尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

「入百姓」で負担が増えたのは誰だろうか

2017-05-18 05:52:37 | 
前回(5/11)は、文政二年の前橋藩勧農役所による「上り地」のための「御雇人」仕法が失敗に終り、二年後には「入百姓」仕法に変更になったこと、仕法の変更にともなって八右衛門ら勧農役所の野廻り役は、百姓引越しの手配を命じられました。八右衛門らは信州方面に引越百姓を探しにでかけたわけですが、ついに松本藩預かりの天領に「潮沢村」を見つけ出します。この村を地図で確認したところ、現在の長野県安曇野市の「明科東川手(あかしなひがしかわて)」地区らしいことが分かりました。ここは松本駅から篠ノ井線の二つ目の明科駅付近から北東方面に谷あいを国道403号線で北上すると、今でも近世の「潮沢」を構成する竹の花、矢下沢、矢越などの集落名が見つかります。(などとバーチャルで書いてしまいました)。さて今回は、移住を希望する百姓が住む「潮沢」と引越手続きの話です。


《文政四年に八右衛門と忠次が訪れたときの印象も、「難渋」な土地柄、という印象であった。それは、八右衛門が利根川流域の前橋領で体験している「枯村」の難儀さとは、性質の異なる「難渋」さであった。聞くと、潮沢村は石高一七〇石で、百姓軒数が一七〇軒あるという。山地だから村の面積は大きいが、劣悪な山畑ばかりのためようやく一七〇石にしかならないのである。一軒あたりの人数がどれほど少なくても、軒数が多いのだから惣人数は多くなる。一軒平均一石では、「渡世難渋」するのも当然であろう。村の百姓は暮しの活路を商いに見いだそうとしているが、このような山中ではさしたる余慶(よけい:先祖の善行のおかげで子孫が得る幸福)も生まない。平地もなく、田はなく、煙草だけが産物である。これを、一里ほど北にある煙草の名産地生坂(いくさか)村へ運んで売りさばく。軒数・人数が多いために、劣悪であるのにこの村の土地は高い。一坪に一八文もするところがあるらしい。耕作はしたいが借地もできない者がいる。

このようなところでこそ、家族ぐるみ移住したいという百姓がみつかるのではあるまいか。八右衛門らがさぐってみると、じつはこの地の村役人も困り果てており、「一村にて二十軒」ずつくらいは減らしたいと願っていることがわかった。それに、地頭所ではいちおう「百姓家内切他出(かないきりたしゅつ)」、つまり家族ぐるみの領外移住を厳禁するというたてまえをとっていたが、ここでは耕作者の過剰による難渋はあっても、八右衛門の村のように耕作放棄による荒地というものはなく、したがって土地のすべてからひとまず年貢はとれていたから、「御法度(ごはっと)一通りにて」(巻之一)、とりたてて詮議が行われるということもなかった。過疎ではなく過密が問題であったのである。ここまで知った八右衛門らは、村役人にも知らせず、点在する小集落をめぐって個別に引越しの交渉を始めた。予想した以上につよい反応があって、わずかのあいだに四六軒もの引越しの約諾(やくだく)をとることができた。

八右衛門は、四六軒の引越百姓を集めて、前橋の勧農役所から指示されていたとおりに引越しにあたっての心得を申しきかせている。
(1)御田地はめいめいの望みどおりに御領主からいくらでも下されること。
(2)三年間は無年貢の作り取(ど)りであること。
(3)家は一軒ずつ、道具・農具も不自由のないように渡されること。
(4)食料は一人につき麦八合、米三合ずつ、女・子供は少し減じ一年目の収穫があるまではこの割合で貸し渡されること。
(5)借金のあるものは、国元を立ちのくに際して申しでれば少々なら貸し渡されること。
(6)上州への路用も、家族数の多少にしたがって貸し出されること。
(7)しかし、道具・農具から路用にいたるまでのすべての費用は、国元の親類かまたは身元の確かな者が「借人」になって証文をつくり、引越しの者が向こう三年間に無年貢で作り取りにしたうちから御領主に返済すべきこと。もし怠けたりして三年間のうちに返納できず逃亡した場合は、「借人」になった者はかならず返済すべきこと。

この心得をみると、年貢負担者の確保と増大のために元手はだすがけっして損はしない、という藩の方針が第七項目に如実にあらわれている。だが、潮沢川ぞいの山間にあえいでいる極零細の百姓たちにとってはどのような条件であれ、見知らぬ土地であれ、一軒前の百姓をとして立ちいけるというのであれば、なんの不服があろうか。不服どころか、じつに魅力的な移住条件だったろう。八右衛門の話を聞いて引越しを思いとどまった者はいなかった。「銘々喜悦いたし引越しける」(巻之一)と八右衛門が記したのは誇張ではなかったと思われる。

前橋役所は、さらに手ぬかりなかった。というのは、前橋領に引越百姓をうけいれるにあたっては、荒地の多くある村々に命じて村の負担で家を作らせ、そこに入百姓を割りふって住居させたのである。結局「枯村」の百姓の莫大な物入りになった。》(深谷克己『八右衛門・兵助・伴助』朝日新聞社 一九七八 三八〜四〇頁)



まさに「おためごかし」そのものです。藩は損しない仕組みになっていて、七項目は「入百姓」実施要項ともいうべきか。ここで一つ疑問があります。「借人」とは今で言う連帯責任を義務付けられた「保証人」のことだとすれば、督促の便から考えても、移住者の国元信州の者にではなく、移住先の前橋藩領の有力者にお願いするということになります。その辺の問題で、「借人」が付かないという事態は発生しなかったのでしょうか。たとえ付いても、「借人」は前橋領分の民間有力者ということになれば、もし返済できなければ、有力者と貧窮者とに農民層分解した以前と変わらぬ社会関係が再生産されることになります。返済時には低利にするとか藩権力による取り決めとかなかったのでしょうか。

もう一つは、信州の山間から移住させて群馬前橋で米作りをさせたいというけれど、彼らはたった三年で年貢が納められるほどの百姓になれるのだろうか、という心配があります。例えば東善養寺村の百姓が教えてくれるにしても、移住者のための家屋も作ってやらなければなりません。負担が大きくなるばかりです。

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