尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

敬語とは何かという疑問

2017-05-03 06:30:17 | 
前回(4/26)は所用で休みました。前々回は柳田國男「敬語と児童」の第六節を読み、思うことを綴ってみましたが、少し先走りしたために叙述が混乱しているので、先ほど訂正しておきました。私の「先走り」というのは、なぜ「敬語と児童」が昭和十三年という年に執筆されたのかという疑問のことです。ズバリ言ってしまえば、国家総動員体制と児童の敬語問題との関係です。それに心づく一歩手前だったことが筆を走らせたと言い訳しておきます。もう少し柳田の説くところを追って根拠になりそうな箇所にであったら綴ってみようと思います。
さて、訂正した前回のブログでは、敬語使用が仲間うちに広がることがどのような問題を惹起しているか(「社交用敬語」の普及問題)、その問題解決のために柳田はどんな処方箋を用意したのか、という話でした。 処方箋は「社交用敬語」の使用を止めることです。言い方を変えると、仲間同士では「良い言葉」を使わなくても良いのだという提言です。ではこの提言は、間接敬語においても有効なのかどうか、今回はここを読み取ります。


《様は上代には全く見られない、新たな敬称であることは誰も知っているが、今日はそれが殿よりもなお上等な、特に大切な呼び方となっていて、しかもとんでもないものにまで適用せられている。この点にかけては関西は幾分か行き過ぎ、豆さんだのお芋(いも)さんだのいう語の都鄙(とひ)に及んでいるのにはびっくりする。盆さま、正月様や二十三夜様の類は、この日待つらるる神があることを考えると理由もほぼわかり、炉(ろ)の鉤(かぎ)をかぎ様、竃(かまど)をおくどさんというなども、現にまだ拝んでいる者が少しはあるのだし、粥(かゆ)をおかいさん、絵をええさんなどというのも、今は理由がないがそういい始めた起りだけは察せられる。豆・芋に至ってはまったく見当もつかぬ話だが、少なくとも濫用の最も烈(はげ)しかった時代の産物であることと、これが主として少年少女を、間接の聴き手としていた造語であることは察せられる。敬語は要するにその拡張によって、少なからず効果を低めかつ印象を散漫にしているのである。新たに児童に対してその使用を慫慂(しょうよう)せんとする人々は、ぜひとも思いをこの点に潜めて、国民の言葉を空々しいものにせぬように警戒しなければならぬ。》(ちくま文庫版『柳田國男全集』第二十二巻 一四三〜四頁)

いわゆる敬語は、同輩や仲間に対してだけでなく身近な民俗行事やものにまで「様」が付けられていること、これまた敬語の濫用だと述べています。そして濫用はまた敬語の効果を低めています。児童に敬語を勧めようとするものは、濫用がその効果を低めていることに自覚的せなければならない、敬語は汎用されればされるほど、その効果が低くなるという矛盾に気づけ、こう言っています。次の段落に行きましょう。

《それから今一つ、これも私たちの聞き遁(の)がせない近世風は、関東の田舎者が相手の身うちや尊敬している者について、盛んに平語を使用して意とせぬのとは正反対に、上方へ行くと相応の教育ある婦人までが、わが親わが亭主への敬語を人に聴かせる。「うちのおかあはんがこう言いやはります」などは、新嫁の姑(しゅうとめ)に対する心づかいとも同情せられるが、それにしたところが満足なる辞令とは聴き取れない。以前はこの点についても若干の工夫(くふう)がめぐらされていた。たとえば相手を心安い、言わば敬語を用いずともよいくらいの人々に限り、しかも幾つかある敬語の最下級のものを、つつましやかに使っていたようで、この例ならば近松の浄瑠璃(じょうるり)、あるいはもっと以前の文献からも拾い出されるかと思う。今日の間接敬語のごときは、どうやらその見堺(みさか)いがなくなっているのである。そうして奇抜なことに今日の小学校の国語教育が、全然この上方(かみがた)の自尊主義を支持し、もしくは踏襲しているのである。お蔭で口髭(くちひげ)のある堂々たる男の中に、そういう甘ったるいことをいう者が大分できた。》(柳田前掲書 一四三〜四頁)

東日本は別にして、西日本では会話中に出てくる身内の者に対して敬語を使っている。しかも小学校の国語教育が支持している。これらは柳田の文脈からいえば、当然敬語の濫用に当たります。ここで一つの疑念が湧いて来ます。柳田においてこれほど濫用が戒められているのは、もちろん敬語の効果を十分に発揮させたいからだという動機が考えられます。敬語の「敬」の対象は地域の信望をあつめる神様であり、この時代では天皇こそ究極の尊敬の対象でしょう。であれば、この時代、世の中は天皇をてっぺんに頂いて敬意を表しつつ一丸となって戦時に対応していかなくてはならない。とすれば、天皇や神様への尊敬の気持ちはすでに十分に発揮されているのではないか。こんな疑問がやってきます。それなのに、柳田国男が敬語の効果を十分に発揮させるためにその濫用を停止することを提言する論文をわざわざ執筆するだろうか。・・・もしかしたら、私の念頭にある「敬意」や「尊敬」そして「敬語」と、柳田のそれとは意味内容が異なっているのではないか。

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