尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

子供に注意をするときの大人の拠り所

2016-10-11 05:34:53 | 

 前回(10/4)は、第四章「おとなの注意と子どものふるまい」における一つめの話題、すなわち学園内のがけの上と下で石を投げ合って遊んでいる一年生の子供に注意をしたおばさんと、子供たちのふるまいを観察した記録を紹介しました。今回はもう一つ、学園の事務をしているおじさんの注意と子供たちのふるまい、それに、二つの話題を比較考察した庄司和晃の研究を紹介しましょう。(太字部分は原文では傍点箇所)

 

Ⅱ 事務のおじさんと子どもたち

 学園の事務をしている小野さんも、やはり池の近くを通りかかったときのことである。一年生のワンパク小僧がふたり、道の小石をひろって池のなかにほうりなげている。

それを見つけた小野さんは、

「おーい、そこに石なげちゃいかんよ」

と声をかけた。すると、

「知ってるよ」

といかにも〝何いってるんだい〟といった顔つきでチラッとこちらを見た。

「知ってるなら、どうしてなげるんだい」

「だって、おもしろいんだもん」

「おもしろいたってきみ、この石どっからもってきたか知ってるかい」

「・・・・・」

「知らんだろう、この石はね、学校で高いお金を出して買ったんだよ」

「どこから」

これには小野さんも少々まいった。

 子どもにはこういう問いかけがなかなか多い。こちらが大まじめになって話しかけているととんでもないようなことを途中でポコンと聞かされるためにせっかくの意気込みも割りびきされてしまうばあいがある。つまり、話の腰がくだかれてしまうのだ。

「どこからって、・・・ザリやのおじさんからだよ」(ザリ:砂利、砂混じりの小石、ジャリ──尾﨑)

「そのおじさん、何でもってきたの」

「トラックで運んできたんだよ」

「いつ」

「いつって、きみ、このまえだよ。雨ふるとこの道どろんこになるだろう。歩くのに大変だね、だからザリを買ってきてまいてあるんだよ。この石なげられちゃ困るんだよ」

ふたりはだまってしまった。そして、

「もうかえろうか」

「うん」

池のそばから立ち去っていった。

 

Ⅲ くらべてみたときに思うこと

 ふたつをくらべてみると、どちらにもそれ相応の味があって優劣のつけようがない。

 ただ草間さんと小野さんのあいだには根本的な相違点がたったひとつある。

 それは、草間さんは先生というある権威をもちだして石なげをやめさせようとしているのに対して、小野さんはあくまでもすじみちたったとりあつかいをもってなっとくさせようとしている点である。

 小野さんは、

△     ぼくは学園の事務をしているものだ

△     ぼくは小学校の先生のひとりびとりをかく知っている

△     きみは何年生で何組か

△     うけもちの先生はだれか

というような権利をふりかざして〝池に小石をほうりなげること〟やめさせようとはしていない。これはささいなことのようでかなりだいじなことである。

 わたくしたちがたびたび経験することだけれども、相手がりくつぬきの権威をもってたちむかってくると、〝何を〟というレジスタンスの気分がおこってくるものだ。

 子どもだってそうである。この気分のあらわれが草間さんと子どもとの交渉のなかにほんのりと出ている。たしかめのふるまいとなって。

 おばさんは〝やめなければ先生にいいつけてやる〟といった。そればかりか〝1年生の先生をよく知っている〟ともいった。

 この子どもたちにとって、これほどぜったい的なものはないはずである。

 したがって、ここではじめておばさんが子どもの世界に関係をもってきた。子どもたちが顔を見あわせてささやきあったのも無理はない。しかし、どうもウソくさい。相手が知っているというならひとつたしかめてみようじゃないか、これが子どものレジスタンスの気分である。

 ここからあのたしかめのふるまいがるるとしてつづいていく。

 たしかに1、2年生のよしあしのキメテは先生におかれている面がひじょうにつよい。なかでも校長さんとうけもちの先生はその最たるものである。

 小学校にあがるころになると、子どもたちは〝先生のいうことはよく聞いてしっかりまもるんですよ〟としつけられる。〝おとなのいうことはよく聞きなさい〟とはめったにおしえられない。世間一般のおとなはまったくのアカの他人で、先生のいうことだけがぜったいだ、というふうにしこまれている。

こういう子どものしたてかたはけっしてのぞましいものではない。

1、2年生の子どもの気もちがそういうそとのものによってととのえられるのは事実であるにしても固定したぜったいの権威といった形で子どもに対すべきものではない。

しかし、わたくしたちのまわりには、それがあたりまえなものとなって通用している。

たとえば、水道工事をじゃまする子どもたちにむかって、おじさんたちは、

「こら!」

「コノヤロウ、さっきからみているといい気になりやがって。なぜ土をくずした!」

「どこの学校だ! 成城だナ、いいなりしゃがって」

「先生呼んでこーい」

といったようなコトバをあびせかける。

 こういうようなことはちょっと気にかければいくらでも見つけだせるものである。

 そして、先生の権威がきかなくなるころには、おまわりさんが登場する段とあいなる。

 モノごとの道理、みんなのしあわせをまもるためにつくったさまざまなきまりに権威がおかれずに、いつも自分より上にあって監督するひとに権威がおかれてみちびかれるということは、子どもにとってふしあわせなことである。

なぜなら、自分で判断し行動する、そしてそれに責任をもつ、という心づかいの成長してくるヒマがあたえられないからである。

(『コトワザの論理と認識理論──言語教育と科学教育の基礎構築』成城学園初等学校 一九七〇 三一三~四頁)

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