尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

村人の退転(出奔・欠落・不斗出)が招く枯村(かれむら)現象

2017-04-20 15:15:10 | 

 前回(4/13)は、林八右衛門がのちに巻き込まれていく難儀(「文政四年(一八二一)善養寺領農民減税事件」)を見ていく上で、その生き方は公人としての形式と内容が一致したものではなかったか、という私見を書いてみました。今回はその難儀が起きた東善養寺村を含む善養寺領(東善養寺村を含む)が当時どのような状況に置かれていたのか、著者・深谷克己氏の説くところを読んでみます。以前(2/23)にも書いたように前橋藩善養寺領は、明和四年(一七六七)に前橋藩主松平氏の川越藩移城にともない川越藩前橋分領に変り、川越藩の陣屋支配を受けるようになりました。

 

≪このころ、関東一帯に、また程度のちがいを考えれば全国的にといってもよいほどに、村の百姓数や家数や馬数が減り、そして作り手のいなくなった耕地がふえていた。農村荒廃いわれる現象である。前橋藩領では、中通り、西領、とりわけ前領の村々と善養寺領の村々で困窮がすすんでいた。たとえば群馬郡下公田村では、安永期(一七七二-八一)に家数六四件、人数二七九人であったが、文化九年(一八一二)には家数四〇軒、人数一四三人に減っている。三〇年あまりの期間に、二四軒、一三六人がいなくなったのである、公田村の分村にあたる茂右衛門分公田村をみると、安永期に四九軒、一七六人であったのが、文化九年には三四軒、一二六人、つまり一五軒、五〇人が減少している(『勢多郡誌』)。

 このように居村からいなくなることを「退転(たいてん)」と言ったり「出奔(シュッポン)」「欠落(カケオチ)」と言ったりもする。富田村は八右衛門の妻の出身村だが、ここでは「不斗出」と書いた。フ・ト・デと読んだのだろう。ふと出る、つまり急に離村するという意味であろうか。「不斗出」の百姓たちはどこへ行ってしまったのか。富田村の天保十四年(一八四三)の場合、「不斗出」一〇人のうち、村に引き戻された者が三人、前橋に一人、大間々に一人、野州の鹿沼に一人、大胡に一人、六供に一人、不明が二人、である(『勢多郡誌』)。村から逃げて町へはいりこみ、新しい暮しの道を見つけようとしたのである。このような百姓の離村は、抵抗の行動というにはあまりにも個別的で、ふつうは逃散(チョウサン)の範疇(ハンチュウ)にもいれず、社会経済史の研究では「農民移動」と呼んでいる。しかし、ひとりひとりの百姓にしてみれば、高率の年貢を皆済するための借金、しだいに比重を増してくる購入肥料のための借金、それがかさんで返済不能となり抵当にいれておいた耕地を失う、おそらくそのような原因からの身代潰れにつづく「退転」「出奔」「欠落」「不斗出」という過程が、前橋藩の役人や高利を貪る者に対する憤りをこめながらの懸命の決断であったことはまちがいない。

 八右衛門の村も、荒廃村の一つであった。東善養寺村は、上り地(あがりち)・手余り地(てあまりち)が増大し、「次第に村方衰え」(巻之二)という事態が進行していた。八右衛門は、このような状況を「枯村(かれむら)」という言葉で的確に表現している。文化五年(一八〇八)に江戸へ「欠落」した八右衛門の場合も、村の移り変りという角度からとらえれば、農村荒廃期における一人の「欠落」百姓ということになろう。この村は、上り地や手余り地が多くなっただけではない。実際に作付けされる土地も、そのうちのかなりの部分が他村からの出作(しゅっさく)百姓の手によってどうにか耕地として維持されるようになっていた。八右衛門が名主に復帰した当時、東善養寺村の百姓は二九軒、家族も入れた人数が一五〇人になっていたが、そのほかにこの村のなかに所持地をもち耕作するものは、西領の@駒形新田から五三軒、隣村の中内村・山王村から二〇軒、伊勢崎藩領今村から二四軒、あわせて九七軒もの出作百姓があった(表略)。軒数だけで言えば、東善養寺村の耕地で農作をおこなう百姓一二六軒のうち、じつに七七パーセントが他村の百姓だった。

 百姓をかならず特定の村に所属させて、その村の石高に年貢や諸役を課して村請(むらうけ)のかたちで上納させるのがこの時代の支配の方式だったのだから、たとえば駒形新田から八右衛門の村へ出作する五三軒の百姓は、本来は四三三石四斗七升余の村高をもつ駒形新田に村請のかたちで課せられてくる年貢や諸役を負担する百姓である。だから、「枯村」の状況の内容の一つとして、このような出作あるいは入作(いりさく)関係が進行することは、百姓を特定の村に所属させて、そのなかの所持地に「土地緊縛」するという原則からみるとあきらかに弛緩した状態を示すもので、結果的にはこのようなかたちで年貢がとれたとしても、本来の権力基盤としての村のありかたという点から考えれば、きわめて危機的な構造になってきていることは疑えない。≫(深谷克己『八右衛門・兵助・伴助』朝日新聞社 一九七八 二九~三二頁)

 

 出作・入作とは村請の範囲をこえて他領の土地を耕作することですが、耕作地は同じ領地内と他藩領地の耕作地の両方あったことが分かります。また年貢はどこに納めるのかと言えば、耕作地が属する藩に納めるかたちになると思われます。半分年貢を納めても半分は他領の百姓の収益になるわけです。しかし、耕作してもらった方では、ただ耕作地が荒れることを予防する意義があっただけなのでしょうか。たとえばその他の公的な負担はどうしたのでしょうか。まだよく分からないところです。ともあれ、「軒数だけで言えば、東善養寺村の耕地で農作をおこなう百姓一二六軒のうち、じつに七七パーセントが他村の百姓だった」とは、とても驚きました。これで村としてやっていけるのでしょうか。また、こうした「枯村」的状況に対して川越藩前橋陣屋はどのような手を打ったのでしょうか。

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