尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

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言語学者小倉進平の歴史を見通す冷静な評論

2017-07-08 10:23:11 | 

前回(7/1)は、雑誌Current of World(昭和十七年一月)の特集「大東亜戦争と英語の将来(1)」に寄せられた意見を四つよみました。そこでは画家・陸軍将校である武藤夜舟を代表に、その意外にリアルな英語認識に心づきました。引きつづき今回も英語及び英語教育について、①これまでどうだったか。②今どう対すべきか、③今後どう対していったらよいか、三つの観点から整理しつつ読んでいくことにします。

 

松波仁一郞(まつなみ にいちろう、我が国海事法学の創始者、一八六八~一九四五):日米英戦争の結果日本の東洋に於ける勢力は勿論、全世界を通じて大に増大するならんも、左(サ)りとて米国は滅亡することなく英国亦(マタ)世界の一国として其命脈を保つならん。故に英語の必要減ぜざるべし。貴会の云わるる如く「英語学習は帝国の東亜共栄圏確立に伴いその必要増大す」とは思わざるも、必要は減ぜざるべく先づ現在の如からんと信ず。小生なぞは益々英語を学習して、既版の英文著書(e.g.The Japanese Constitution and Politic,1940)の上に更に英書を著述して世界に自説を発表する考に有之候。

①英語は米英とともに命脈を保ってきた。②英語の必要性は減じないので益々学習せよ。③今後日本が東洋および世界で勢力を拡大しようとも米英は滅びず英語が健在。

 

村岡花子(むらおか はなこ、翻訳家、児童文学者、一八九三~一九六八):将来に於て、英語が今までのように、殆ど一本建ての世界語として通用するとは考えられません。日本語もぐんぐんと、先づ東亜の共通語として進出して行きましょうし、英語の位置も大分変るのでありましょうが、元来、私は言葉は武器のようなものだと考えて居ります。他国の言葉に精通することに依ってその国々について我々が必要とする知識を吸収することが出来ます。戦時にも、平時にも、語学にはみがきをかけて置きたいものです。そんな意味で、英語への実力は益々つけるように努めたいと考えます。

①これまで殆ど一本立ての世界語として通用してきた。②戦時にも平時にも英語にはみがきをかけておきたい。③これからは日本語も東亜の共通語として進出すれば、世界語としての英語の位置も大分変わるだろう。

 

山埼靖純(やまざき せいじゅん、評論家、一八九四~一九六六):根本的大理想から申せば、東亜民族が共に語り合うべき標準語は日本語に致し度いと思います。従って日本語の普及こそ急務であろうと思います。しかし乍ら、東亜の大部分はアングロサクソン侵入の遺産として英語が国際語になって居る現実を否定することは出来ません。またわが戦勝後に於いても世界に於けるアングロサクソンの文化がそんなに急に没落するものではありませんから、我々としても彼等の長は遠慮なく採り上げねばならないと思います。右の如き意味に於て今後と雖も英語の必要は大いに残ります。しかし、その必要の角度は大分変化を来しつつあることを認めなければなりません。そして従来の如く余り物にもならず役にも立たず、徒らに学生のエネルギーを空費させるが如き拙劣極まる英語の強制教授はもう止めて、気の利いた巧妙なる英語教授制度を新しく採り上ぐべきだと思います。

①東亜の大部分は英語が国際語になっているのが現実。②学生を消耗させる英語の強制教授はもう止めて、気の利いた巧妙なる英語教授制度を作るべきだ。③日本が戦争に勝ってもアングロサクソンの文化が急に没落するわけではなく、その長所に学ぶべき。したがって英語はその必要の角度は変わるが、今後も必要とされる。

 

大槻憲二(おおつき けんじ、心理学者、文芸評論家、一八九一~一九七七):英語学習継続の意義に就いて/一、何らかの外国語の学習は国民の識見及び知能の啓発に必須であるが、そのためには英語の学習を以て中心として、ドイツ語及び支那語を副的にすることが今後の方針たらしむべきことであると私は主張したい。従来のようにあまり英語万能的であるのは考えものであるが、併し英語が中心となるべしと主張する私の意見の根拠を次に挙げる。/二、英語が世界語としての資格を最も多く具えているため。英語は良い意味に於いても悪い意味に於いても、最も洗練せられた言語である。それは言語学者エスペルゼンも認めていることであるが、私の考えでは、それは英語の文法が最も簡潔であるためであると思われる。現に各品詞の変化規則単純で例外に乏しい。その代りに言語としての魅力に於いては独仏語に劣っている。私一個人の経験から云っても、英語は独仏語よりも学習に容易である。/三、その上、永い間の我が国の学習の歴史と伝統のために、英語学習の根柢が最もよく整備しているから、便利であること。/四、職業問題と云う見地から見ても、只今全国の英語教師または英語に依って生活している者の数は莫大なもので、これを一挙にして失業せしめることは由々しい社会問題を惹起す。日本の行政家はとかくあまりに感情的に極端なことをやり出すが、そういう軽率な挙動のないように、その効果の及ぶところを静かに察して、遠大の計画を樹てられんことを切に祈る。/五、東亜共栄圏は確立しても隣圏アメリカ英語国との敵対的又は友好的交渉は廃絶する筈はないからである。≫

①英語は世界語としての資格を最も多く備えた洗練された言語である。②「国民の識見及び知能の啓発」には、英語万能を廃し、英語を中心にドイツ語及び支那語を副的に学習を進めるべき。英語教師など多くを失業させるなど極端軽率な政策は慎むべきだ。③戦争に勝ってもアメリカとの交渉はなくなるはずはなく英語学習は必要。

 

小倉進平(おぐら しんぺい、言語学者、朝鮮語研究の礎を築く、一八八二~一九四四):英語を話す英米陣営が東亜から退却することとなれば、日本語の進出は最も著しくなり、また今日まで英語によってしいたげられて居た各種民族の土語が、それら民族の自覚と共に漸次台頭しかけて来るであろうことは殆ど疑いない。かくして英語は少くとも東洋に於て締めだしを食う結果になろうとも、英語としての価値には重大な変化が起ころうとは思われない。ギリシャ語やラテン語は死語ではあるが、それ自身の文化的価値が高かったために今日と雖も世人によって研究せられて居る。英語がここに没落の悲運に遭遇したとしても、その久しきに亙って築き上げた文化の足跡は容易に消失することが無いであろう。世間一般の風潮は、今回の欧州戦争の初頭に於て見られた如く、ドイツが優勢であれば直ちにドイツ語の学習が盛んになり、フランスや英国の旗色が悪ければ直ちにフランス語英語の学習に見切りをつけてしまう。これらはパンを得るための生活上の問題にも深い関係があるので、誠にやむを得ないことではあろうが、もう少し慎重に考えて貰いたいような気がする。東亜大戦争完遂の暁に於ては、もはや英語学習などがなくなるかも知れぬが、今から直ちにこれが不必要を唱え、これが排斥を行うが如きは、余りに浅見であり余りに軽率ではあるまいか。今日吾々は英米と戦いつつあるが、平和克復の後に於ては、いつまた従来よりも一層緊密な関係に結びつけられる場合があるかも知れないのである。吾々は大国民の襟度〔キンド:心の広さ〕を以て、世界の情勢を達観し、外国語の学習は、英語と限らず、茲(ココ)しばらくは従来のままの程度ぐらいで学習せしめて行くのが至当であると信ずる。≫(以上、川澄哲夫編『英語教育論争史』大修館書店 一九七八 五六七~九頁)

①東洋には英語によって虐げられてきた民族の歴史があるが、久しい間に築き上げた文化の足跡(価値)は容易に消失することが無い。②東亜大戦争完遂の暁には英語学習などがなくなるかも知れないが、今から直ちにこれを不必要だと唱えたり排斥したりするのあまりに浅見かつ軽率だ。「平和克復」の後には、英米との関係がより一層緊密になるかもしれない。だから従来のままの程度の英語学習を進めていくのが至当だ。③今後、英語は東洋から締めだしを食うかも知れないが、かといって英語の価値は変わらない。

 

 これまで諸家の意見を読んできて、①世界語としての英語の文化的価値や長所は変わらないこと、②したがって現在も英語学習は必要であること、③戦争に勝って大東亜共栄圏が確立しても英語の必要性はなくならない、という冷静な意見が多いことに心づきます。にも拘らず昭和十七年当時、適性語(敵国語)を排斥せよという風潮が盛んだったことを勘案すると、この時代の英語および英語教育に関する<世相>の構造は単層では無かったことが分ります。その表層においては、日本が戦争に勝って大東亜共栄圏が確立すれば日本語が国際語になるはずだ、英語なんか要らないという風潮が大きく膨らみながら、その内部(深層)では意外にも知識人の冷静な判断が流れていたことに思いが至ります。問題は冷静な諸家の判断が、社会の表層を席巻していた軽率な浅見を批判し沈黙させることが出来なかったことにあります。もう少し突っ込むと知識人の判断は、自身の専門的な教養から出る判断にあぐらをかいたままで、現前の大衆像を自分の<知>に組みこむことがなかったのでは無いかと想像します。このようにみると小倉進平の意見はすこし違って見えます。彼は、「英語を話す英米陣営が東亜から退却することとなれば、日本語の進出は最も著しくなり、また今日まで英語によってしいたげられて居た各種民族の土語が、それら民族の自覚と共に漸次台頭しかけて来るであろうことは殆ど疑いない」と書いていますが、これを「東亜の解放」を唱えて南下を主張した軍人及び官僚、あるいは商人筋の意見と同等視することはできません。東亜民衆の民族的なエネルギーについての歴史を見通す見解と、彼らを虐げてきたとはいえ、それに曇らされない英語文化に対する冷静な判断が読み取れるからです。このような小倉進平の知的営為には、現前の大衆像が射程に入っていたのではないでしょうか。すぐれた評論というべきです。

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