尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

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飛び越し外交は対馬藩の大問題

2016-10-31 11:52:05 | 

 前回(10/24)は、朝鮮通信使が帰国した後の幕府と対馬藩のへだたり(懸隔)についての話題でした。そのような関係の最中に、帰国時に通信使が崔天宗殺害事件の処分の詳細を知らせてほしいという要請したことを巡って、幕府と対馬藩の懸隔は増幅されることになったことを紹介しました。これが「伝達問題」です。当初、幕府は通信使の要請を拒否していましたが、にわかに方針を転換します。対馬藩をとばして以酊庵の長老を通じて朝鮮と直接交渉し先の「要請」に応えようとします。「以酊庵(いていあん)」とは、以前に紹介しましたが、もともと外交文書(漢文)をチェックする専門家僧が居た処です。ここに幕府が直接専門僧を派遣するようになって幕府の出先機関化していました。仕事は輪番で当ったようです。このような幕府のやり方への対馬藩の意見書(幕政批判)が草案され江戸家老を通じて老中に提出されますが、今回からこの草案を読んでいきます。池内敏『「唐人殺し」の世界──近世民衆の朝鮮認識』(臨川選書 一九九九)によれば、対馬藩の意見書の論点は三つあります。「伝達」行為の手続きへの不満が一つ(a)。次に「伝達」するのは丁寧すぎるという反論が二つめ(b)。最後はなぜ丁寧すぎてはいけないかという論拠が三つめ(c)です。まず一つめを紹介します。原文では(a1)(a2)(a3)に加えて下線が引いてありますが、見にくいので記号を太字にするだけにします。

 

仰せ上げらるる草案

今般来聘した朝鮮通信使を伴って帰国の途中、大坂において崔天宗を対馬藩通詞鈴木伝蔵が殺害した一件につき、右の事件に関わった者どもの御処置が済んだならばその内容を知りたいと(朝鮮通信使の)三使が大阪を発つ前に(通信使接待に同伴していた)以酊庵長老へ申入れていたとのことです。そこでこのたび右御仕置の内容について真文(漢文)で文書を作成し、(徳川幕府)朝鮮通信使御用掛中の連名で対馬にいる以酊庵輪番瑛長老のもとへその文書が参り、瑛長老を介して朝鮮国へ(その文書を)送るようにとの御差図があったと聞きました。また、右の文書に(幕府)御用掛中からの添状も併せて瑛長老を介して朝鮮国へ送るよう(中略)朝鮮国については、そのむかし私先祖の代に日本と御通行の道を開き、その後、御神君(徳川家康)御治世のときに改めて御隣誼を結ばれた最初のときから、年々派遣する使者や文書については、それに関する約条を定めてきました。(対馬藩では)先祖代々朝鮮国より図書をうけ、この図書が無ければ朝鮮側は決して文書を受け取らず、公命(幕府命令)で文書を送る必要が生じた際には参判使と呼ばれる使者をたてて文書を送るという約束になっています。a1したがって対馬藩を介さずに脇筋から文書を朝鮮側へ送ろうなどということは曽て無かったことです。公命(幕府命令)については、そのために代々朝鮮押さえの御役儀を仰せ付けられてきた私(対馬藩)を介して(朝鮮側に)伝えるのであって、脇筋から伝えるというのは御神君(徳川家康)以来なかったことです。a2ことに今度の場合は私(対馬藩)に何らの御差図もなく、右の(御仕置の内容を伝えるという)文書を以酊庵長老を介して(朝鮮側へ)お送りになったときには、第一に私が勤めている御役儀の筋が立ちません。そもそもa3以前からの約条もあることですから、以酊庵長老から(直接に)文書をお送りなった場合、朝鮮国は(その文書を)受け取ることはありますまい。その場合は却って問題なのではないでしょうか。≫(次回に続く)(前掲書 四十一~二頁)

 

 以上、対馬藩の意見(反論)の一つめは、<幕府→対馬藩→朝鮮>の外交ルートなら受け容れられるが、<幕府→以酊庵→朝鮮>のルートは承服できないというものです。実際の担当部署を抜きに異文化交流もなにもあったものではありませんが、対馬藩の根拠は引用中の「図書(としょ)」という用語に象徴されているように思えます。「図書」とは何でしょうか。もちろん図書館の書籍のことではありません。これは日朝外交史で使用された「図書文引(としょぶんいん)」の「図書」のことです。「図書」は朝鮮側が発給した銅印のことで、そこには発給を受けた日本人の実名が刻まれていました。「文引」は図書を押印した渡航証(渡航する際に携行すべき文書)のことです。だから、朝鮮と通交するにはまず「図書」と呼ばれる銅印を発給してもらう必要があったのです(平凡社『世界大百科事典』)。つまり「(対馬藩では)先祖代々朝鮮国より図書をうけ、この図書が無ければ朝鮮側は決して文書を受け取らず、公命(幕府命令)で文書を送る必要が生じた際には参判使と呼ばれる使者をたてて文書を送るという約束になって」いたと対馬藩は主張しているわけです。

 また「文引」(渡航証)の発行権は一四三六年以降、対馬島主の宗氏が朝鮮側の了解のもとで許可されるようになりました。当初は対馬島内の渡航者を対象にしていましたが、やがて島外にも適用されるようになり、もちろん「図書」を受けている日本人も渡航するときは携行を義務づけられていました。また重要なことは、発行の際に対馬藩は手数料を徴収し、貿易品にも課税を行っていたことです。この「文引」の発行制度は、日朝間の通行統制策のなかで、特に宗氏の独占体制を可能にしたのです(前掲事典)。つまり、<幕府→以酊庵→朝鮮>の外交ルートなどはとんでもないことで、単に対面を汚されたなどいう以前に、日朝貿易による収入に大きく依存する対馬藩の財政基盤を揺るがすほどの大問題だったことがわかるのです。

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