尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

健康な人は「超多重人格」である

2017-06-13 08:20:03 | 
前回(6/6)は、応声虫現象を二重人格の観点で見た場合の注目すべき三つの見解を紹介しました。一つは応声虫と病者との「反復型」やりとりを「内面の葛藤」の現れとしてみること、二つは応声虫の「対話型」の反応に、病者の隠れていた無意識の人格化(ユングのいう「影」)を認め、それが主人格を脅かすようになるばかりでなく、全体の均衡を取り戻す、すなわち健康への契機になり得ること。三つ目は、応声虫が二つ目の「影」と同様に自己回復力を持っていること。これを日常生活の悩みに当てはめてみますと、悩みは、何かを悩むようになったプロセスそれ自体に解決力が秘められているということができるでしょう。さて今回も優れた見解を紹介することができます。人格の「多重性」という問題をどう理解するのがよいか、についてです。


《以上、「応声虫」を「二重人格」の観点から考えてきたが、このことは、現代人の心の健康を考えることにも繋がってくる。それは人格の「多重性」という問題である。一般に私たちは、家族に対する時と、職場の同僚や上司に接する時とでは、言葉遣いや態度を変えている。この場合、表層部であっても人格の一部に微妙な変化が起こっていると見てよい。この意味で言うなら、人格のありようは、一人でいる時と相手がいる時とでも違いがあるし、たとえ同じ相手であっても、会う度に変化すると言ってよいだろう。仮に、友人相手のリラックスした状態の事故のありようを、そのまま告別式の時にも持ち込んだ場合のことを想像すれば明らかなように、その時、その時の対人状況にふさわしく自身のありようを柔軟に変えていかなければ、直ちに適応上の問題が生じてくるわけである。中井久夫氏はサリヴァン(H.S.Sullivan)の論を発展させて、健康な人は「超多重人格」であること指摘している。氏は、「人格がある程度多重性を持ちうることが、精神健康の条件であるとさえ言うことができそうである。(中略)精神健康は、ある程度の深さの人格多重性、それも相互認知性の多重性を許容し得るような状態と考えられる。この耐性に精神健康の一つの根があるということである」と論じている。この指摘は重要である。「多重性を許容し得る」ということは、多重性であることによって抱えこむことになる矛盾や葛藤に何とか折り合いをつけ、自己を維持することができる力のあることを意味している。二重人格、あるいは多重人格(解離性同一性障害)では、この力が弱まったために人格の凝集性、統合性が薄れ、分断化の状態に至ると言ってよい。あるいは、「影」の概念を用いるなら、「多重性を許容し得る」力の衰えによって、「影」の人格化が肥大して、主人格を脅かすまでに至ったものと見なすことができる。このことは「応声虫」にも当てはまる。ただし。「応声虫」や「同時性二重人格」の場合は、人格交代型の二重人格(継時性二重人格)と異なり、中井氏の言う「相互認知性」は保たれている。すなわち、「応声虫」における主人格と「虫」(「虫・人格」✳︎)との「相互認知性」は、前に述べた「応声虫」の持つ通路と密接に繋がっている。「応声虫」の良好な予後は、このためであると考えられる。》(『「腹の虫」の研究』名古屋大学出版会 二〇一二 四六〜七頁)


引用中✳︎印は「第二人格」のことです。また中井久夫氏の言う「相互認知性」とは、とりあえずお互いが自分が何者であるかを知るために他者を必要不可欠な存在として認知することだと考えておきます。また、本書の注によれば、サリヴァンの人格論の邦訳には、『現代精神医学の概念』(みすず書房 一九七六)『精神医学は対人関係の論である』(みすず書房 一九九〇)が紹介されています。また中井久夫氏のサリヴァンの論を発展させたという議論「二重人格はなぜありにくいか」は、『分裂病の精神病理15』(東京大学出版会 一九八六 八一〜九六頁)に収録されていることがわかりました。引用で私が「優れた見解」だと思ったのは、上の引用中著者が指摘した箇所(下線部)です。

これと似た考え方で思い出すのは、いじめ問題です。いじめが社会問題と化し、大いに非難された子供のいじめでしたが、いつの頃からかいじめは大人の世界にだってあるし、昔からあるじゃないかという意見が当たり前になってきたことです。これは発想の転換を促しました。転換の方向は過去(歴史)にありました。私自身が経験したことでいえば、小学校教員になりたての頃「子供は家庭(世間)をしょってくる」ことに心づいたことです。学校で何か「問題行動」を起こしたとすれば、その行動を直ぐ悪と見なしてあれこれ対処するのではなく、悪と思われがちな行動そのものが、子供の生活史の現在を意味するという見方です。このような見方は、現在では教育実践の常識となっているかもしれませんが。この考え方をすこし一般化してみますと、社会で解決すべきだと問題にされることは、たいていは過去の歴史ですでに経験済(解決済だという意味ではない)だということになりましょう。とすればやはり歴史に学んでみるしかないわけです。にわかに中井久夫氏の論文が読んでみたくなりました。外はあいにく雨ですが地元の図書館に探しに出かけてみようと思います。


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