原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

母(ママ)はあくまで我が子の母(ママ)であらねばならないか?

2014年02月13日 | 時事論評
 開幕以来熱戦が続いているソチ五輪だが、 昨日12日に行われたカーリング女子1次リーグ戦に於いて、日本代表チームは第3戦で地元ロシアを8─4で破り、2勝1敗とした。
 日本は第2エンドで2点を先制した後、5─2で迎えた第8エンドにロシアに2点を許し追い上げられたが、終盤の第9、10エンドで3点を奪って突き放した。


 昨夜我が娘と一緒に、この白熱した試合をテレビにて最後まで見守った。

 何でも、セカンド小野寺佳歩選手がインフルエンザで戦線離脱の不運に苛まれているとの情報だ。 にもかかわらず、予選リーグ第2戦デンマーク戦では、チーム全体が伸び伸びとしたプレーを見せソチ五輪初勝利を収めている。
 ぐらついていたチームを短時間で立て直すことができたのはなぜか。 そのひとつが、チームのベテランスキップ小笠原歩選手の絶対的なリーダー力であるそうだ。
 (以上、ネット情報より引用。)

 女子カーリング代表の小笠原選手は、今回のソチ五輪開会式の旗手もつとめた。 大声で吠えまくるカーリング試合中のド迫力とはまったく異なる、柔らかく爽やかな笑顔で旗を振る小笠原選手の姿が何とも印象的な開会式だった。

 その日の新聞夕刊記事で見聞したのだが、小笠原選手は、(今まで一般的によく使われた表現である)「ママでもできる」なる軟弱な気持ちではなく、「ママがやる!」との強い意志の下にソチ五輪に臨んでいるとのことだ。 
 五輪期間は母として我が子の弁当も作ってやれない等、幼子を日本に残してきた事に対する心残りの感情ももちろんある。 それでも、育児の合間を縫ってソチ五輪に向け全力でトレーニングに励んだ成果を最大限に開花させたい、との意思の下で開会式旗手をつとめたとの談話だ。


 ここで一旦私論に入ろう。

 「ママでもできる」なる表現の由来とは、過去の柔道五輪代表 谷亮子選手が出産後に五輪に臨むにあたり「ママ“でも”金」と言ったことに由来しているのではなかろうか?
 これに限らず、出産後も各界の第一線で実績を上げている女性を捕まえては「ママでもできる」類の宣伝文句をメディアが好んで使用している事態を、私もマイナスイメージで認識している。

 「原左都子エッセイ集」2010年1月30日バックナンバー 「“ママ”と呼ばないで」に於いて、これに関する私論を公開しているので、以下にその一部を要約して紹介しよう。

 (2010年)3月に打ち上げられるスペースシャトルへの搭乗を47日後に控えている宇宙飛行士の山崎直子氏が、「ママさん飛行士」と呼ぶのをやめて欲しいと訴えているらしい。
 ごもっともな訴えである。
 宇宙飛行士とは、一般主婦が学校のPTA役員を担当するのとは訳が違い、「ママさん」などとの軽いノリで全う出来得るはずもない過酷なミッションが課せられる職種である。  もっとも、山崎家の場合は直子氏がNASAの宇宙飛行士候補になった後は、ご主人が仕事を辞めて子育てをはじめ主夫業を一手に担っておられるとの報道であるため、直子氏は「ママ」稼業とは実質縁がない日々なのかもしれないが…
 話を変えて、この原左都子も「ママ」などという言葉に虫酸が走るタイプの人間である。   私の場合は長い独身時代の多岐に渡る職業・学業経験を経て後の出産であったという経歴があるためかもしれないが、元々子育てに当たって一家庭内の“狭義”の「ママ」感覚で子どもに接するというよりも、もう少し“広義”の意味合いの社会的な子育て感覚で対応してきているように自己分析するのだ。 それ故に、そこには「ママ」の呼び名は到底相応しくないとの違和感を覚えてしまうのである。
 それでも母親を取り巻く社会の現状とはこの期に及んで旧態依然とした有り様で、子どもを産んだ女性を“狭義”の「ママ」に陥れるべくまったく進化を遂げていない模様だ。  
 話が飛ぶが、今回(2010年)の政権交代においても民主党議員の中で「ママ(現役の母親)」である事“それだけ”を武器にして立候補して当選してしまった“素人”女性議員が何人か存在するようだ。 その種の議員などは選挙前から自ら「ママさん議員」であることを前面に出し、民主党がマニフェストで掲げた“子ども手当て”のバラ撒き”に迎合することが当選の条件だった様子である。  これでは、学校におけるPTA役員のノリと大差がないと思える(実際問題、地方議員など党派にかかわらずその経歴が“学校のPTA役員”のみで当選している女性が存在する実態であるが…)のは、国会議員にして家庭内の“狭義”の「ママ」の域を超えられない故であるのか…
 少し古くなるが朝日新聞「声」欄40代の女性による投書を紹介するならば、 山崎氏の「ママさん飛行士」をはじめ、「ママさん選手」「ママさん議員」など、子どもをもつ女性に「ママさん」と名づけたがるメディアの風潮は今に始まったことではないが、ママさんとは「大変な子育てがあるにもかかわらず頑張っている女性」の意味合いでしかないのか?  伝える側には恐らく悪意はなく、むしろ応援する気持ちなのだろうが、余計なお世話だ。 「ママさん」の意味合いには「社会的」に“特別な存在”という意識が潜んでいるように思う。 一方で男性を「パパさん」とは呼ばない。 未だに子育ては「女性の仕事」との意識が働いているのだろう。 たかが呼び名であるが、そんなものは付けずに女性の職業が純粋に評価されることを願う。
 最後に私論だが、産んだ子どもの「ママ(母)」である前に、社会的に貢献できる存在の一人間でありたい…。 一昔前にはそういう女性が我が国において“国賊”のごとく蔑まれた時代もあったのであろう。
 既に時代が大きく移ろいでいるにもかかわらず、子どもを産んだ女性がそれぞれのシチュエーションにかかわらず未だ「ママ」であることを前面に演出しなければならないとするならば、厳しい見方をすれば、そこには女性側にこそ自立でき切れないでいる一面も内在するのかもしれない。 
 山崎氏の場合、一旦NASAに宇宙飛行士候補として選ばれた以上は仕事を全うするべきなのは当然であるとしても、奥方のまさかの夢に奇跡的に巻き込まれたが故に、自身の人生を専業主夫として翻弄されているご亭主や子どもさんの現実に同情する私でもある…
 先輩女性飛行士であられる向井千秋氏の場合、名門大学教授のご亭主にこそ迷惑を及ぼそうとも、子どもを産んでいなかったが故に「ママ」どうのこうのの鬱陶しさに巻き込まれずに済んでいるのがまだしも救われた気もする私である…。  
 やはりそれ程「ママ」であることとは、プラスマイナス両面で“重い”現状でもあるのか???
 (以上、「原左都子エッセイ集」2010年バックナンバーより一部を要約引用。) 


 バックナンバーよりの引用が長過ぎたが、最後に原左都子の私論でまとめよう。

 母(ママ)が我が子の母(ママ)であるべく(プラスに解釈すれば、それを堪能できる)年月とは意外と短いのかもしれない。
 などと考察可能なのは、我が娘が既に立派に成人に達しているからに他ならない。(いえいえ我が家の場合は娘が大学卒業して立派に独り立ちするのを見届けるまで、今まで通りに私が「お抱え家庭教師 サリバン」として君臨する予定ですよ!)

 一般ご家庭の場合、大いに事情が異なるのであろう事は推測可能だ。 母子が母子として機能する年月とは、まさに家庭それぞれであろう。

 それはさて置き、冒頭に記したソチ五輪カーリング代表小笠原選手事例のように、世界で活躍する能力を有する母が幼少の子供を持っている場合、確かに「ママ」一人が頑張る事に対する弊害が家庭内で勃発するのかもしれない。
 宇宙飛行士山崎直子氏のごとく、ご主人が専業主夫となって子どもの面倒を見てくれる家庭とはごく少数であろう。

 今回の表題に提示した 「母(ママ)はあくまでも我が子の母(ママ)であらねばならないか?」 との命題に関しては、基本的にはもちろんその通りである事を我が身をもって実感・実践している私だ。

 それでも、もしも世界で活躍出来る程の超越した能力ある人材がたまたま幼少の子を持つ「母」の立場である場合、その個人的活躍を一時保証するべく社会システムが存在して欲しい思いも抱くのだが…。