尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

幸五郎の相談に八右衛門はどう応じたか

2017-08-10 12:15:10 | 

 前回(8/3)は、前々回の補足を綴ってみました。八右衛門は十一月二十三日の夜中に勧農附属である力丸村の幸五郎から使いをもらい、百姓たちが騒いでいる件について相談したいと乞われ出かけた先での話です。くり返しになりますが幸五郎の相談とはこうでした。この日の昼に近隣の七ヵ村の百姓惣代たちが勧農附属の自分のところに、「年貢増米御勘弁」の訴えに来たのでこれを上の役所に取次ぎましょうと返答して帰した。しかし夜になって百姓たちが大勢あつまり気勢を挙げているのはどうしたことだろうか。これは、昼間彼等に「年貢増米御勘弁」を主張できるのは、それを負担できない百姓たちだけであって、負担可能な「相応の御百姓」が訴えに参加するのを、前橋役所から調べに来たときにどう「申しわけ」すべきか覚悟しておけと言った。このことがキカッケになって「相応の御百姓」たちが急にどうしたらいいのかと騒いでいるのではないだろうか。勧農附属の自分と、勧農野廻り役で名主の八右衛門の二人で、騒ぎを取り鎮めにいくべきではないかという相談でした。これに対して八右衛門はどういう返事をしたのか。今回はここを読んでみたいと思います。引用は、いつもの深谷克己『八右衛門・兵助・伴助』(朝日新聞社 一九七八 五八頁)に引用されている八右衛門が書き残した『勧農教訓録』からです。

 

仰せの通り罷り出、差しとめたき義に候へども、何の訳もなくただ止りくれ候ようニ申し聞け、相とまり候へバ宜しけれども、かく迄大勢同意いたし、騒立候義、若(も)し、かの者共中ニは、御両人〔幸五郎と八右衛門〕の仰せ承知仕り候へども、一同の者共義もかく騒立候義ハ、御上に対し恐れあり、容易の義には御座なく候。先刻も申上げ候とおり、難渋旦夕〔たんせき:明け暮れの意〕に相迫りよんどころなくかくの仕合せ〔始末〕なり。いずれ御意〔今度の年貢増米の触れに〕ハ背き申まじ。さしあたり御年貢不足の処御勘弁なし下されたく、この段御請合い下されバ、何ゆえに父母妻子もこれある者ども、かよう(なる)義〔訴えと騒ぎ立ち〕相望ミ申べきや。御返答承わりたくなどと申さバ、上より御勘弁の義は斗(ハカ)りがたく急度(きっと)請合義も相なりがたかるべし。若し御勘弁なき時ハ、いかようニもいたし相救うべき手当もなく、その事は受けあいがたく、只とまり呉(くれ)候様とばかり申してハ、止まるべき形(ママ)も見えず、そのうえ、かく大勢の事なれバ悪口狼藉もはかりがたかるべし。いかが。(巻之一)

 

 深谷氏は、上の八右衛門の対応について、幸五郎が三八年前の天明三年の打ちこわしにあった酒屋と質屋をいとなむ羽鳥家に繋がる者だと当然知っていたと推測したうえで、八右衛門は幸五郎に対して反発を感じていたことを読み取れると書いています。たとえば、「難渋旦夕〔たんせき:明け暮れの意〕に相迫りよんどころなくかくの仕合せ〔始末〕なり」とか、「何ゆえに父母妻子もこれある者ども、かよう(なる)義〔訴えと騒ぎ立ち〕相望ミ申べきや」には、たしかに八右衛門の百姓たちに対する共感が読み取れます。さらにこの共感を幸五郎に対する反発が下支えしていると読めないことはありません。というのは、人間関係においては相手の考慮にはない事柄に大袈裟に共感することで、相手に感情的に反発することはありえるからです。しかし、どうでしょうか。まだ人間・八右衛門を掴みきれていない私にはまだ分らないところです。ともかく、幸五郎が百姓たちの身の上を心配しているのなく、百姓たちの騒ぎを知りながら何の手だても打たないのは自分の立場を危うくすると考えているらしいことは、すでに八右衛門に見抜かれていたことは確かなようです。

 次は引用古文書の一部の解釈について。引用の下から三行目以下に「只とまり呉(くれ)候様とばかり申してハ、止まるべき形(ママ)も見えず」とあります。この「形(ママ)」の解釈ですが、前後から判断すると、その意味は、騒ぎ立てしている百姓たちに対して、単に止めてほしいと言うだけでは、騒ぎがここまで大きくなった以上、上から何らかの咎めはあるだろうから、百姓たちが騒ぎを中止するだけの「理由」がほしいところだかそれもない、というふうに解釈することができます。深谷氏はこの本を執筆する上で、現在の林家に残されているの古文書版の『勧農教訓録』を利用していると思われますが、これを活字にしたものが『日本庶民生活史料集成』第六巻(三一書房 一九六八)に収録されています。これを参照すると、「形(ママ)」は「都(衛)」となっています。「衛」をヒントにすれば、幸五郎らが騒ぎを止めさせても百姓たちを「守る手だて」がない、と解釈しなおすことができます。引用の下から四行目以降「いかが」までの記述は、なかなかの迫力ではないでしょうか。八右衛門は自分らの説得を聞き容れて百姓たちが騒ぎを中止しても、前橋役所が訴えを受理しなかったらどうするのか、と幸五郎を問い質していきます。「いかようニもいたし相救うべき手当もなく、その事は受けあいがたく」と、かならず訴えが受理されることを自分が請け負うことを尻込みする幸五郎に、(百姓たちに)ただ止めてくれと言ったとて、彼らを「守る手だて」は見えない、こう迫っていったのです。ここの迫力からすると、たしかに幸五郎に対する反発もあったのかもしれません。

 この夜中は二人の白熱した話し合いになったのでしょう。幸五郎の家族が二人の話を聞きつけて騒ぎ出します。このときのやりとりを、深谷氏は以下のように描いています。「打ちこわし」にあった家が、どのような悩みを生きてきたのか、その一端がうかがわれます。

二人のやりとりを聞きつけて、羽鳥家では突然家内騒動がはじまった。無益なことだというのに幸五郎が勧農附属などという役目を勤めているからこういうことになる、打ちこわしにあえばどうするのか、この身代は風前の燈火のようだ。いやそう勝手にいくものでもない、という口論である。幸五郎にしてみれば、こういう役目柄のもつ危険性は心得てはいるが、羽鳥家の身代のことを思えばこそ、藩命にさからえぬ、と言いたかったのだろう。眼の前でいきなりはじまった口論に対して、八右衛門はいまいましさをかくしていない。これは「もっての外の義なり。しかし愚案致せしに、この家へ押寄せて狼藉の儀はこの度ハ決してあるまじくなり。その義いかんとなれバ・・・」(巻之一)と、舌打ちの聞こえるようななだめ方をしている。幸五郎が前橋役所へ向かったのは、十一月二十四日の未明である。≫(深谷克己前掲書 五九頁)

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