尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

英文科出身の英語教師では産業界の要望に応えられない?

2016-10-22 11:51:31 | 

 川澄哲夫編著『英語教育論争史』(大修館書店 一九七八)における「第七章 戦後の論争」は、今回から「4 大学の英語教育」の論争に入ります。川澄哲夫氏はその「解説」を次のように書きだしています。引用で、加藤周一の論文とは最初の「信州の旅から──英語の義務教育化に対する疑問」のことです。

 

≪加藤周一の論文が『世界』に載るおよそ一ヶ月ほど前の昭和三十年(一九五五)十二月十二日に、「新制大学卒業者の英語の学力に対する産業界の希望」と題する要望書が、日本経営者連名から語学研究所に届いた。語研は、昭和三十一年秋の大会に先だって、実業界及び学界に、英語教育に関する意見を求めていたが、これはその回答の一つであった。

 要望書の内容は六項目からなり、(一)基礎学力の充実、(二)語学と専門知識を結びつけた教育、(三)就職後外国文献を読みこなす程度の語学力の素養、(四)会話力を身につける、(五)語学を絶えず勉強するという習慣をつける、(六)中学校、高等学校、大学と一貫性を持った語学教育を要望する、というものであった。日経連は、一流会社を受験する新制大学卒業生の英語の実力があまりに劣っていたことから、このような意見を提出することになったものである。

 一方、学界が要求したものは英語を読む力であった。日本は欧米の進歩した自然科学の成果を早急に吸収する必要がある。そのためには外国の研究書や文献を読まなければならない。そこで英語を早く読む能力があらゆる研究者に欠かせない、という理由からであった。≫(前掲書 七九〇~七九一頁)

 

 これら実業界と学界からの要望をめぐって、さっそく『学燈』誌上で一つの論争が始まります。最初に反応したのは林碧蘿(日大教授)でした。彼は同誌の昭和三十一年二月号に、「大学教育のありかた」を発表します。ここで林は産業界の要望を実現するのに、一つの大きな困難は英文科出身の英語教師だと書きます。いったい英文科出身のどこが問題だというのでしょうか。(漢字と仮名遣いを現代風に変えて引用します)

 

≪・・・現今の英語教師は大部分英文学部の出身者であって大体十九世紀までの英語を主とするOEDを宗として英文学を学んで来た人々である。従って従来用いたテキストは比較的古い英語で且つあまりに文学的であつた。戦後大学用として出版される教科書のリストを見ると、各社競ってコピーライトをとって現代英語と非文学書を採用せんとする傾向が見えて来た。しかし文学の専攻者が果してどの程度まで非文学書を購読し得るかは疑わしい。というのはその注釈を見ると良く理解してつけたと思われぬものも少なくないからである。只一つだけ顕著な実例をあげるとprivate banking consernを注して『民間銀行で、国立銀行に対するもの』としてある。英国に国立銀行なんかありはしない。この一事をもってしても斯ういう方面についての無知の程度が推量されるだろう。蓋しこれらの人々が一通り政治外交財政経済科学通ずることを望むのは過分なのである。端的に云えば、シェーキスピア、ミルトン、ギッシングは読めるが、「タイムズ、「エコノミスト」、「ニューステイツマン」は読めないし、平生読んでもいないのであろう。近頃「ニューステイツマン」誌を購読し出した者もあるらしいが、その内にはCrossman Cole,Martinの何人だかさえ知らぬ者もいる。も一つ他の方面から一般科的無知の例を引けば、英和辞典は専ら英語英文学者の編集するところであるが、British Common wealth of Nations(イギリス連邦)が『大英共和国』であり、Lloyd’s Register(ロイド船級協会)が海上保険の契約を取り、machine tool(工作機械)が「機械を作る工具」であったりする。また和英辞典でも、筆者の知る限りにおいては、『黙秘権を行使する』を的確に示しているものは一つもない。その他、実績、二部教授、下馬評などの対訳でも我々が英国の新聞雑誌でお目にかかるものとはちがっているようである。

 然らば日経連意見書の希望第二項である語学と専門知識とを結びつけることは如何であろうか。若しそれがそれが出来れば英文学部出身の教師に専門知識を要求する無理を除けるわけでまことに結構であろう。しかし現実は若い助教授達は語学力が不足で、自家の専門書すら十分に読みこなすことのできない者も少なく、多少とも之を語学的に講述することなどは不可能に近いとさえ云われる。そういう老教授達の評言がどの程度まで真実であるかは素より筆者には不明であるけれども、外国専門雑誌の未着に対して一枚の簡単な督促状すら書けない者もあるのを見ると、それは老人の若者非難癖ばかりとも云えぬかもしれない。≫(前掲書 八四七~八頁)

 

 抜書きしていてホトホト嫌になってしまいました。これを読んだ英文学科出身の英語教師はおそらく相当怒ったのではないでしょうか。そのうちの心ある英語教師ならば、出身学科にかかわらず理科系の大学生に教えるならば、彼らの要求に応じた教材研究をして臨むのが当然だと考えていただろうし、大学の英語教師として報酬を得ている以上、ふだんからそのような自主研修をやるのは当たり前の心掛けと考えるにちがいない。それとも昭和三十年代の大学の英語教師は、自分の専門以外では授業しないと高をくくっていられる身分だったのだろうか。だとしたら、そんな教師は辞めてもらえばいいのではないか。だから、林碧蘿(日大教授)がどんなに英文学科出身の英語教師の無知をあげつらおうと、その述べている内容は、純然たる学内問題なのではないだろうか。学内教授陣の適性配置の問題なのではないか。ここでも一部の問題(だと思える事柄)をいかにも全員の問題であるかのように語る無意識の「偽装」が見られます。この偽装あるいは勘違いはもちろん日経連の要望をまとめあげた連中にも存在します。敢えて大学一般のの英語教師の低レベルを問題にしたいのならば、加藤周一ならばこう言ったにちがいない。──── だから言わんこっちゃない。将来大学の英語教師になろうとするぐらいの者なら、中学英語の義務教育化なぞやめて徹底的に若いうちから鍛えればよかったではないか。そういう志望のない者には英語などよりも教えておくべき大切な教科があるではないか、と。


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