今回から庄司和晃「子どものコトバと行動についての諸考察」(一九五六)の第五章「うらおもてのあるコトバとほんもののコトバ」に入ります。この章を一読してみると、ここに著者の言語観が横たわっていることが伝わってくる興味深い議論です。それは表題にもあるように「うらおもてのあるコトバ」が言語構造の二重性を示し、「ほんもののコトバ」がその構造を支える土台的な言語を意味していると思われるからです。さっそく紹介していきます。
≪Ⅰ お母さんのモノのいいぶり
お母さんを子どものコトバの世界にさそって〝目きき〟にする、などというとあつかましい言いかたになるが、父兄会や授業参観のおりおりに子どものコトバについて話しあっていると、お母さんのモノのいいぶりがすこしずつこまかになっていくことは事実のようである。
A君のお母さんは、1年生の1学期のころ子どものことで学校を訪問したり、道や電車のなかでお会いしたりすると、
「まあ、せんせ、しばらくでした。おかわりございませんか。そうですか、あのネ、せんせ、うちの子は、ちっとも勉強しないんですよ、あそんでばかりいて。どうしたんでしょうか、こまってしまいますわ。せんせからひとつ、勉強するようにいってやってくださいませ。せんせのいうことはよく聞きますからね。学校ではいかがでしょうか、せんせ」
と、おっしゃったものでした。わたくしは、その問いかけのまえにいすくんだまま、とりとめのないことをボソボソいっていると、
「そうですか、せんせ、よろしくおねがいします」
と、いって、足どり早くお帰りになったものでした。
こんなことを、あとになってから長年の老経験者におたずねしてみると、
「そりゃ、君、一種の外交辞令だよ。ながくってなあ、まじめに答えていると聞いていないしね、だからほんとうの問いかけかどうかを見やぶるには数年かかるよ」
と、いわれたものでした。
むろん、これは特殊なケースであろうが、まじめな問いかけをしてもこういう一般的な総括的なものはなかなか多いのである。
しかし、これはしごくもっともなことともいえるので、受持教師は、全般にわたるにせよ、一部にせよ、くわしく返答する義務のあることはとうぜんである。
だが、できうることなら、もっと全体からえらびとって、こまかにいういいかたがぜひほしい。
さて、A君のお母さんの2学期ごろは国語の勉強が主になる問いかけでした。
「先生、このごろ家では帰ってから30分勉強させているんですよ、そのあいだに友だちがさそいにきても、待っていてもらうのです。国語でおなじところを3回もくりかえして読ませているのに、まだスラスラ読めないんですよ。家の子はひどくおくれているんでしょうか」
これはまったくしんけんな問いかけである。と、いってもまだまだ一般的なモノいいはくずれていないが、よほどこまかな口ぶりの方向へふみだしていることだけはうなずかれよう。
そして、3学期ごろ、
「先生、うちの子どもはね、まだ新宿と渋谷の区別がつかないんですよ、たびたび連れていくのに、新宿へいって、ここ渋谷だね、なんていうもんですから、がっかりしてしまいますわ」
と、おっしゃり、また、
「先生、うちの子はね、毎朝コーヒーかココアか紅茶をいただいているのに、まだ区別がつかないんですよ。ココアをコーヒーといってみたり、コーヒーを紅茶といってみたりするんですよ」
と、おっしゃるお母さんになってきたのである。
わたくしは、これを耳にしたとき、これはいい、これこそホンモノのモノいいだと内心うれしく感じたものだった。
こうなったお母さんの何人かには長い休みのとき、コトバ拾いにくわわってもらうことにしている。
2年生の夏休みのときは、子どもの〝自然交渉のすがた〟を知りたいと思ったので、そういうテーマのもとに拾ってもらったことがある。
そのことばのかずかずから、
・とくいになりたがる子ども
・ほんとうの子どもの満足とは
・のぞましい自然交渉のありかた
をたしかめていってみたいと思う。≫(『コトワザの論理と認識理論──言語教育と科学教育の基礎構築』成城学園初等学校 一九七〇 三一五~六頁)
「うらおもて」を「ホンネとタテマエ」と言い換えれば、タテマエは一般的なもの言いを求め、ホンネは具体的なもの言いを求めると、一応括ることができそうです。ホンネをほんとうに言いたかったことと受け止めることはまちがってはいませんが、「ほんとうに言いたかったこと」とは、他者との対話をキッカケに立ち上がる、自己対話によって養われる「思い」を意味します。この表現が庄司のいう「ホンモノのモノいいだ」と考えます。これは、深化していくことによってホンモノになっていく存在なのです。たいていは「深化」の途上にあります。庄司和晃はこのことを、小学生のコトバ研究を通して十分に了解していたと思われます。ホンモノの「お母さんのモノのいいぶり」を導入にして、いかに小学生のコトバを研究していったのか、これを辿っていきたい。