尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

自分を守るために敬語をつかえ

2017-05-17 19:44:58 | 

前回(5/10)は、ようやく柳田國男が読者に伝えようとした敬語の本当の意味を探し当てるための手がかりを見つけました。そこを再度、その続きを含めて引用します。

 ≪以前は日本では男子の名は忌言葉で、他人にも口にさせまいがために、通称というものが設けられていたのである。喜兵衛がおりませぬのでとか、主人三河守(みかわのかみ)がかように申しましたとか、いっているうちはまだ良かった。実名の二字の名乗(なのり)を表に出している者が、それをやたらに呼ばれては堪(たま)ったものでない。この点などはたしかに関西方面の、うちの旦那はんがというのよりはもっとまずい趣味であった。今日はそれがほとんとすたれて、やはり呼棄てではあるが苗字をいうようになっている。そうしてまだ女房がわが亭主を様づけなどに人に語るのを聴くと、東京ではくすくすと笑うのである。≫(ちくま文庫版『柳田國男全集22』一四五〜六頁)

上の叙述に到るまでの柳田の文脈をおさらいしてみます。古代の敬語は、わずかの言葉をつけ加えるだけのシンプルな表現でした。しかし中世になると将軍の「御成」が契機となり家臣同士の社交が盛んになり、身分の高い者同士のあいだで敬語を使い出すようになります。たしかに同輩でも尊敬できる者はいましたが、主な動機は同輩だと思われることを嫌がった点にありました。それを見ていた下々の者たちがこれを「よい言葉遣い」だと誤解したのです。これがまた契機となって同輩・仲間同士で敬語(社交敬語)を使うことが広まり、果ては村人同士の関係にまで及びました。これは現代にまで及ぶ敬語の汎用化です。この汎用化は、会話相互の関係にとどまらず話題にのぼる第三者についても及んでいきました。たとえば、身内については敬語を使わないことが古くからの習慣でしたが、関西では人前で夫のことを話題にするときにも敬語が使われるようになっていきました。また関東の方でも夫を呼び棄てにすることが、上役に対する社交的な手段になっていきました。二つとも古くからの用法から見れば大きな逸脱した用法です。敬語からの逸脱ですから、敬語の効果は逓減(ていげん)していきます。このような状況は、敬語を学ぼうとする子供にとっては混乱でしかありません。そこで柳田は第三者に対する敬語を使うことも含めて「社交敬語」使用の停止を提案しているのです。

さてこのような文脈に、先に引用した一節を位置づけてみると、何が見えてくるでしょうか。引用の冒頭には、「以前は日本では男子の名は忌言葉で、他人にも口にさせまいがために、通称というものが設けられていた」と説かれています。忌言葉とは口にすることを回避する意味です。近世においては、「諱(いみな)」とよんで口にすることを憚る実名のことを意味していました。だからふだんはこの実名のかわりに通称を用いていたのです。ここで柳田は唐突に、通称を呼び棄てにすることまでは堪えられるが、「実名の二字の名乗(なのり)を表に出している者が、それをやたらに呼ばれては堪ったものでない」と書きつけています。つまり近代以降、だれもが「苗字(氏)」を持ち、その下に「名」をつけた「氏名」を名乗ることが制度化されました。その「名」に通称を用いようと実名を用いようと構わなかったのですが、実名を申告した人にとっては「堪ったものでない」と、こう代弁したのです。柳田は、勢いでこう書いたのか意図して書いたのかははっきりしないところですが、いったい何を言いたかったのでしょうか。

 まず、実名を口にすることもされることも回避したがるのはなぜなのか。これには諸説あって選択しにくいのですが、確からしく思われるのは実名が本人そのもの(「魂」)を表しているという、言霊(ことだま)思想の影響下にあるということです。この場合、名は体(実体、本質)を表すのです。これは現代でも忌言葉が種々見られるように、現在でも生きて働く民俗の一つです。つまり実名使用を回避する心持ちとは、自分自身の「魂」あるいは「本心」を奪われることを予防するという意味だと考えられます。簡単にいえば自分の身を守ることなのです。いったい誰から身を守るというのでしょうか。このことをハッキリ分からせてくれたのは、内田樹『街場の現代思想』(文春文庫 二〇〇九)です。

≪もうお分かりになっただろう。「敬語」というのは、「自分に災いをもたらすかもしれないもの」、権力を持つもの(その極端な例が鬼神や皇帝だ)と関係しないではすまされない局面で、「身体をよじって」、相手からの直接攻撃をやり過ごすための生存戦略のことだ。/若い人にとって「生きる」ということは、要するに「自分より力のある人間」(それは必ずしも「自分より賢明な人間」や「自分より善良な人間」ではない。ほとんどの場合、そうではない)に「こづき回される」という経験だ。命令され、訓導され、教育され、査定され、処罰される。(中略)/鬼神に向かったときに「本名をあかしてホイホイ返事をしてはならない」。それが「鬼神は敬してこれを遠ざく」ということである。だから、権力を持っている人間に対しては、「敬語」を使う。けっして「ふだんの自分のことば」では話さない。それは、激しくぶつかるものに対しては「緩衝材」をあてがい、熱い金属や冷たい雪には「手袋」をはめてふれるというのと同じことだ。そのような「道具」の使い方が上手な人は、かなり危険なものであっても巧みにコントロールできるし、それから致命的な害を被ることもない。≫(前掲書八三~六頁)

引用中「身をよじって」とは、漢字「敬」の意味です。さて、これで柳田が敬語の汎用化がどのように始まったのか、汎用化がいかに敬語の力を弱めることになるかを熱心に説き、さらに同輩や仲間のあいだで「社交敬語」を使うのを止めるように提案していたか、これで腑に落ちます。仲間での「社交敬語」を止めるべきもう一つの理由があります。本心を交換し合える場の確保、これです。柳田の隠されたメッセージは、「自分を守るために敬語をつかえ」ということだったのではないでしょうか。

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