尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

少年兵への憧れ 三つの動機

2016-10-14 13:04:21 | 

 前回(10/7)は、安田武の「〝体制〟に殉じた血──少年兵たちの時代背景」をから、陸軍少年戦車兵学校の設立の時代背景を確かめました。一言でいえば、「近代戦」の要求でした。おそらく当時の少年たちが戦車兵のどこに憧れたのか、と問われれば、やはり少年たちの眼には、メカニックな戦車が近代戦を象徴する存在と映っていたものと思われます。今回は海軍に憧れた少年兵の事例を紹介します。安田武が引用するのは、戦艦「武蔵」の搭乗員だった渡辺清の回想です。

 

≪陸軍ではなかったが、十六歳で海軍少年兵を志願し、超弩(ド)級戦艦「武蔵」に搭乗して文字通り九死に一生の生還をした作家の渡辺清は、少年兵当時を顧みて、次のように書いた。

──僕は子供の頃から兵隊が好きだった。わけても「スマートな海軍」(僕にはそう思われた)に強く魅かれていた。狭苦しい山国に育った僕にとって、広々とした青い海と、その上を自由に走り廻ることの出来る船というものがたまらない魅力だった。ことに「雄大な構成美」をもつ「さっそう」とした軍艦へのあこがれは強かった。これには「艨艟(モウドウ:軍船)海を行く」の映画や、雑誌などによく出てくる軍艦の写真や絵、また教科書にあった「軍神広瀬中佐」や「軍艦生活の一日」、「日本海海戦」、「勇敢なる水兵」などの物語、受持教師から聞かされた面白い遠洋航海のエピソード、たまに見かけるしゃれたセーラー服、勇壮な軍艦マーチの旋律等、それに学校での徹底した軍国主義的教育の影響が大きい。また時代も「兵隊にあらずんば人間にあらず」という状況で、どこへ行っても「兵隊さん」が幅をきかせていた。すでに日中戦争が始まっていて、兵隊は「時代の花形」だったのである。僕はまわりで兵隊がそのようにそのようにチヤホヤもてはやされるのを見たり、聞いたり、また新聞や少年雑誌でいろんな勇ましい「戦場美談」を読んだりして、自分も早く大きくなって「国のタメ」「天皇陛下のタメ」に直接役立つ兵隊になりたいと思った。それしか考えなかったといってよい。そんなふうだったから、僕はすでに小学校三、四年頃から、将来自分は必ず兵隊になろう、兵隊で一生過そう、と固く心に決め込んでいた。当時の心境をいま動機論的に一応要約してみると、「俺みたいな百姓の子だって兵隊になりゃえらくなれるんだ」(出世意識)「国を守り天皇陛下に尽せるのは兵隊だけなんだ」(忠誠意識)、そして「その兵隊で死ねば俺みたいなやつでも天皇陛下がお詣りしてくれる靖国神社の神様になれるんだ」(価値意識)ということになろうか。/こうして僕は、幼時から「国家の規格品」として身ぐるみ兵隊につくられていたのだ。つまり、生まれ落ちてから一本調子に戦争の末端に組みこまれていたのである──(「少年兵における戦後史の落丁」『思想の科学』昭和三十五年・八)

山中恒のいうとおり、存在として、戦争〝体制〟加担者たらざるをえなかった少年たちの、いつわらぬ姿と感慨が、いみじくも剔抉(テッケツ:悪事などをえぐってほじくりだす)されている。渡辺清の「戦後史」は、だから、激しい自己否定に始まった。≫(『別冊1億人の昭和史 陸軍少年兵』毎日新聞社 一九八一 二五六頁)

 

 幼い頃から兵隊さんに憧れ、海軍に少年兵として志願した渡辺清が、当時の心境を動機論的に要約したものによれば、①兵隊になれればえらくなれるという出世意識、②臣民として天皇に尽せるという忠誠意識、③靖国神社に祀られるという価値意識の三つを挙げています。これらがどこでどのようにして養われるようになったのか。これを調べることが、今後の私の課題ですが、ここにでは、①②③の各動機から窺われる世相的特徴を挙げておきたいと思います。まず、①の出世意識からは、戦争下であるとはいいながら社会の階層移動は流動的だったと思われることです。いいかえれば、自分の境遇(たとえば貧困)を否定的に眺める者からは、そこから脱出する機会を得られた時代だったこと。②の忠誠意識からは、当時の最上道徳を実践する分かりやすい方法を与えたことです。要するに、どう生きればいいかは社会的に一義的に決まっていたので、ほかの生き方を考えなくてよかったことです。しかし、自分にとっての問題を考えずには済まなかった者には大変辛い時代だったことが想像できます。③の価値意識からは、当時は兵隊にとっての死後のイメージまで提示していた時代であったことがわかります。逆にいえば、死んでまでも天皇制国家に収容されることが名誉とされ、しかも銃後を支える家族のともかくの安堵であったらしいことです。そして①~③までの動機の実現は一つの物語、一つの典型として称揚する世相の支持があったことが重要です。それゆえ少年兵たちの生き方を強く拘束したと思われます。少年が正直に生きようとすればするほど、これ以外の進路を考えることが難しかったはずです。

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