて、今生きている命が、キリストの命になっているのです。もう人間は死ぬ必要がないのです。
ところがいまだに世界中の人が、死なねばならないと思っている。これは文明のせいです。文明を形作っているユダヤ人のせいです。世界の政治のせいです。政治が悪いし、教育が悪いのです。文明が悪いのです。ユダヤ人が専門学をつくつて、イエス・キリストの復活を学のテーマにしないように、必死に頑張っているからです。
イエス・キリストが死人のうちから復活したことによって、すべての人間はもう死ななくなっている。神が新しい命を提供しているのに、人間がそれを受け取って
いないだけなのです。聖書をキリスト教だと思っているからです。
世界の歴史は新しくなっているのです。西暦紀元というのは、神が人間に死なない命を提供した紀元です。今年は西暦2009年です。これはどういう事かといいますと、神が人間に死なない命を提供してから、2009年経過したということなのです。この神の処置を、黙って受け取ればよいのです。これが、死なない命を得る唯一の方法です。




 永遠の生命を得るために

聖書には、神の国という言葉があります。今、人々が住んでいるのは、人間の国なのです。イエスは、生きているうちに神の国を見つけて、その中へ入れと命令しているのです。  キリスト教で考えているイエス・キリストと、聖書に出ているイエスとは、全然違うのです。
イエスは、大工の倅でした。家具とか建具を作っていたらしいのですが、この人が神を見たのです。
地球は現在、自転、公転しています。自転とは、夜が明けて日が暮れることです。公転は一年かかって、太陽の周りを一回りすることです。なぜ地球は自転、公転を始めたのでしょうか。春には花が咲き、秋には実を結びますが、なぜでしょうか。この根本的な原因が、神の約束なのです。
地球には、自然法があります。寒い日には、水が氷になります。水を百度に熱すると、水蒸気になります。これが自然法なのです。自然法が、神なのです。
物が上から下へ落ちます。これが自然法なのです。それが自然科学の原理になっているのです。では、自然法がどうして地球に存在するのかということです。
人間が地球に生まれてきたのは、理由があるのです。花が咲くというのは、命が花という形になって咲いているのです。これが人間の目に見える神の国なのです。
人の心臓が動いています。心臓が動いているのは、花が咲いているのと同じ原理です。花が咲いていることの原理が分かりますと、心臓が動いているという原理が分かるのです。
心臓が動いているという原理が、命の原理です。命の原理が分かって、その原理を生活しますと、生活のあり方が変わってしまいます。命が自分の命ではなくて、天地の命であることが分かるのです。花は天地の命が咲いているのです。
花は枯れますが、死にません。花には死がないのです。人間には死があるのです。死があるのは、咎があるからです。自我意識があるからです。咎があるから人間は死ぬのです。
咎とは業(ごう)なのです。人間がこの世に生まれてきたことが、業なのです。これは自分が造った業ではなくて、人間が生きているという業なのです。
人間が生きているのは、業なのです。だから、人に憎まれたり、人に誤解されたりするのです。この世に生まれてこなければ、業はなかったのです。この世に生まれてきたばかりに、業が発生しているのです。
例えば、自民党と共産党がいつも言い争いをしていますが、これが政治的な業なのです。全世界68億の人間は、業に満たされているのです。現在の人間文明は、業のかたまりなのです。この業のかたまりを徹底的に解明していきますと、神が分かってくるのです。 逆に言いますと、神が分かりますと、人間の業が全部解けるのです。自分自身の業が、解けてなくなってしまうのです。神を知るというのは、そういう重要な意味があるのです。
神とは何であるか。神という字を見ますと、示すと申すがついて、神という字になっているのです。これはすばらしい字です。神は何かを示して、申しているのです。
例えば、花は命を示しているのです。命の本体が、美しいものであることを申しているのです。地球が自転、公転していることも、神が示し申しているのです。何を示し申しているか。則を示し申しているのです。
私たちが生きているのは、命の則が働いているのです。生理的に死の別が働きますと、死んでいくことになります。生きることの則、死ぬことの則、人間同士の関係も、則です。 命の原理は何かというと、約束なのです。
示して申すものが、地球を動かしているのです。いわゆる神の足場が、地球なのです。小さく言えば人間存在、大きく言えば宇宙全体が、神の足場なのです。人間とは、小宇宙なのです。
神と人は、本質的に同じものなのです。だから私たちの命の本体が分かりますと、死ななくなるのです。死ななくなるだけではなくて、現世の人間の生き方の間違いが、全部分かるのです。手に取るように分かるのです。イエスがこれを証明したのです。
世界にはユダヤ民族がいます。世界全体の政治、経済、軍備、科学、芸術の中心ポイントを牛耳っているのが、ほとんどユダヤ人なのです。この不思議な民族が、神の約束の民族なのです。
ところがこのユダヤ民族が困ったもので、とびきり上等の人々がユダヤ人ですし、また、とびきり悪いのもユダヤ人です。非常に優れたすばらしい人物と、箸にも棒にもかからないひどい者と、両方あるのです。
日本人とかアメリカ人は、高が知れています。世界中をひっかき回す人は、日本から出ていないのです。ユダヤ人にきまっているのです。
イエスもユダヤ人なのです。このイエスが、死を破ったのです。日曜日は、イエスが死を破った記念日なのです。キリスト紀元はイエスが誕生した年から初っています。つまり、イエスが生まれたことが世界歴史の基準になっているのです。この人が、初めて死を破ったのです。本当に、歴史的事実として死を破ったのは、イエスが初めてなのです。
イエスがどういう生き方をしたのか、命をどのように見ていたかということです。
例えば、太陽があります。太陽には、効力と、効率と、効果があります。太陽の効き目が三つに分かれているのです。太陽の効き目とは何かというと、これが命なのです。命を証明しているのです。
私たちは生きているという形で、太陽の効力と効率と効果を、毎日経験しているのです。果物を食べれば、そこに、太陽の効力と効率と効果が示されているのです。人間が生きていることは、太陽の命を毎日経験していることです。これを、生かされているというのです。
太陽の命は、死なない命なのです。宇宙の死なない命を、私たちは毎日経験しているのです。例えば、冬の寒い日に、日向ぼっこをしていると、太陽の効率、効力、効果、つまり、生きていることの心地好さ、命の嬉しさがしみ込んでくるのです。これをつかまえたらいいのです。
これをつかまえますと、今まで自分が考えていた人生の有象無象、矛盾が消えてしまうのです。宇宙の命と自分の命が、一つになってしまうのです。
人の命は、この命を実感するため、経験するためにあるのです。自分が消えて、太陽の命の中へ入ってしまうのです。そうすると、太陽が生きていると同じ命で、生きられることになります。これが、とこしえの命、永遠の命のつかまえ方なのです。これを示し申しているのが、太陽なのです。
太陽という見本を出して本当の命はここにあるということを、示し申しているのです。これが本当の神です。宗教が言っている神は、神の粕なのです。現在の人間が拝んでいるのは、安物の神なのです。
そういう屑みたいな神ではなくて本当の神を見る癖をつけるのです。一杯の水を飲むにしても、これが命の水だと感じて、飲むのです。自分から抜け出して、命の中にとけこむ癖をつけるのです。
命の中に入ってしまうためには、神の約束をどうしても勉強しなければならないのです。神の約束を勉強する方法が、日本にはないのです。どうしても聖書を勉強するしかないのです。
生きている意識、生活意識が問題です。人間の命は、感覚と意識で成り立っています。目で物を見る感覚が意識されます。般若心経では、これを五薀といっています。意識のあり方によって、命のあり方を変えることができるのです。これを信仰というのです。
生理と心理の二つの機能が、人となって現われています。生理機能は肉体のことです。心理機能は精神です。肉体と精神が集まって、人間ができています。生理の理、心理の理が神の言(ことば)なのです。言が生理的に働いたり、心理的に働いたりしているのです。
実は、人間は言そのものなのです。理性の本体が、私たちの本命なのです。聖書には、言が肉となって、地上に現われたと書いてありますが、これがイエスなのです。(ヨハネによる福音書1・14)私たちはそれを経験しているのです。
イエスが人間をどのように見ていたのか、その見方を勉強しますと、死なない命が勝手に分かるのです。
本当に死を破って彼岸へ行った人、本当に永遠の命をつかまえたのは、イエスだけなのです。釈尊も、孔子も、死んでしまった。親鸞も日蓮も、道元も死んだのです。地球上で、歴史的に本当に死ななかった人は、イエスだけなのです。
人間が死を破ったということは、人間歴史における最大のテーマなのです。軍縮のことよりも、政治経済のことよりも、大きいのです。命のことは、一番大きい間警のです。このことを、全世界の学者は、全然勉強しょうとしていないのです。
実は、イエス・キリストが死を破ったとい事件は、人間文明における学問の、最高の間題です。これが分かれば、人間の命についての基本的な勉強ができるのです。これを大学では取り上げていないのです。大学で、これが問題にできないのです。なぜ大学でこの
間題を取り上げないのか。これは学者の怠慢なのです。十五年や二十年の怠慢と違います。二千年間の怠慢なのです。二千年もの間、イエスが復活したということを知っていながら、これを勉強していないのです。なぜキリスト紀元が設定されているのか。これについて正しい説明をする責任が、今の学者にはあるのです。科学者にも、歴史学者、政治学者、法律学者、哲学者にもあるのです。
キリストが復活したことは、すべての学問の根本問題、基本的な問題です。ところがそれを取り上げようとしない。ここに現代教育の間違いがあるのです。
だから、人間の生活の仕方が、根本から間違っているのです。現在の日本人は、命を知らないのです。生きていながら命を知らないのです。これをはっきり言う宗教家は、一人もいないのです。哲学者も学者もいないのです。世界中の学者はこの意味で全部間違っていると言わざるを得ないのです。
世界中の学者が全員反対しても、68億の人間が全員反対しても、間違っているのは間違っていると言わなければならないのです。全世界の文明の根本に、命を無視しているという重大な欠陥があります。
死を乗り越えたイエスが、どんな気持ちで生きていたかを私たちが勉強すれば、私たちとイエスは同じものであることが分かるのです。
言が肉体となっている事を魂というのです。魂とは理性が肉体的な状態で生きていることです。これが霊魂です。霊魂が主体、本体ですから、死ぬべき肉体は初めから存在していないのです。
理論物理学から考えましても、物質はないのです。あるように見えるだけなのです。なぜあるように見えるのか。ないはずの地球が、あるように見えるのは、どういうことなのか。一体、人間の業がどうしてできたのかということです。
示して申す神を、正反対にしたものが悪魔です。悪魔もまた、示して申すのです。神は正しいものを示して申すのですが、悪魔は正しくないものを示して申すのです。
旧約聖書に、『主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪いことばかりであるのを見られた』(創世記6・5)とあります。無いものを有ると考える悪魔の思考方式が、人間の自我意識になっているのです。だから人間が、現象が実体である、自分がいるという意識しか持てないのです。
この意識で考えれば、どうしても現象が実体としか思えないし、固有名詞としての自分がいるとしか思えないのです。本当に実在しない世界が、実存するように思えて仕方がない。嘘の世界を自分で創造しているのです。
人間は、肉体人間の常識という悪魔の思いに、しっかりつかまえられています。悪魔が自我意識として人間の中に巣食っているのです。
この業から出るためには、自我意識、現象意識と全然別の、生理機能、心理機能として、生かされている客観的な人を発見する以外にありません。この客観的な人がイエスとまったく同じ人なのです。イエスという人格が自分そのものです。業を果たすというのは、イエスを発見することです。業を果たすとは、自我意識を捨てて、イエスにわたってしまうことです。これが、永遠の命をつかまえる具体的な方法なのです。



人間は現世に捨てられた

異邦人(ユダヤ人以外の民族) は、キリストを信じることは不可能ではありませんけれど、ほとんど不可能に近いといえるような、精神状態になっているのです。異邦人は例外なく、自分が救われたいと思っているからです。
自分が救われたいと思っている人は、絶対に救われないのです。自分が聖書を分かりたい。そう思っている人も救われません。
人間である皆様に、分かる必要はないのです。ただ信じたらいいのです。皆様が分かって、何になるのでしょうか。
自分が分かるのではなくて、自分を神に渡してしまえばいいのです。ところが渡せない。なぜ渡せないかというと、聖書がよく分からないからだというでしょう。
分かる必要はありません。皆様が分かって何になるのでしょうか。この悪い癖をやめるのです。皆様が聖書を分かっても、何の足しにもならないのです。それは、悪魔が神を理解しようと思うのと同じことなのです。
分かっても救われないのです。人間が救われることは、絶対にありません。イエスは己を捨てて、おのが十字架を負えとはっきり言っています。己を捨てたものが、なぜ救われなければならないのでしょうか。これを承知する必要があるのです。
キリスト教の宗教観念は、自分が救わるために、自分を捨てなければならないと思っているのです。そんなことは聖書に書いていません。ただ己を捨てよと書いているのです。己を捨てよとは、文字通り己を捨てることなのです。
なぜ自分の人生があると思うのでしょうか。なぜ片意地を張ったり、わがままを言ったりするのでしょぅか。それをして何の得があるのでしょぅか。人間はそれをする度に、地獄の火の材料を造っているのです。
イエスは神の国へ入れと言っています。これは普通の人、民衆に向かって言っているのです。誰でも、その気になれば、神の国に入れるのです。神の国へ入るほうが、よほど得です。何も死ぬことはない。死ぬ必要はありません。現世に生きているままで、神の国へ入れるのです。現世の生活は、必ず神が引き受けてくれるのです。
どうでもしなければならないことは、自分の生活の店じまいです。自分で生きることをやめるのです。自分で生きていると、有形無形の色々なものを溜め込むのです。しっかりと溜め込むのです。
この世に生きている自分がいると思っている。この世に生きている自分は必ず死にます。絶対に死にます。死ぬに決まっているのです。
記憶が霊魂を裁くのです。分厘までも償わなければ、地獄から出れないのです。聖書が分かったと思っているその記憶が、地獄の焚火になるのです。聖書が分かって何になるのでしょうか。自分を捨て、自分の十字架を負いて、私に従ってきなさいというイエスの言葉を実行する以外にないのです。自分が聖書の勉強をするよりも、自分を捨ててしまえばいいのです。それで終わりです。
なぜ自分が捨てられないのでしょうか。なぜ自分を捨てる気にならないのでしょうか。
ヨハネは言っています。
「すべての人を照らす誠の光があって、世に来た。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分の所に来たのに、自分の民は彼を受け入れなかった。しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」(ヨハネによる福音書1・9~12)。
これをじっくり読んでいきますと、分かります。聖書の言葉は信じるか信じないかで、勝負が決まるのです。もし信じられないポイントがあるなら、どんどん神に聞いたらいいのです。結局信じるか信じないかのどちらかになるのです。
神の言葉に命がある。言葉と命は同じものです。言葉が現在の世界を造っているのです。命には働きがあります。これを現代的に言いますと、電気になります。すべての生き物には電気があるのです。電気があるものは、生きているのです。どんな植物にも、どんな小さな虫でも、電気があるのです。
命には電気という働きがあります。これが言葉です。電気は言葉のことです。電気の律動が、味になったり、音になったり、色になったり、形になったりしているのです。私たちが見ているのは、すべて電気現象ばかりです。電気でないものは、何もありません。
言葉に命があると言っています。命に言葉があると言ってもいいのです。これは電気のことなのです。
電気は神から出るものであって、これが光になるのです。光になるというのは、命の灯になるということです。
自分が生まれてきたという運命が死です。この運命に勝つことが命を求めることです。そのために、誠の光があって、世に来たのです。世に来たというのは、肉体的に現れたということです。
彼は世にいた。そして世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいたとあります。世を私として読み替えて見ますと、彼は私にいた。そして私は彼によってできたのであるが、私は彼を知らずにいたとなるのです。これが洗礼を受けるまでの状態です。
父と子と聖霊の名よって、バプテスマを施せとイエスが命令しています。これはイエスがキリストとされてからのことです。復活してからのイエスが、このように命令したのです。これは宇宙的な命令であって、霊なる非現象の世界、肉である現象の世界を貫いて、霊にも肉にも通用するような、絶対的な原則が開明されたのです。
父と子と聖霊の名によってバプテスマを受けますと、今まで感じなかった良心が働き出すのです。それまでの良心は、自分自身の利害得失で考えた良心です。自分自身の利害得失でなく、神の名によって自分自身の霊魂を見なければならないような気持ちが、上からおりてくるのです。これは洗礼を受けた人が、誰でも経験していることです。
どんな教会で、どんな牧師の洗礼を受けた人でも、父と子と聖霊の名によって、汝にバプテスマを施すと言われると、三位一体の神の名が働くのです。どこの教会で洗礼を受けた人でも、こういう経験をしているはずです。
洗礼を受けた人は、その時の経験をもう一度思い浮かべて見てください。その時の気持ちになって、私の言うことをお聞きになったら、全部分かるのです。その後、よき良心を崇めようとしないで、自分の肉欲にしたがって生きているために、いつか知らぬ間に、水のバプテスマの意味が消えてしまっているのです。もう一度それを取り返すのです。
良き良心に従って見るというのは、自分は肉の人間ではない、霊魂であると言う立場に立つのです。水によって造られた世界で、水を被るということは、肉体的存在がえてしまったと言うことです。神の言葉に従った魂になるのです。人間の肉の思いから出てしまって、神の御心に従った魂に変化してしまう。これが良き良心が与えられる原理です。こういう形で、皆様は良き良心に従って見ることができるのです。
洗礼を受けると、皆様の魂が目を覚ますのです。人間には初めからすばらしい機能が与えられていますけれど、三位一体の神の名によって洗礼を施されるまでは、その機能が眠っているのです。これが目を覚ますのです。この状態が良き良心です。
10節にありますように、彼は命の光です。本当の命、言葉である命、魂の本性です。彼は私にいた。魂の本性であるの彼の言葉は、私にいたのです。初めからいたのです。これが洗礼によって目を覚ますと、神に対して命を認識することになるのです。
世は自分自身のことです。彼は自分にいた。自分は彼によってできたのであるが、自分は彼を知らなかったとあります。皆様が生きている命が、そのまま神の言葉の命です。神が命となって皆様は生きています。
同じ箇所の十四節に、言葉が肉体となったとありますが、これは皆様自身のことです。肉体となったという日本語訳は間違っていまして、肉となったと訳すのが正しいのです。
言葉が肉となった。これが今皆様が生きている状態です。人間の五官の働きは神の言葉です。これが理性です。目で見ていることが理性の働きです。耳で聞いていることが理性の働きです。
十二節に、彼を受け入れた者、即ちその名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのであるとあります。
イエス・キリストを受け入れるとはどうするのか。どのように受け入れるのか。生きているという本質が魂の実体です。五官の働きの本性、目で見ている、耳で聞いていることの本性が、普通の人間では分からないのです。良き良心でないと分からないのです。
洗礼を受けた人でも、良き良心を基礎として生活しようというまじめさがない人には、分からないのです。洗礼はどんな受け方であっても、一応誠実な気持ちで受けたら、良き良心を与えられるのです。しかし良き良心によって生活するか、しないかは、本人の自由です。
自分の五官の本源が、非常に微妙なものであるという気持ちがわかってくるまで、良き良心を用いるようにするのです。良き良心をどのように用いるかと言いますと、例えば月を見ているような気持ちです。お風呂に入って、ああいい湯だなと思っているような気持ちが、良き良心によく似ているのです。月を見ているのが一番分かりやすいでしょう。雪景色もその一つであるかもしれません。いわゆる雪月花です。これをじっと見ている時の気持ちには、おのずから良き良心が働いています。
特に洗礼を受けた気持ちで見ている人には、普通の人間には感じられないような透明な感覚が心の底からわいてくるのを感じるでしょう。芸術的な良心のようなものです。歌を詠むような心です。これは良き良心とは言えませんが、芸術的なセンスはこれに近いのです。
こういうことを西田哲学では純粋経験と言っています。できるだけそういう気持ちで見るようにして下さい。詩や俳句に耳を傾けるような、絵を見るような感覚を持っていると、インマヌエルが分かってくるのです。自分の魂が神によって生かされていること、神が共にいますことが分かってくるのです。
即ち、その名を信じた人々と書いているのがそれです(同1・12)。イエスを受け入れると、イエスの人柄が移ってくるのです。本当にイエスを受け入れれば、イエスの人柄が、その人の気持ちに染み込んでくるのです。理論的に少し加えれば、その名を信じるということになるのです。
神にかたどりてという言葉がありますが(創世記1・26)、自ら命を持っているのが神です。神は誰からも命をもらっているのではありません。
宇宙の命には色々な働きがあるのです。命の働きが電気です。電気は多事多端に働くのです。千変万化して働くのです。人間の五官で受け止められるものは、全部電気です。五官はまるで電気のレシーバーのようなものです。これは不思議なものです。
地球は電気に包まれているのです。電離層、バンアレン帯は、電気の層です。これが地球を包んでいるのです。地球が生きているのは電気があるためです。生きているのは電気を感じているのです。色も味も、栄養も形も、香りも電気現象です。電気と神とは、不即不離の関係になっているのです。
ヨハネの黙示禄に、御座から、稲妻と、もろもろの声と、雷鳴が発しているとあります。(4・5)。絶対者の御座から、稲妻が出ていて、それが色々な形や音、色、味、栄養になっているのです。これを皆様の五官が受け止めているのです。
人間の五官は、神の命を女性的に受け止めるのです。魂は初めから性に対する受け止め手になっているのです。神の性が大自然になって現れている。これが神の愛の表現です。神は愛に決まっています。だから、皆様の目や耳は、神の愛をそのままストレートに受け取っているのです。
五官は神の愛を受け止めている。これが本当のセックスです。こういうセックスを経験するのです。これは極上のセックスです。人間が考える肉のセックスは性欲ですが、神のセックスは愛です。
愛と欲は全然違うのです。夫婦関係もここまでいかなければ、本当の救いの面白さ、有難さが分かりません。聖書を勉強する楽しさ、おもしろさ、有難さが分かると、絶えず祈れ、常に喜べ、すべてのことを感謝せよということが実現できるのです。五官で神の愛を実感するのです。イエスはこういうことを経験していたのです。これが、キリストの花嫁になる条件です。そうすると麻の細布を着ることを許されるのです。
今までの自分の命にこだわらないで、もっと上等の命に目をつけるのです。この世にせっかく生まれたのですから、命の本当の味を味わってください。
五官は命の味を知っているのです。あなたの目が正しければ、全身も明るいのです(マタイによる福音書6・22)。目の働きが正しければ、生まれる前のことから、死んだ後のことまで全部明るくなるのです。全部分かるのです。
皆様は人間として生きています。肉体人間として生きています。この意識は闇です。これが精神的に死んでいることになるのです。その証拠に、悩み、苦しみ、悲しみ、不平不満が渦巻いているのです。この状態が闇です。これが死です。暗いのです。光は闇の中に輝いている。闇はこれに勝たなかったとあります(同1・5)。
皆様は生きています。命が与えられている。命がそのまま光です。神に命を与えられていながら、命が分からない。生きていながら命が分からない。これが暗きです。光は暗きに照っていながら、それを悟ることができない。そういう人は地獄へ行かなければならないのです。生きていて、悩み、苦しみ、悲しみ、不平不満がある人は、死んでいるのです。そういう命を自分の命だと思っている人は、自分の中に、悩み、苦しみ、悲しみ、不平不満がどんどん積もっていくのです。その人の記憶の中に積もつていって、地獄の火になるのです。自分の人生で、その人が造った記憶が、その人を裁くのですから逃げ走りは絶対にできないのです。
大体人間は、自分で生まれたいと思って生まれたのではありません。皆様の人生は初めから借り物です。皆様の命はどこにもありません。それを自分の命だと思っていることが、暗きです。
皆様がこの世に生まれたこと、自分の家庭で育ったこと、学校へ行ったこと、世間で色々学んだことも、全部肉体的に生きているという気持ちでしてきました。これは生きていたのではなくて、死んでいたことになるのです。肉体的な命では生きていましたが、魂としては死んでいたのです。
その証拠に、皆様は固有名詞だけで生きてきました。固有名詞を自分のことだと思っていたのです。それはこの世の命です。この世の命というのは、この世に属する人間の命ですが、神の子の命ではありません。
この世に属する命で何十年も生きてきたのは、神の子として生きていなかったことを意味するのです。ですから、神の子としては死んでいたことになるのです。すべての人を照らす誠の光があって、世に来た(同1・9)。これは言葉としての光です。固有名詞の人間で生きているのは、暗きです。暗きは死んでいくに決まっている人間のことです。
弁証法的に言いますと、人間はテーゼです。イエスはアンチテーゼです。人間という存在に対して、イエスはアンチテーゼになっているのです。弁証法的に言いますと、そういうことになるのです。
イエスはすべての人間を否定するのです。すべての人間はイエスを否定するのです。お互いに否定しあっているのです。
アンチテーゼは光です。普通の人間はテーゼであって、暗です。テーゼである人間に対して、否定するものがやって来た。これがすべての人を照らす光です。それによって否定されたものは、救われるのです。光によって否定されると、暗がなくなってしまう。そして光になるのです。これが救いです。
暗が光に変わってしまうのです。光は暗の中に輝いている。すべての人間が暗であって、その真ん中に光が飛び込んで来た。そこで光は暗の中に輝いているのです。
イエスは、人間的な固有名詞を持っていなかったのです。親の子ではなかった。神の子でした。皆様は親の子だと思ってみえるでしょう。そういう気持ちで何十年も生きていらっしゃったのです。これが間違っているのです。すべての人間は全部神の子であって、親の子は一人もいないはずです。
イエスには自分の母親はなかったのです。父親もないと言っているのです。母親と思っていたら、とてもマリアに向かって「女よ」と言えなかったでしょう。皆様もそう考えられるのでしょうか。そう考えられなかったらだめです。
イエスは言っています。
「地上のだれをも、父と呼んではならない。あなた方の父はただひとり、すなわち、天にいます父である」(マタイによる福音書23・9)。
天にいますというのは、命の配給をしている方という意味です。命の配給の本元が父であって、人間にとっての本当の父は、この世にいないのです。もちろん母もいません。肉体から生まれたというのは、単なる細胞分裂の現象です。これは生まれたことにならないのです。
生まれるというのは、無から有を生じることです。人間が子供を産むのは、細胞が分裂しているだけで、あたりまえのことです。これは生むとは言わないのです。細胞分裂によって生まれたのは肉の人間であって、魂ではないのです。神の子ではないのです。
私たちがこの世に生まれたのは、この世的な言い方であって、神から見ますと、霊なる魂が、肉なる世界へ放り出されたことなのです。これは捨てられたことです。罪の下に売られたのです。
パウロは「私は肉につける看であって、罪の下に売られているのである」人への手紙7・14)と言っています。これは捨てられたのです。肉の世界へ魂が捨てられたのです。
人間は罪の真ん中へ捨てられたのであって、別の言い方をすると、殺されたのです。死なしめられたのです。例えば父なる神といっしょにいたイエスが、この世に捨てられたように、皆様も捨てられたのです。
イエスがこの世に放り出されたように、皆様も放り出されたのです。そこで、神を憎いと思ったらだめです。神を敵に回しているからです。なぜ神がそんなことをしたのか。皆様のようなかわいい子を、なぜ肉の世界へ捨てたのか。なぜ捨て子としたかです。
肉の思いは死です。肉の世界は死の世界です。神は死の世界へ魂を放り込んだのです。この世に生まれたことは、死んだことになるのです。誕生日どころか、命日なのです。誕生日は命日です。
この世に生まれるまでは生きていましたが、この世に生まれたのは肉の世界へ放り込まれたのですから、死んだことになるのです。誕生日と命日を間違えるほど人間は慌て者で、愚かです。人間は死んだ状態でこの世に現れました。何のためか。なぜこのような処置を受けることになったのか。それは、死を味わった者でなければ、本当の命の経験ができないからです。死を経験したものでなければ、誠の命の経験ができないからです。
皆様が天にいたままの状態では、神の元にいる状態のままでは、命の経験ができなかったのです。
イエスのような人でも、神の御座において、神と一緒に生きていました。その時、誠の命ではなかったのです。イエスが神から離れて、この世に放り込まれて、初めて、父の内にいることが本当の命であることが分かったのです。父と共にいることが、どれほどすばらしい命であるかを、イエスは経験したのです。
イエスは、天の父が私を遣わしたと言っています。遣わされたことによって、命の経験ができたのです。だからイエスは、私は甦りであり、命であると言っています。私は道なり、誠なり、命である。私は命のパンであると言っています。自分が命を経験したから、そのように言えたのです。死なしめられるような状態で、この世に生まれなかったら、イエスでも命を経験することができなかったのです。
本当の命とは何か。生と死をひとつにして命になるのです。命の中に、生という面と死という面と二つあるのです。生だけでは命と言いません。一枚の紙に裏表があるように、命には生と死と両面あるのです。両方を経験しなければ、命とは言えないのです。
人間は鼻で息をしていながら、生と死の両面を経験しているとは思っていない。吸う息が生で、吐く息が死であることが分からない。そういう人間には、肉の思いを十分に知らせる必要があるのです。苦しみや悲しみ、悩みを十分に教えなければならない責任が、神にあるのです。鼻から息を出し入れしていることが、生理的な意味での生死にはなりますけれど、心理的な死を味わったことにはならないのです。そこで人間の生活は、様々な苦しみ、悩み、悲しみ、不平不満、トラブル、乱轢、不和、反目、矛盾、争いが無限に起きてくるのです。
固有名詞の人間が肉体的に生きていると、必ず苦しみ、悩み、矛盾があるのです。これが死を味わっていることです。人間生活には、人間関係、健康問題、経済問題、家庭問題で、年中トラブルがあるのです。肉体的に生きていますと、必ず乱轢や悩み、矛盾が起きるのです。これが死です。
これを死と考えないで、ただ悩みだと考えて、神に反抗する気持ちで生きていますと、不平不満になるのです。呪い、怒り、呟きになるのです。これが地獄の刑罰の材料になるのです。
現世において、精神的な苦しみを味わっていることが、死を味わっていることだ、自分の肉に対して神が死を味あわせているのだということが分かると、今度は恵みが分かってくるのです。イエスはそういう生き方をしていたのです。これを十分に弁えなければいけないのです。神は愛なるお方であるから、人間を肉の中に放り込んだのです。まず死を経験させているのです。
ですから、これから死んだら困ると思う必要はありません。死んだら困るどころか、今、現在、死んでいるのです。これ以上死なないのです。だから死んだら困ると思わなくてもいい。命を捜そうと考えたらいいのです。
すべての人間は全部死んでいるから、死から脱出することを考えてもだめです。脱出できないほど死んでいるのです。
命を見つけるのです。命を見つけて、そちらへ鞍替えしそしまえば、死から脱出できるのです。現世にいる間に命を見つければ、完全に死から逃れることができるのです。良き良心に従って、霊(神の御心)によって歩めば、これができるのです。永遠の生命の実物を、この地上で感じることができるのです。そうして、生きていながら、パラダイスに入ることができるのです。これをイエスは、水と霊によって新しく生まれて、神の国に入れと言っています。
現世に生きていながら、神の国に入るのです。死んでから行くのではありません。キリスト教や仏教は、死んでから天国へ行ける、死んでから極楽へ行けるといっているのです。キリシタンバテレンを信じる信者が、死んだら天国に行けるといったので、信長は「そんなに天国にいきたいか。それなら今行かしてやる」と言って、その場で切り殺したという話があるのです。宗教はこういう大嘘を、天下で堂々と言っているのです。
神の国は、目の黒いうちに、現世にいる間に入るのです。入れるのです。この世に生まれたら、ここまで行こうと決心するのです。これが現世に生まれてきた唯一の目的です。