尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

大東亜戦争と英語の将来 諸家の意見

2017-06-17 09:14:55 | 
前回(6/10)は、第三節「『大東亜戦争』と英語の将来」に入り、雑誌『英語研究』(昭和十七年一月)での「編輯余記」を見ました。これは、研究社という出版社の、今次戦争の決意表明でした。その要点は「言論国防体制の完璧を期す」ところにありました。今回は先の雑誌と同年同月に発行された雑誌『Current of World』の特集を紹介します。特集名は「大東亜戦争と英語の将来(1)」です。その前口上には昭和十七年の戦況などの後に、こう書かれています。──《本誌は此処に大東亜戦争の進行と共に如何に我等の語学的知識を活用すべきか。大東亜戦争終了後の国際関係と政治、経済的並びに文化的に見たる英語学習の将来について普(アマネ)く諸家の意見を敲(タタ)き此処に次の如き回答に接した》(川澄哲夫編『英語教育論争史』大修館書店 一九七八 五六二頁)と。最初は、戦前戦後を通じて著名な憲法学者の宮澤俊義の意見です。もう一人は下村海南(宏)のものです。下村は官僚、新聞経営者、政治家、歌人で、玉音放送の時の情報局総裁でポツダム宣言受諾に尽力した人物(ウィキペディア)。


《【宮澤俊義】由来この世界の一国家として生存する以上、外国を知ることは必要である。そして外国を正確に知るためには外国語を知ることが何よりも必要である。従って、われわれは東洋語も西洋語も、できるだけ多くの外国語を今後ともますます研究しなくてはならぬ。

英語についていうと、英米そのほか英語の行われている地方を研究する必要がある以上、英語研究の必要はむろん今後と雖も決して消滅するわけのものではない。われわれは支那語を、ロシア語を、ドイツ語を、オランダ語を研究しなくてはならぬが、それと同様に英語を研究しなくてはならぬ。英米をやっつけたから英語を習う必要がないなどというのは短見のはなはだしきものである。外国語の研究を怠った例の代表的なものは最近のフランスにおいて見られるが、そのフランスはどういう目にあったか。外国語など知る必要がないとというような夜郎自大的思想を抱くようになると、フランスの二の舞になる恐れがある。心すべきである。

ただ、英語の従来の学校教育における取扱い方には改正を要する点が少なからずある。これらの点は時勢に応じて然るべく改正すべきこと勿論である。》(前掲書 同頁)

《【下村海南】こんな事が問題になるのはおかしい。英語を話すもの無くなれば無用となる。英語の話すものが少なくなる
又その利害関係が薄くなれば必要の度を減ずる。語は敵味方の別でない実用の要不要にある。これから英語を話す土地に入り、そこに仕事が増すほど英語の必要が多くなる。彼等に日本語の必要を増すと同じ事である。

ドイツでは攻める前に先づ攻める敵国の語を練習せしめている。これからがますます必要である。いや大分手おくれになっている。僕らは齢をとっているからでもあろうが、尤も長い間実際に間に合わぬように教え込まれた見本である。》(同前 五六三頁)


少し驚きました。これまで見てきた敵性語(敵国語)排斥の風潮に見られた感情的な議論とは一線を画す理性的な、(坂口安吾や菊池寛の意見同様)知識人であってみれば当たり前の意見だと思いました。引用では下村海南が「こんな事が問題になるのはおかしい」と書いていますが、本来ならば問題になるはずのない事が問題にされる時勢と言っていいのでしょう。知識人がこれほど冷静ならば、「時勢」を理由に煽っていたのはどうもメディア関係者だったのでしょうか。しかし下村海南は戦時下情報局総裁だった人です・・・。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 商業の発達は百姓と商人の関... | トップ | 「蝦蟇(がま)の妖術」に込め... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。