尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

インド人が英語を喋ることに感心するような見当ちがい

2016-10-15 09:08:17 | 

 加藤周一「再び英語教育の問題について」(雑誌『世界』昭和三十一号二月号)を読んでいます。今回は最後の論点で、加藤の英語義務教育化批判に反対する人々全体に対する反批判です。その「人々」とは誰のことかというと、ほとんどが英語教育の専門家です。彼の批判は厳しいものです。

 ≪英語教育の専門家、つまり英語教師諸君は英語を知っていて、英語を実利実用に供したことのない特殊な立場の人間である。そのために、英語を苦労していくらか覚え、実利実用に供しているわれわれ一般の人間の気持ちがわからぬということもあるらしい。しかしそれはぜひわかっていただきたい。なぜなら英語教育は、英語教師のためにあるのではなく、英語教師が英語教育のためにあるのだからである。われわれ教育されてきたものの側からみての注文や感想は、その意味でいくらか値うちがあるかもしれない。われわれには英語を人に教えるだけでなく、自分で実地に使用した経験がある。もちろん経験の種類はちがう。学者は専門の文献をよむために、商人は取引き契約をするために、ジャーナリストはニューズをしるために、パンパン諸嬢は男をひきつけるために、──用途は無数だが、教室以外の実地の経験である点では一つであり、またおそらく、そこからひきだされる英語というものに対する感想も一つだろう。つまり日本語ですんだらどんなによいかということだ。やむをえないから莫大な時間と労力とを使って英語でやっているが、どうしてもやむを得ない場合でなかったら、これほどの時間と労力とを、他の日本人にはもう少し気の利いたことに使ってもらいたいということ、われわれが使っているのは必要だからで、おもしろいからではないということである。これは気もちの問題で、理くつの問題ではない。トマス・ペインは、すべての政府は必要悪であるといった。日本人の一部にとって外国語は必要悪である。その悪という気もちと経験とがなく、必要だけを正面に立てると話が理くつになってしまう。今までのところでは、余り上等の理くつにもおめにかかっていないが、そんなことはどうでもよい。私の目的はあげ足をとることではない。しかし仕事の上でやむをえず外国語を使い、これが日本語であったらどんなによいかと思う。その切実な感覚と裏づけなしに外国語のことを喋ると、たとえ理屈にまとまりがあってもつまらないことになるのだ。(中略)

 

 とにかく英語にかぎらず外国語を習うことは、母国語が日本語であるわれわれにとっては容易ではない。やる以上は使いものにしなければ時間が不経済だが、使いものにするためには、とても一週四時間現在の幼稚な教科書でやっていたのではだめであり、英語をよく知らない教師から習っていたのではだめであろう。第一、体操とか手工とか、そういうことは一切犠牲にしてつめこみ主義を徹底しうすっぺらな教科書の五六冊でなく、少なくともあの十倍を読まなくてはならない。新聞の社説もろくによめない程度で、国際的視野がどうのこうのと、御たくをならべてもし方がないと思う。第二、英語のほんとうにできる教師は英国人である。英語を教える学校では、教師の少くとも半分以上が英語を母国語とする教師でなければならない。そうして、簡単な思想の交換が耳と口でどうにかできるようにする必要があるだろう。国際会議が問題になるのはそれからの話だ。

 東京都教育庁指導主事は、「国際会議に出席した日本の代表はみな英語の必要を唱えている」といった。その必要をみたすことは日本人教師を以てしてはほとんど不可能にちかい。東京都外人教師をたくさん傭う予算を考えなければなるまい。アジアの指導者は英語をはなす。日本の指導者も云々という議論、──そういうあやふやな議論をするように、英語の片言を日本全国に組織的に普及させることに私は反対するのである。そういう議論をする人は、なぜアジアの国民のなかに、不幸にして英語を話さざるをえない人が多いかを考えてみたことがあるだろうか。いちばん大きな理由は、大英帝国の植民地支配がながく続いたからである。たとえばバンドン会議で、日本の代表が英語を操るのに困難を感じていたということは、英人記者も指摘している。しかし仏人記者もいったように「日本の影が全くうすれてしまった」のは、英語の問題などではない。インド人が英語を喋ることに感心するような見当ちがい、その見当ちがいを生み出すような「十年先を考えない短見」のためだろう。≫(川澄哲夫編『英語教育論争史』(大修館書店 一九七八 八三九~四一頁)

 

 引用は長い段落が三つありますが、一つめの段落中の「(英語を使わず)日本語ですんだらどんなによいか」の一節と、最後の段落の「インド人が英語を喋ることに感心するような見当ちがい」の一節は深くこころに残ります。後者は繰り返し読みました。今でもたまに「国際的視野」だの「国際会議」の度に、英語教育を向上させるべきだというという議論が聞えてきます。国際会議で英語が十分に使えないと感じたら、その当人が自分で英語力向上に力を尽くせばいいことです。なのに話は大きくなって、日本の子ども全体に必要であるかのよう.な議論になってしまう。そういう話をしながら、一部の利害があたかも全体の利害にかかわるような議論をしていることに気付かない。キレイゴト(共同幻想)への無自覚です。日本の教育論議はたいていこういう傾向をもっているといえないでしょうか。

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