尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

中島文雄「文学部の問題」

2016-11-26 08:15:41 | 

 前回(11/19)は、当時東京教育大学英文学の教授・福原麟太郎の「英文科の問題」(『英語青年』昭和三十六年十二月号)を紹介しました。そこでは、戦前の学問観を引きずるのをやめて、戦後の英文科は変化する必要があると主張されていました。すると、翌昭和三十七(一九六二)年に東大文学部長中島文雄が『英語教育』一月号に、「文学部の問題」を書いて福原麟太郎の議論には同感だ、ことは英文科にとどまらず文学部全体の問題だとして、文学部改革構想を提案します。短篇ですので、今回はこれを全文紹介します。

 

≪十二月の英語青年誌上で福原先生は「英文科の問題」を書いておられる。今の時代に昔の制度そのままの英文科は、「あまり専攻学科を守りすぎ、学究的でありすぎるよう思われる」とし、生活のための教養としての英文学を講じる必要を説いておられる。全く同感である。しかし、ことは単に英文科ばかりの問題ではなく、文学部全体の問題であるといえる。東大を例にとると文学部は十八学科に細分されている。戦後教育学科が学部として独立した以外には、ほとんど明治以来の制度を保存しているわけである。大学進学者が国民の中の選ばれた少数であり、文学部入学者が大部分学者か教師になった時代は、これでよかったが、新制度になって大学は高等普通教育の機関と化し、学問専攻者のためには大学院で schooling が行われるようになった現在、文学部のあり方は一考を要する。

 今文学部で学生の多いのは社会学科と英文科である。これは何も社会学者や英文学者になろうという学生が多いわけではなく、就職上有利と考えられているからである。就職といえばこの一、二年、文学部まで求人殺到で、新学士は専攻学科の区別なく、放送ジャーナリズムをはじめ、あらゆる生産会社、商事会社に入って行く。この傾向は今後も続くであろう。こういう現実を無視して専門学科の孤塁を守るのも一つの見識かも知れないが、むしろ積極的に文学部の教育を改革して、法学部や経済学部の卒業生とはちがったタイプの社会人を養成する方が賢明ではなかろうか。文学部こそ知的好奇心にとみ想像力の豊かな教養人を作るのに、もっともふさわしい場所なのではなかろうか。もちろん文学部の教師は、それぞれの専門分野における学者でなければならず、大学院においては学生を学者や教師に育成しなければならない。しかし新制度の学部においては、それとはちがった教育を考えてよいのではあるまいか。

 そこで私は、文学部の学科区分をもっと大まかなものにして哲学系文学系の諸学科を統合して人文学科とか教養学科とし、英文科などもその中に解消されてしまったらと考える。(大学院人文科学研究科に英語英文学専門課程を存続することは言うまでもない。)そして授業科目を何十単位か必修にし(外国語も何単位か必修にする必要があろう)、専門科目は選択にしておく。一般科目は老練の教授が担当する。こうすれば、まだ学問の何たるか知らない新制大学生も、知的興味をそそられ、広い教養を身につけると同時に、専門的研究にも進みうる能力を養われるであろう。その上で大学院へ進むものは将来大きく伸びる可能性をもっているし、実社会に出る文学士は、法経出身者や技術者とはちがった意義を持つ存在となりうるであろう。

現行の文学部の制度では、いきなり学生はどれかの専攻学科に所属させられ、その学科の指定する専門科目を何十単位も必修しなければならない。また教師の方も、各学界の学者がそろっているのに、セクショナリズムのために一向にその学識を教育面に生かしていない。まことに学生にとっても教師にとっても惜しいことである。≫(『史料 日本英文学史2 英語教育論争史』八六三~四頁)

 

 上の議論の前提になっているのは、一言でいえば、文学部の英文学科に限らず学者や教師になろうと思わない学生たちが増えてきたという時代状況です。いいかえれば、大学教育の大衆化の問題です。ある学問領域について学者や教師になることを選ばない学生の増加現象は、従来に比べてその学問領域に触れる若者たちが増えたということになります。そこで文学部長・中島文雄は、学問研究は大学院でやればよく、大学では履修しなければ科目を何十単位か必修 (外国語も何単位か必修にする) にしておいて、専門科目は選択科目にしておく。そして一般科目の方は老練の教授が担当する。こうすれば、新制大学の学生も、「知的興味をそそられ、広い教養を身につけると同時に、専門的研究にも進みうる能力を養われるであろう。その上で大学院へ進むものは将来大きく伸びる可能性をもっているし、実社会に出る文学士は、法経出身者や技術者とはちがった意義を持つ存在となりうるであろう」と書いています。つまり、専門学の下位に「一般教養」があってという構成です。これは世間にもよく知られている教育システムだと思いますが、一般教養科目を老練な教授に講義してもらえば、学生の知的興味が湧き、同時に広い教養を身につけることができるかと言えば、なかなかそうはいかないのは、戦後大学の種々の改革が証拠立てています。

 私の関心に引き戻せば、英語あるいは英文学を異文化として、その摂取・受容の問題としてみれば、専門領域もそうでない領域も等価です。異文化を分類するのに価値の上下はないはずです。ただ各自の興味関心に応じて摂取することができる多様な分野があればいい、つまり異文化は自由に学ばれなくてはならないはずのものです。そうすると、学問研究は勝手にやってもらっていいのですが、英文科学生にとっての一般教養とはどのようなものかが気になってきます。ただ、いろんな学問領域を広く学ぶといっても、そこに知的興味を持たせるには、授業内容に「入門期」的な配慮も必要になってくることでしょう。はてさて、異文化についての一般教養? 異文化摂取の大衆化? これをどう考えればいいのか。

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