J-CASTで「「生活保護受給者に自家用車を」 日弁連意見書に批判、疑問相次ぐ」
という記事がアップされている。タイトルを見ただけでも「そりゃそうだろうよ」と思う。
日弁連の言い分は以下のようなものだ。
「前略・・・ 特に地方では、公共交通機関が不採算を理由に年々縮小しており、
車がないと通勤が困難で、就職活動にも不利になっている。また、郊外型店舗が増えて、
従来の商店街がシャッター通り化しており、生活費を節約するためにも、
郊外の店で食料品や日用品を買わなければならないという。
さらに、都市部でも、中心部でなければ、電車やバスの本数も少ないなどとした・・・ 後略」
正直言って僕には理解不能なのだが何故そんな地域で暮らすのだろう。
人には住居の自由があり、仕事を求めて都市に出るのは当たり前だ。
人口の少ない田舎はスケールメリットが効かない経済効率の悪い地域であり、
そこに住まいながら都市のサービスを受けたいと思うなら
相応のコストを自分自身で負担するのは当たり前だ。
少したとえ話で考えてみよう。
あなたは南の島の美しい海が一望できる僻地に別荘を持っている。
その地域はリゾートとしてはある程度有名だが、
別荘の近くに病院もスーパーマーケットも存在せず、
買い物がしたければ車で数十キロ離れた町に行くしかなく、
web環境は無線しかない上に電波は極めて届きにくい地域だ。
さて、あなたはこの不便だがお気に入りの別荘に旅行に来た。
しばらくの間楽しく休暇を過ごしていたのだが、遊んでいた子供が毒蛇に噛まれてしまう。
急いで町の病院に向かったが搬送にかなり時間がかかったせいで、
既に全身に毒が回っており助かるか助からないかは半々だという・・・。
さて、このアクシデントの場合、最も責任が重いのは誰だろう。
不用意に蛇の出る地域で遊んだ子供だろうか?
それとも毒蛇が出る地域と知りながら血清を用意しなかった両親だろうか。
いかなる理由にせよ、病院が別荘の側になかった事は明らかに本件とは無関係だ。
上記のようにリゾート地や人々から物理的に距離の遠い「田舎」という存在は、
人口が集まって居ない=経済規模が小さいという点に於いてその環境の殆どは同じである。
主体的に望んでそこへ行くのか、そこに生まれたから居座っているのかという違いしかない。
そんな地域に良好な都市的サービスを行き渡らせようと思ったら、
スケールメリットが効く人口の多い地域に比べ何倍ものコストがかかるのは必定である。
以前均一的発展という夢の終わりという記事でも似たような事を書いたが、
こういったサービスの供給がハイコストな地域に貧しい人々が住まう理由は
(少なくとも経済的には)全く存在しないし、まして今回の一件のように
リゾート地に住んでいる人間に車など配給する必要性は全くないはずだ。
彼らに必要なのは1にも2にも日々の仕事であり、地方に公共事業をバラまく財力が国に無い今、
その仕事が都市にしかもう存在しえないのは明らかである。
地方の生活保護者が訴える問題の殆どは、彼らを一箇所に集中させ、
かつ一定規模の都市で共同生活を送ることによって解決するものばかりであり、
それを拒否して不便なリゾート地に住み続けたいというのは、
国にはいくらでも金があるという歪み切った価値観の上に成り立つ極めて強いエゴイズムである。
そしてそれに同情し迎合する司法はもはやパターナリズムというレベルすら超越した
ド近眼的正義しか見えない無能の人だとしか言いようがない。
最高学府の法学部卒という僕のような凡人よりも遥かに知的な人々が、
何故こんな理解不能な所業を成すのかもはや皆目見当も付かない。
長くなってしまった。結論を言おう。
田舎(=リゾート地)で快適に暮らしたいと思うなら、
その経済的な重圧を自己負担によって耐える事が出来る
一定以上の富裕層になる以外の選択肢は存在しない。
コストを節約する意味でも彼らに仕事を探させるという意味でも、
本当に必要な政策は貧困に苦しむ人々は都市エリアに集結させ、
低コストで人的サービスを提供できる環境に置いて管理する事だ。
救うべきは隔絶された土地などではなく人そのものである。
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同じ「田舎」でも、自ら好んで不便な南の島に別荘を買った人と、もともと僻地の貧困家庭に生まれ育った人とを同じ土俵に並べてしまうのは少々乱暴ではないでしょうか。
都会に行けば仕事があるとわかっていても、たとえば田舎の持ち家で大家族で何とか暮らしている人が、都会に家族みんなで暮らす家を確保するだけでも経済的に大変な負担です。
その解決策が国営(?)の「貧乏人収容所」というのは、都会の金持ちが田舎の貧困者を邪魔者扱いして卑下しているだけのように見えてしまいます。
個人的には何らかのリミットが入っていない事が、生活保護の非常に駄目な点だと思いますので、
その地域での就職活動や求人数に応じて「あと何日以内に仕事が見つけられないのなら、○○へ移ってくれ」
という形にすると良いと思いますね。経営の成り立たない病院などを僻地に建てまくるにのは強く反対します。
特に年配の方で生活保護が必要な本当の弱者が、日本中の過疎地域にバラバラでは医療面で恐ろしくコストがかかります。
加えて彼らのコミュニティはどんどん崩壊しているので、それなら尚のこと「同じ境遇」の人々を集めた方が彼らにとっても有益だと思います。
社会的弱者に良い医療を安く提供するためには、一箇所に集まってもらう必要がどうしてもあるのです。
その点だけはご理解ください。
>もともと僻地の貧困家庭に生まれ育った人とを同じ土俵に並べてしまう
ここは重要なポイントだと思います。なので、前回の記事も参照しましたし、本文中にもその事は書きました。
都心の一等地などでなければ、東京都でも神奈川県でも結構土地は空いています。
別に首都圏でなくとも、各県の県庁所在地付近でも構いません。
移動の費用なんて長年の生活保護に比較すればタダみたいなものです。
>田舎の持ち家で大家族で何とか暮らしている人が、都会に家族みんなで暮らす家を確保するだけでも経済的に大変な負担
それならこちらに(移住する事に対して)お金を回す方が効率的です。
きついかもしれませんが、経済的な現実として、既に田舎の貧乏人は間違いなく「嫌な」存在になってしまっているんです。
地方に今までばら撒かれた公共事業の実態は要するに都市部の稼ぐ人間からの再分配なのですから、
それを受け取るのは地方の人間からしても屈辱的ではないでしょうか。僕ならそんな施しは受けたくありません。
いずれにせよ、貧乏人ほど「仕事のある都会」に住むべきなのです。それに「収容所から出て地元に帰りたい」というのは、
自立へのインセンティヴとして機能するかもしれません。とにかく、現状では都市の人間にも地方の人間にも、双方にとって最悪なままです。
今のままでは数年後の経済の破綻とともに地方は本当に人を巻き込んで滅んでしまうでしょう。
ってのが本音ですか?
そう思っている人は間違いなく居るでしょうね。
そしてその疑問は正しい考えだと思いますよ。現実にその通りなのですから。
逆にお聞きしたいのですが自民党政権時代に地方に公共事業をバラまく事によって地方は元気になったでしょうか。
結局日本一と称された諫早湾は河口堰に潰され、沖縄の赤土はエメラルドの海に流れ出し、採算の取れない高速が山ほど出来ただけです。
夕張をはじめ中央への依存構造が長く続いたせいで、地方自治体は赤字地方債を積み上げつづけました。
彼らの自立する力さえも奪ったのは歪んだ再分配を続けたからです。
貧困者でも保護を受けていない人は好きな所に住めばいいのです。
生活コストを下げようと努力しない人に保護費用を上げるのは、無駄を省かないのに税金を上げようとしている政府を容認していることと同じですよ。
とりあえず今一度立場をはっきりさせておきますが、
本件に関して僕自身は貧しくなってしまった地方民自身が悪いと思った事はありません。
むしろ不必要に彼らの要求を聞きすぎてきた司法や政治家に問題があると思ってます。
仰る通り住居の自由はあるのですから、誰でも好きな所に住めばいいのです。
そしてその地域が不便な場所なら、そこでのサービスコストの増加は自己負担なのは当たり前の話。
移動可能な人間が、移動もしたくないしサービスも良くして欲しいというのは
トレードオフを無視した過分な要求であり、そんな要求は普通呑みません。
人口移動の趣旨には賛同いたしますが、もと記事の話は、別に生活保護者に車を与えよう、という話ではなく(タイトルはそう読めてしまいますが)、生活保護申請の際に、自動車を必需品と見なすことに過ぎないのではないかと思いますが。
生活保護自体は車の維持費の分上乗せするわけではなく、決まった額からやりくりするのでしょうし。
引っ越し1回分くらいは妥協してもいいかと思いますけどね。
アメリカの田舎に行ったら警察が来るのに時間がかかります。それまでの間、自分の拳銃で対処するのは当然でしょう。それと同じです。近くに交番作ってくれってのは、税金の私物化と同じ琴だと思う。
そうです。ただ「決まった額の増額を認める」という点に関しては同じで、生活保護自体が機能し辛い現状では効果は見込めません。
生活保護を現状以上に充実させると都市への移転を妨げますから、
結局は国は自分の首を絞めている事になってしまいます。それを赤字国債が積みあがっている今認めるのはちょっと時代錯誤だと思いますね。
>KKK
物騒なハンドルネームですがご意見には同意です。僻地とリゾート地が違うものだと思っている方が沢山いらっしゃるのはちょっと問題ですね。
富士山の自販機が500円でも文句が出ないのに病院や警察が側に無いから怒る、というのは
僕にとっては酷く矛盾しているように思えます。
こんなwebの最果てのblogを見つけて下さる方が増えました。ありがたいことです。
またいらして頂けると嬉しいです。
>生活保護を現状以上に充実させると都市への移転を妨げますから
おっしゃっているのは生活保護政策と限らず社会政策の大枠、方向性のことだと思います。その方向性(都市への移転の促進)には賛同します。
生活保護申請者がいたとして、申請者の車を売り払い生活費に充当させ、それでも生活が成り立たなくなる段階で初めて申請を認めるよりは、所有はそのまま認めた上でその維持費は本人の自由に任せる。本人が維持費と比較してメリットがないと判断すれば手放すのでしょう。そのくらいでいいんじゃないかと思います。
車を売り払ってもたかが知れているし(車にもよるでしょうが)、それだったらば使い倒した方がメリットが大きい、という状況にある人も少なくないと思います。