尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

戦時下で「晴れの言葉」をどう口にするか

2017-01-25 12:18:29 | 

 前回(1/18)は、柳田國男「昔の国語教育」第七節「物言うすべ」に入りました。世の中には「他に対して必ず言わねばならぬ」言葉の種類があり、生涯でまず早く接する「神仏を拝む言葉」、ついで「正月とか盆・節供、または改まった式日など」における物言うすべについて柳田の説くところを紹介しました。前者では子供でも口にできる簡単な言葉が選ばれ、これはまた大人用でもあったこと、逆に後者では子供がちっとも分からない難しい言葉が選ばれていますが、それを覚えてしまうことは世の中の奥深さに心づかせるチャンスだったこと、こんな経験があればこそ学校に通うようになって難しい内容にも関心を持たせる習慣を養ったことが説いてありました。

 今回はその続きです。「他に対して必ず言わねばならぬ」言葉はまだあります。「一生の大事の聟入り・嫁入り」に際しての言葉です。我が父母に対する別れの物言いではありません。これならば「沈黙の言葉」でも伝わり、相手の目を見ればわかります。しかし嫁入り先・婿入り先で沈黙を通すことは難しい。個々の実地に適応した物言い(挨拶等)をどうするか。独自の器量才覚で対処できる者を除けば、たいていは決まり文句の真似で済ませることができます。このように世間入りに先立って物言うすべを身につけておくかどうかは、本人の評判にかかわる大事なことだったようです。ところが時代は昔からの決まり文句では対処できなくなってきました。ここには時代の変化があったのです。

 ここで念頭に置いておきたいのは、柳田國男が「昔の国語教育」を発表した時代です。この長編は一九三七年(昭和十二年七月)『岩波講座国語教育』の一冊として「国語史」の巻に収録され刊行されました。一方中国大陸では同年同月七日に廬溝橋事件が起き、これを契機に日本の全面的な中国侵略戦争が始まります。この戦争は軍の思惑を越えて長期化し、一九四一年(昭和十六)日本は太平洋戦争に突入することになります。日中戦争の前哨戦は一九三一年(昭和六)の満州事変に始まっていますから、一九三一~三七年の七年間は、きな臭い時代のニオイは否応なく柳田が「昔の国語教育」を執筆する動機や内容に影響を与えていたと考えてよいと思います。──もちろんこの講座がどのような趣旨で刊行されたのか調べてみなければなりませんが──次第に戦時体制に巻き込まれてゆく日本国民の「物言い」はどう考えるべきなのか、彼が考えないはずはないのです。ですから「他に対して必ず言わねばならぬ」場面は、戦時下という時代を下敷きに読み取る必要があります。必ずしも記述上どこどこにその影響が現れていると指摘できなくても、このような構えは必要な作法だと思います。あえて戦時下という影響を指摘してみれば、下線を引いた個所になります。

 

≪多数の男女は相応の年配になって、幾分か物恥じの念も薄らいだ頃に、厚顔も手伝って、ようよう人の前で笑われぬ口がきけるようになる。すなわちすでに世の中へ出てから後に、なおこの修業のためにたくさんのうき目を積むらしいのである。それを当たり前だとも唯一の手段だとも、思っている者のないことは、自分の子や孫のためには機を揉(も)んで、どうか今少し早くこの種の国語教育を卒業するように、皆々希望しているのを見てもわかる。実際この大切なかつ短い一生に、そんなことまでしていては割振(ワリフリ)が付かない。ことに有効にまた無邪気に、何でも学び得られる少年時代に、管理している学校という機関に、できるものならその任務の全部を引き受けてもらいたいと思うのは人情と言ってよい。それが果して無法なる注文である。やっぱり世間へ出てもなお当分の間は、啞(おし)かと思うほどもじもじしていたり、しからざればただ横着(おうちゃく)を資本に、平気でおかしなことをいっていて、笑われて少しずつ改良して行くのほかはないの。ただしはまたこれにも方法はあって、おおよそ間に合うだけは学校の教育の中で、何とか始末を付ける途があるのである。いかなる境涯で大きくなる児童にも、必ず一度は起るべき問題であるゆえに、どうか斯道(しどう:この分野)の関係者は、こころを潜めて今一度、そんなら以前はどうしていたかを、注意してもらいたいと思う。

 もの言うすべもろくに知らないという批評は、かなり検束(ケンソク:そくばく)のないおしゃべりの男女に向っても下されている。すなわち親しい者だけの間で勝手に言いたいことを、言うこともできないという意味ではないのである。我々はこれを晴れの言葉ともいっているが、そういう総称もほぼ当っていると思う。これを解説すれば時と場合に応じ、知る知らぬにかかわらず人の前に出て、言うべきことを言いまた言うべきことだけしか言わぬという加減の技術である。それは本来は個人の判断をもって取捨してよいものであったろうが、歴代の社交道はすでに一定の法則を作り設け、煩わしいばかりの辞令の型ができていた。そうしてその予想に少しでも反すれば、蔭でか正面でか、必ず嘲笑(ちょうしょう)せられずにはすまなかった。(中略)晴の言葉の入用は毎日起り、その種類は数十倍に増加している。一つ一つの規範は設けがたいことになった。真似は誤っておらぬ場合にも、手本がぐらついているのだから滑稽なことが多い。こういう状態に処する最も賢い方法は、根本に立ち戻って心の姿を省み、それをどうすれば最も安らかに、またありのままに表白し得るかを、各自に考案させるより他は在るまいと思うのだが、それは今のところただ一つの理想というに止まり、そういう練習をするだけの手段が、不幸にしてまだ備わっていない。しかも旧時代の慣行にも、この点にかけては参考とすべきものがはなはだ尠(すく)ないのである。将来の国語教育の最もむつかしくかつ大きな問題は、どうやらこの方面に潜んでいるらしく私には感じられる。≫(柳田國男「昔の国語教育」一九三七/ちくま文庫版『柳田國男全集』第二二巻 一一六~八頁)

 

 引用の前段冒頭において、柳田は世の中に出ていく若者の話をしています。それが「実際この大切なかつ短い一生」という書き方が、まず出征してゆく若者の姿を彷彿とさせます。同じ前段末での柳田の反語「か」には、尋常ならざる雰囲気を感じます。柳田には珍しい書きぶりです。世の中が戦時下になれば人の生き死にかかわることですから、戦争を話題にする公私の機会は爆発的に増えてゆくことでしょう。しかし反対にそれを本音で語れる場所は減少してゆかざるをえなくなることは容易に想像できます。やがて公共の場で「他に対して必ず言わねばならぬ」機会はだれにでもやってきて、「晴の言葉」をどう口にすればいいのか、従来のお手本では対処できなくなってきます。

 引用の後段です。「親しい者だけの間で勝手に言いたいことを、言うこともできない」という一節は、わざわざ入れなくても意味は通じます。柳田はこれで「今の時代」に在ることを喚起したかったと思えます。物言いが自由にいえなくなる時代の到来のことです。そのような場で口にしなければならない物言いをどう考えればいいのか。その原則が二つ記されています。太字にした箇所です。一つめは「晴の言葉づかい」の定義です。すなわち、時と場合に応じ、知る知らぬにかかわらず人の前に出て、言うべきことを言いまた言うべきことだけしか言わぬという加減の技術、これが晴れの言葉づかいの定義です。次に、このような技術をどう身につけてゆくか、その方法論が必要になります。すなわち、根本に立ち戻って心の姿を省み、それをどうすれば最も安らかに、またありのままに表白し得るか、これが二つめの原則です。我が意を得たり、いうべきか。後者は「ハラの言葉」をどうやって「アタマの言葉」にしてゆくかを語る根本原則とみなしていいものです。戦時下でなくても通用する原則だと心づきます。

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