尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

小説「唐人殺し」(珍説難波の夢)

2017-02-13 15:40:05 | 

 前回(2/6)は、一八世紀半ばから末にかけて演劇作品に現れる日本人の「相対的な意味での「日本人」意識」が、「母が日本人」という物語と結びつくと日本民衆のどのような朝鮮認識が得られるか、という著者(池内敏『「唐人殺し」の世界──近世民衆の朝鮮認識』臨川選書)の問題意識を考えました。そこでは、両者の結びつきを「過去の侵略行為の責任は現在の我々には及ばない」とする意識と「外国人に承認され賞められることが嬉しくて堪らない」物語の関係として捉え直せば、現在的課題であることに心づくのではないか、という私の意見を書きました。今回は、先の問題意識を当時の文芸作品(崔天宗殺害事件を脚色したもの)を素材にして考えてゆくと、どのような朝鮮認識が得られるか。著者の答えはもうすでに読んで知っているのですが、まだスッキリ理解出来ないでいます。そこで素材となった小説「唐人殺し」(珍説難波の夢)の内容をおさえておきたいと思います。第三章「唐人殺しの世界」の第四節「唐人殺し──創作の類(3)」で、著者自身によって紹介されているものです。

 

≪初めの舞台は長崎である。享保十九年、長崎丸山の千歳屋に千歳という評判の遊女がいた。千歳は朝鮮の商人桂彦と馴染になる。桂彦は、一年間の逗留ののち帰国することになった。帰国の日を明後日に控えた三月十五日、桂彦は翌春長崎へ戻ってくることを千歳に約束する。桂彦は懐に収めてあった紺地に丸亀模様の錦の袋から、金の鶏の目貫(メヌキ)を取り出した。雄鳥・雌鳥一対の目抜は桂彦の家々に代々伝わる重宝であった。いま雄鳥の目抜(ママ)を千歳に与え、自らは雌鳥の目抜(ママ)を所持しよう。それぞれが互いの形見として再会を期そうというのである。

 こうして桂彦は朝鮮に帰国するが、妻燕氏は夫の不在の間に桂彦の甥萬麗と密通していた。ところが桂彦帰国後は、燕氏は萬麗と会うこともままならない。あるとき桂彦が所用で硯石山へ出掛けた留守に燕氏は萬麗と密会し、桂彦を亡き者にしてしまおうとの相談を行なう.その際燕氏は、桂彦が家宝の「金の鶏の目貫」を常に懐にしていることを伝える。

 萬麗は硯石山へ赴き、家路に向かう桂彦を鉄砲で殺し、その死骸を海に投込み、帰宅する。

 その後、行方不明の桂彦を親類総出で一〇〇日余りも探すが見つからない.親族で評議した結果、跡式(アトシキ)は甥の萬麗にと決する。萬麗は桂彦と名を改め、誰憚りなく燕氏と密通する。桂彦(萬麗)は奪い取った雌鳥の目抜(ママ)を所持する一方、千両の銀子を献上して国王の中官トナリ、さらに日々金銀を献上して上々官にまで昇る。上々官となった桂彦(萬麗)は名を崔天宗と改める。

 そのころ長崎の千歳は桂彦の男子を出産し、千太郎と名付けていた。桂彦との再会を約束した春に、朝鮮からは数百艘の船が渡海してきたものの、桂彦の姿はなかった。そんなある夜、千歳の枕元に桂彦が現れる。(中略)

 夢枕に立った桂彦は、帰国してから殺害されるまでの一部始終を具に述べた。そして、桂彦の命を奪ったのが甥萬麗であり、今は国王の上官となり崔天宗と名乗っていること、千歳の生んだ男子が唯一桂彦の血筋を継いだ者であり、その千太郎の手で自らの妄執を晴らしてほしいこと。こうしたことを千歳に願ったのである。おおよそ現実に知りえようはずもないことが、夢を介して千歳に伝えられた。千歳は桂彦の敵を討とうと心に決める。

 そうした折り、対馬藩通詞約鈴木伝右衛門が公用で長崎に逗留し、千歳に惚れて身請けを申し出る。躊躇(タメラ)っている千歳に対し、伝右衛門は千太郎を養子にして育てようと言う。この言葉に、千歳は伝右衛門に身を預けることを決める。

 千太郎が一五歳になると、伝右衛門は約束通り養子とした。千太郎は伝蔵と改名し、日々武芸の稽古に精を出した。やがて伝右衛門が没すると、伝蔵は跡を継いで対馬藩通詞となった。一方、千歳は髪を切って名を貞教と改める。

 貞教はやがて病に伏したが、病の床で伝蔵に実父のことを語る。実父は朝鮮の桂彦という人で、今は崔天宗と名乗る甥によって殺害されたこと、父の敵を討って欲しいこと、そのために武芸の修練をさせてきたこと、等々。そして千歳は、朝鮮人で日本へやってきた者のなかに崔天宗なる人物がいたならば、敵を討って父の霊前に供えよと伝蔵に語り、桂彦の形見「金の鶏の目貫」を託した。伝蔵は母の遺言を守り、明け暮れ崔天宗が渡海して来ることと、自らの手で敵を討つことを念願し続けた。

 そうした宝暦一四年二月、将軍の代替りを祝賀する朝鮮通信使が渡海してきた。鈴木伝蔵は通詞として随行し、通信使一行のなかに上々官崔天宗という人物を見付けだした。心密かに喜んだ伝蔵は、敵であるとの確証を得たならば大坂で敵を討とうと心に決める。

 江戸の宿所浅草本願寺において、伝蔵は崔天宗が所持する「金の鶏の目貫」を見る機会を得た。伝蔵はこれを一時預かり、自らの所持する目貫と一対のものと確認し、くだんの人物が父の敵であると確信した。ほどなく、帰国の途上大坂東本願寺へ到着する。来る四月四日は母の命日でもあった。伝蔵はこの日子刻、伝蔵は刀・脇差とともに柄(ツカ)の中ほどから切った鑓をもち、崔天宗の居間に忍び込んだ。それと気付いた崔天宗は「己は通詞の伝蔵よな。我が金銀奪はん為めに、唯今こゝに来りしか」と声をあげる。これに対して伝蔵は父母のことを語り、父の敵討のためにやってきたことを述べる。「いったい何を根拠に」と反問する崔天宗に対し、伝蔵は「金の雄鶏の目貫」をカザして見せた。

 そして両者は剣をとって争うが、崔天宗の剣が鴨居に突きささって抜けなくなった隙に、伝蔵は懐に入れておいた鎗で崔天宗の腹を突き刺した。(中略)

 伝蔵が崩れ落ちた崔天宗に止めを刺そうとしたところ、崔天宗が最期にひとこと懺悔したいと起き直る。「伝蔵も自分もいずれも父は朝鮮人だ。そうでありながら、自らは色欲に迷って伯父を殺害し、伝蔵は父の仇敵を討つためにひたすら苦労を重ねてきた。同じ朝鮮人の血筋を引きながら、母親が日本人であればこうまで違ってくるものなのか」というのである。そして座り直して自らの首を父の霊前に供えよとする崔天宗に、伝蔵はこれまでの恨みも晴れた心地がした。伝蔵は敵討ちであることを他言しないと誓って崔天宗を殺害する。

 やがて騒ぎに気付いた朝鮮人たちが参集し、「崔天宗を討ちたるは通詞の伝蔵」と叫びながら伝蔵に取り掛かろうとする。これに対し伝蔵は、「彼奴等の手に掛からんは日本の恥なり」とつぶやき、朝鮮人を左右に追い散らし行方をくらます。

 伝蔵は東本願寺から一里ほど東の小長谷まで逃れ、そこで雌雄の目貫と崔天宗の首とを朝鮮の方向に向けて父母の霊に供える。そして伝蔵は、今回首尾よく本望を達しえたのは「養父の厚恩」と「日本の神祇別けて曽我の神力にあるとして、富士山の方角を伏し拝みつつ、明け方まで念仏を唱え続けた。

 翌四月六日、鈴木伝蔵は自ら進んで大坂町奉行所へ行き「お尋ねの者惨状仕り候」と述べて神妙に刀を渡し、ただちに揚り屋に入れられる。その後厳しい詮議に遭うが、伝蔵は崔天宗殺害の理由を明かすことはなかった。五月二日、大坂木津川口蘆島で死刑に処せられる。「伝蔵行年三十歳を一期として、尸(シカバネ)を蘆島の土に埋めて難波の夢と消えにけり」という一行がこの小説の結びである。≫(前掲書 一〇八~十三頁)

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